Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
第19章の試訳のつづき。
——
第19章・最後のボルシェヴィキ。
第四節。
(01) この革命的状況を作ったのは、支配エリートたちが忠誠対象を変えて、民衆の側に加わる可能性だった。
社会の民主主義的勢力の挑戦を受けて、一党国家は、システムの改革者が現状を維持する意欲を失い、あるいは反対者に対する共感を知らせようとするにつれて、崩れ始めた。
Gorbachev 改革の知的設計者のYakovlev は、ヨーロッパの社会民主主義者以上に、そしてよりボルシェヴィキらしくなく、考え始めた。
ポピュリストであるモスクワ・トップのYeltsin は、共産党権益層内の強硬派を公然と攻撃し始めた。
彼は、十月革命70周年集会で、共産党はレーニン継承を放棄すべきだとすら訴えた。そして、民主的社会主義の主流へと転換して、複数政党での選挙によって権力を争うべきだ、と事実上は示唆した(カーメネフやジノヴィエフが1917年に行うべきだったごとくだ)。
Yeltsin は、強硬派に攻撃されて政治局を辞任し、党指導層に対抗する民衆の支持を得ようと競い始めた。//
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(02) Gorbachev も、レーニン主義者から徐々に社会民主主義者に似た立場に向かって変化していた。
在職中の彼の見方は、システムの失敗を理解し、改革の可能性の限界を見るに至って、発展した。
彼は1988年から、「指令・管理システム」を再構築するのではなく、それを解体する必要を語り始めた。
国家内部での抑制と均衡、権力分立の必要について、語った。
競い合う選挙の考えを支持し、次第に1977年憲法6条が定める共産党による権力独占を廃棄せよとの民主主義者の要求に同意すらするに至った。
レーニンが創設した一党国家は、頂上から崩れていた。//
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(03) 共産党内の強硬派は、システムが解体してゆくように見える速さに警戒心をもった。
政治改革は、党が1917年以降に獲得した全てを掘り崩す革命になるおそれがあった。
彼らのGorbachev 改革に対する立場は、レニングラードの化学教師のNina Andreeva の論考に、明確に述べられていた。これは「私は原理を放棄できない」と題するもので、1988年3月に新聞〈Sovetskaya Rossiia〉で公表された。
何人かの政治局員の同意を得て、この論考は、ソヴィエトの歴史の中傷を攻撃し、スターリンの「社会主義の建設と防衛」という功績を擁護し、全国の共産党員たちにレーニン主義の諸原理を防衛するよう呼びかけた。「祖国の歴史にあった重大な転換点で、それら諸原理のために我々が闘ってきたように」。(後注5)//
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(04) Gorbachev は、抗戦すると決め、一連のより急進的な改革を推し進めた。
1988年6月の党第19回大会で、彼は、新しい立法機関、人民代表者会議(the Congress of People's Deputies)の議席の3分2に競争選挙を導入させた。その立法議会が、最高ソヴェトを選出することになる。
これはしかし、まだ複数政党をもつ民主主義ではなかったが(選出された代議員の87パーセントは共産党員だった)、揃って反対したいならば投票者は党指導者たちを排除することができた。すなわち、39名の党第一書記たちは、ラトヴィアとリトアニアの首相とともに、1989年初めの人民代表者会議選挙で敗北するという屈辱を喫した。//
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(05) この議会は、一党国家に反対する民主主義的な舞台になった。
5月末の開会式を、推定で一億人の人々がテレビで観た。
議会内に、地域を超えたグループが、党内や非党員の改革主義者によって結成された。その主要な要求は、既述の憲法6条の削除だった。
Gorbachev はその提案に同意し、1990年2月に政治局を通過するよう指揮をとった。
彼は一党国家を守るべく改革を始めたのだったが、今やそれを解体していた。
彼は7月2日にテレビでこう表明した。
「我々は、社会主義のスターリン主義モデルの代わりに、自由な人々の市民の社会へと到達している。
政治システムは、急進的に変革されている。自由な選挙のある純粋な民主主義、多数の政党の存在、そして人権は、確立されるようになり、本当の人民の権力が再生されている。」(後注6)
ロシアは、1917年の二月革命へと回帰していた。//
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(06) この段階までに、党内には多数の異なる派があった。そのうち現実的に重要だったのは、つぎの二つだけだったが。
レーニン主義の継承を擁護したい強硬派と、Gorbachev やYeltsin のような、1985年以後に政治的に成長して、のちにGorbachev が回想したように、今では「古いボルシェヴィキの伝統を終わらせる」(後注7)ことを望んだ社会民主主義者。
このように党が分裂していたので、Gorbachev はなぜ党を二つに分けようとしなかったのか、または少なくとも1921年にレーニンが課した分派の禁止を持ち出さなかったのか、そして彼の改革を支持する社会的な民主主義運動を作り出さなかったのか、という疑問が生じうる。
Gorbachev の側近にいた助言者たちの多くは、長いあいだ彼にまさにそう迫っていた。—Yakovlev はすでに1985年から。
このように行動すれば、ソヴィエト同盟に複数政党システムが生まれていただろう。
ソヴィエト連邦共産党(CPSU)の両翼はそれぞれ数百万の党員、新聞その他のメディアを継承し、その結果、1991年の党の崩壊の後で形成された以上に多元的なシステムを生み出していただろう。
政治的な躊躇と宥和の気分から、Gorbachev は、激しい闘いを恐れた。ひょっとすれば内戦になるかもしれない。武装兵力、KGB、その他の党の全国的機構の支配権をめぐっての戦いだ。彼はナイーヴに、これらをまだ掌握することができると、考えていた。//
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第四節、終わり。
