Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
第20章の試訳のつづき。
——
第20章・判決(Judgement)。
第一節②。
(09) このことはたしかに、従前の共産党員で構成されているロシア政府にとっては役に立った。
しかし、ソヴィエト体制の悪行を処理する法的枠組なくしては、共産党エリートたちがトップへと復活するのを防ぐことができなかった。
ソヴィエト時代の活動を本当に吟味されることが省略されて、KGBはYeltsin によって1991年に、連邦反諜報活動部として再生するのが許され、4年後には、連邦治安機構(Federal Security Service, FSB)となった。人員には実質的な変化がなかった。
民主主義政治家や人権運動家のGalina Starovoytova が提案した浄化法案は、ロシア議会によって却下された。党の一等書紀とKGB官僚が政府の官職に就くのを一時的にだけ制限するものだったが。(この却下のあとでは、KGB員の存在は国家機密と見なすことによって、浄化を導入するさらなる努力が排除された。)
Starovoytova は、1998年に暗殺された。言われるところでは、FSB によって。//
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(10) 彼女の浄化法案を成立させなかったことで、Yeltsin 政権はソヴィエトの過去ときっぱりと決別して民主主義の文化を促進する機会を失った。—最良の機会だっただろうが。
独裁制から出現する民主政では、正義がすぐに現れるか、または全く現れない。
実際に生じたように、かつての共産党エリートたちは、1991年の衝撃から新しい政治的一体性をもってすぐに立ち直り、政治、メディア、経済を支配する力を回復した、それは、ソヴィエト時代に—またはその後に—彼らが行ったかもしれない全てについて何がしかの説明をさせようとする試みを阻止するのに十分だった。//
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(11) しかし、どのロシアの裁判所や検察官も、どのようにして誰を訴追したり、誰に官職就任を禁止したりするかを決定するのだろうか?
おそらくロシアの状況は、何らかの判断が下されるためにはあまりにも複雑だった。
東ヨーロッパとバルト諸国では、共産党独裁制は外国人によって課されていた。
これらではナショナリスト指導者たちがソヴィエト時代の悪行を理由としてロシアを(かつロシア革命を)非難するのは容易で、かつ便利だった。
彼らは、自分たちをロシア人と区別することで、新しい国家と民族的一体性(national identity)を構築することができた。(エストニアとラトヴィアでは、人数は多いロシア少数民族派は公民権に関するきわめて厳格な法制によって公的生活から排除された。)
しかし、ロシア人には、非難することのできる外国勢力がいなかった。
革命は、ロシアの土壌から成長した。
数百万のロシア人が共産党員であり、事実上は全ての者が何らかのかたちでソヴィエト体制に協力していた。
「抑圧の犠牲者たち」を代表する最大の公的組織であるMemorial の構成員の中には、ボルシェヴィキ・エリート、収容所の幹部、ソヴィエト官僚—自分たちを抑圧したスターリン主義体制の活動家たち—の子どもたちがいた。
この意味では、党の裁判で判決が下される必要があったのは、革命の犯罪を実行した者たちだけでなく、その者たちに寄り添ってきた全国民(whole nation)だった。
Alexander Yakovlev が当時に述べたように、「我々は、党ではなく、我々自身を裁いている」。(後注4)
——
第一節、終わり。
第20章の試訳のつづき。
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第20章・判決(Judgement)。
第一節②。
(09) このことはたしかに、従前の共産党員で構成されているロシア政府にとっては役に立った。
しかし、ソヴィエト体制の悪行を処理する法的枠組なくしては、共産党エリートたちがトップへと復活するのを防ぐことができなかった。
ソヴィエト時代の活動を本当に吟味されることが省略されて、KGBはYeltsin によって1991年に、連邦反諜報活動部として再生するのが許され、4年後には、連邦治安機構(Federal Security Service, FSB)となった。人員には実質的な変化がなかった。
民主主義政治家や人権運動家のGalina Starovoytova が提案した浄化法案は、ロシア議会によって却下された。党の一等書紀とKGB官僚が政府の官職に就くのを一時的にだけ制限するものだったが。(この却下のあとでは、KGB員の存在は国家機密と見なすことによって、浄化を導入するさらなる努力が排除された。)
Starovoytova は、1998年に暗殺された。言われるところでは、FSB によって。//
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(10) 彼女の浄化法案を成立させなかったことで、Yeltsin 政権はソヴィエトの過去ときっぱりと決別して民主主義の文化を促進する機会を失った。—最良の機会だっただろうが。
独裁制から出現する民主政では、正義がすぐに現れるか、または全く現れない。
実際に生じたように、かつての共産党エリートたちは、1991年の衝撃から新しい政治的一体性をもってすぐに立ち直り、政治、メディア、経済を支配する力を回復した、それは、ソヴィエト時代に—またはその後に—彼らが行ったかもしれない全てについて何がしかの説明をさせようとする試みを阻止するのに十分だった。//
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(11) しかし、どのロシアの裁判所や検察官も、どのようにして誰を訴追したり、誰に官職就任を禁止したりするかを決定するのだろうか?
おそらくロシアの状況は、何らかの判断が下されるためにはあまりにも複雑だった。
東ヨーロッパとバルト諸国では、共産党独裁制は外国人によって課されていた。
これらではナショナリスト指導者たちがソヴィエト時代の悪行を理由としてロシアを(かつロシア革命を)非難するのは容易で、かつ便利だった。
彼らは、自分たちをロシア人と区別することで、新しい国家と民族的一体性(national identity)を構築することができた。(エストニアとラトヴィアでは、人数は多いロシア少数民族派は公民権に関するきわめて厳格な法制によって公的生活から排除された。)
しかし、ロシア人には、非難することのできる外国勢力がいなかった。
革命は、ロシアの土壌から成長した。
数百万のロシア人が共産党員であり、事実上は全ての者が何らかのかたちでソヴィエト体制に協力していた。
「抑圧の犠牲者たち」を代表する最大の公的組織であるMemorial の構成員の中には、ボルシェヴィキ・エリート、収容所の幹部、ソヴィエト官僚—自分たちを抑圧したスターリン主義体制の活動家たち—の子どもたちがいた。
この意味では、党の裁判で判決が下される必要があったのは、革命の犯罪を実行した者たちだけでなく、その者たちに寄り添ってきた全国民(whole nation)だった。
Alexander Yakovlev が当時に述べたように、「我々は、党ではなく、我々自身を裁いている」。(後注4)
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第一節、終わり。