Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
 この書物の章順の表題は、つぎのとおり。
 01/出発、02/「舞台げいこ」、03/最後の望み、04/戦争と革命、05/二月革命、06/レーニンの革命、07/内戦とソヴィエト体制の形成、08/レーニン・トロツキー・スターリン、09/革命の黄金期?、10/大きな分岐、11/スターリンの危機、12/退却する共産主義?、13/大テロル、14/革命の輸出、15/戦争と革命、16/革命と冷戦、17/終わりの始まり、18/成熟した社会主義、19/最後のボルシェヴィキ、20/判決。
 これらのうち、「ソ連解体」期に関する19章・20章を試訳してみる。なお、18章はスターリンの死から始まっているようだ。
 書名は「革命的ロシア-1891〜1991」であって「ソ連史」ではないが、大まかには前史を含む<ソ連史>だろう。
 Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution (1996, Memorial Edition 2017)という「ロシア革命史」の書物もあり、この欄で一部の試訳を掲載しているが、これとは別の書物。
 各章内の節分けはないが、一行の横線を引いた明確な区分けがあるので、便宜的に各「節」の区切りとして扱う。一行ごとに改行し、段落の初めに元来はない数字番号を付す。
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 第19章・最後のボルシェヴィキ。
 第一節。
 (01) ソヴィエト体制が突然に終焉するとは、誰も想定していなかった。
 たいていの革命は、轟音ではなく嗚咽とともに死ぬ。
 1989年〜1991年の事態は一つの革命だと、ある人々は言う。
 これは全く正しくはない。
 しかし、体制が崩壊した速さに誰もが驚いたために、革命という名をかち得たのだろう。//
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 (02) 1985年、ソヴィエト同盟はどの国家とも同様に永続的なものに見えた。
 Gorbachev が解決しようとした諸問題のどれも、ソヴィエト体制の存在そのものを脅かしたのではなかった。
 経済は停滞していて、年間成長率は1パーセント以下で、生活水準は西側よりも大きく遅れており、石油価格の急激な下降(1980年価格の3分の1)は、体制の財政に大きな打撃を与えた。
 しかし、事態は、ソヴィエトの歴史上で政治的にもっと不安定だった時期よりもはるかに悪かった。
 人々は物不足に慣れるに至っていて、大衆的な抗議の兆しはなかった。
 体制は、改革しなくとも数年間は踏ん張っていけただろう。
 貧しい生活水準が長く続いても何とか切り抜けた独裁制の例は、豊富にあった。
 それらの多くは、ソヴィエト同盟が1980年代に経験したよりもはるかに悪い経済的環境の中でも生き抜いた。//
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 (03) 軍事予算は重荷になっていて、Reagan のSDI〔戦略防衛構想〕の開始とともにいっそう大きくなり始めた。
 東ヨーロッパの共産主義体制を安い石油と食糧で支援する費用は、やはり深刻な課題だった。
 クレムリンは、ポーランドの1980年危機に対処するためだけに、40億ドルを費やす必要があった。その年、大衆的ストは<連帯>という反対派運動に発展し、Jaruzelsky 政府による戒厳令の施行を強いることとなった。
 しかし、1985年までに、連帯運動は息切れがしたように見え、ソヴィエト帝国は安全だと思えた。//
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 (04) ソヴィエト体制が完全に崩壊した速さを説明するために必要なのは、ソヴィエト同盟の構造的問題にではなく、体制がその頂点から解きほどけていった態様に、目を向けることだ。
 仕組みを急進的に再構成する、切迫した必要性はなかった。
 「危機」があったとすれば、ソヴィエトの現実とソヴィエトの社会主義の理想との間に分裂が大きくなっていることに危機を感じとる、Gorbachev やその他の改革者たちの心理(the mind)の中にあった。
 現実の危機を惹き起こしたのは、Gorbachev の改革だった。すなわち、党の権力と権威の解体。
 観念上の革命が開始されたのは、グラスノスチ(glasnost、情報公開)が人々に体制を疑問視して代替の選択肢を要求するのを認めたことによってだった。
 18世紀のフランスの旧体制についてTocqueville が書いたように、「悪い政府にとつて最も危険な瞬間は、政府が改革を始めるときだ。…。辛抱強く我慢するのが長いほど、政府は矯正不能に見え、人々がいったん政府を排除する可能性を意識すれば、不満は耐え難いものになってしまう」。//
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 第一節、終わり。