第19章の試訳のつづき。
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第19章・最後のボルシェヴィキ。
第四節。
(01) この革命的状況を作ったのは、支配エリートたちが忠誠対象を変えて、民衆の側に加わる可能性だった。
社会の民主主義的勢力の挑戦を受けて、一党国家は、システムの改革者が現状を維持する意欲を失い、あるいは反対者に対する共感を知らせようとするにつれて、崩れ始めた。
Gorbachev 改革の知的設計者のYakovlev は、ヨーロッパの社会民主主義者以上に、そしてよりボルシェヴィキらしくなく、考え始めた。
ポピュリストであるモスクワ・トップのYeltsin は、共産党権益層内の強硬派を公然と攻撃し始めた。
彼は、十月革命70周年集会で、共産党はレーニン継承を放棄すべきだとすら訴えた。そして、民主的社会主義の主流へと転換して、複数政党での選挙によって権力を争うべきだ、と事実上は示唆した(カーメネフやジノヴィエフが1917年に行うべきだったごとくだ)。
Yeltsin は、強硬派に攻撃されて政治局を辞任し、党指導層に対抗する民衆の支持を得ようと競い始めた。//
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(02) Gorbachev も、レーニン主義者から徐々に社会民主主義者に似た立場に向かって変化していた。
在職中の彼の見方は、システムの失敗を理解し、改革の可能性の限界を見るに至って、発展した。
彼は1988年から、「指令・管理システム」を再構築するのではなく、それを解体する必要を語り始めた。
国家内部での抑制と均衡、権力分立の必要について、語った。
競い合う選挙の考えを支持し、次第に1977年憲法6条が定める共産党による権力独占を廃棄せよとの民主主義者の要求に同意すらするに至った。
レーニンが創設した一党国家は、頂上から崩れていた。//
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(03) 共産党内の強硬派は、システムが解体してゆくように見える速さに警戒心をもった。
政治改革は、党が1917年以降に獲得した全てを掘り崩す革命になるおそれがあった。
彼らのGorbachev 改革に対する立場は、レニングラードの化学教師のNina Andreeva の論考に、明確に述べられていた。これは「私は原理を放棄できない」と題するもので、1988年3月に新聞〈Sovetskaya Rossiia〉で公表された。
何人かの政治局員の同意を得て、この論考は、ソヴィエトの歴史の中傷を攻撃し、スターリンの「社会主義の建設と防衛」という功績を擁護し、全国の共産党員たちにレーニン主義の諸原理を防衛するよう呼びかけた。「祖国の歴史にあった重大な転換点で、それら諸原理のために我々が闘ってきたように」。(後注5)//
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(04) Gorbachev は、抗戦すると決め、一連のより急進的な改革を推し進めた。
1988年6月の党第19回大会で、彼は、新しい立法機関、人民代表者会議(the Congress of People's Deputies)の議席の3分2に競争選挙を導入させた。その立法議会が、最高ソヴェトを選出することになる。
これはしかし、まだ複数政党をもつ民主主義ではなかったが(選出された代議員の87パーセントは共産党員だった)、揃って反対したいならば投票者は党指導者たちを排除することができた。すなわち、39名の党第一書記たちは、ラトヴィアとリトアニアの首相とともに、1989年初めの人民代表者会議選挙で敗北するという屈辱を喫した。//
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(05) この議会は、一党国家に反対する民主主義的な舞台になった。
5月末の開会式を、推定で一億人の人々がテレビで観た。
議会内に、地域を超えたグループが、党内や非党員の改革主義者によって結成された。その主要な要求は、既述の憲法6条の削除だった。
Gorbachev はその提案に同意し、1990年2月に政治局を通過するよう指揮をとった。
彼は一党国家を守るべく改革を始めたのだったが、今やそれを解体していた。
彼は7月2日にテレビでこう表明した。
「我々は、社会主義のスターリン主義モデルの代わりに、自由な人々の市民の社会へと到達している。
政治システムは、急進的に変革されている。自由な選挙のある純粋な民主主義、多数の政党の存在、そして人権は、確立されるようになり、本当の人民の権力が再生されている。」(後注6)
ロシアは、1917年の二月革命へと回帰していた。//
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(06) この段階までに、党内には多数の異なる派があった。そのうち現実的に重要だったのは、つぎの二つだけだったが。
レーニン主義の継承を擁護したい強硬派と、Gorbachev やYeltsin のような、1985年以後に政治的に成長して、のちにGorbachev が回想したように、今では「古いボルシェヴィキの伝統を終わらせる」(後注7)ことを望んだ社会民主主義者。
このように党が分裂していたので、Gorbachev はなぜ党を二つに分けようとしなかったのか、または少なくとも1921年にレーニンが課した分派の禁止を持ち出さなかったのか、そして彼の改革を支持する社会的な民主主義運動を作り出さなかったのか、という疑問が生じうる。
Gorbachev の側近にいた助言者たちの多くは、長いあいだ彼にまさにそう迫っていた。—Yakovlev はすでに1985年から。
このように行動すれば、ソヴィエト同盟に複数政党システムが生まれていただろう。
ソヴィエト連邦共産党(CPSU)の両翼はそれぞれ数百万の党員、新聞その他のメディアを継承し、その結果、1991年の党の崩壊の後で形成された以上に多元的なシステムを生み出していただろう。
政治的な躊躇と宥和の気分から、Gorbachev は、激しい闘いを恐れた。ひょっとすれば内戦になるかもしれない。武装兵力、KGB、その他の党の全国的機構の支配権をめぐっての戦いだ。彼はナイーヴに、これらをまだ掌握することができると、考えていた。//
——
第四節、終わり。