Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。第一部の第七章に移る。
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 第一部/第七章・母国をホロコーストが襲う①。
 (01) 1945年春、ドイツは降伏した。また、我々とユダヤ人全てへの人的被害をもたらしたことが分かった。
 赤軍がポーランドに入り、そこからドイツに進行するにつれて、新聞は、解放された強制収容所や「絶滅」収容所に関する記事や写真を公にし始めた。人間は骸骨に近くなり、靴や眼鏡が殺害された犠牲者から奪われて山積みになっていた。火葬場で、ガスを吸わされた人々が灰になった。
 我々は、このような系統的で大規模な殺戮を予期していなかった。野蛮であったばかりか、ドイツはその戦争のためにユダヤ人を用いることができたから合理的でもなかったので、そんなことは不可能に思えた。
 連合国諸政府は、ドイツに占領されたヨーロッパで起きていることを知っていた。しかし、戦争は「世界のユダヤ」によって、彼らの利益のために行われているというヒトラーのプロパガンダ機構を助けるのを怖れて、沈黙を守る方を選んだ。
 私はロンドンにあったポーランド亡命政権の1942年12月10日付の冊子を持っている。それは「ドイツ占領ポーランドでのユダヤ人の大量虐殺」との表題で、連合諸国構成諸国に対して訴えたものだった。
 輸送された数十万のユダヤ人および同数の餓死しているか殺害されたユダヤ人に関する、正確で詳細な報告がなされていた。
 その情報は無視された。
 永久の汚名になるだろうが、アメリカのユダヤ人社会の指導者たちも、同族に対するジェノサイドについて、口を噤んだままだった。//
 (02) 1945年4月末、私はOlek からの手紙を受け取った。彼は戦争を生き延びたが、最初はワルシャワの、次いでウッチ(Łódź〉の「アーリア」側に隠れていた。
 そのあとすぐ、母親がポーランド・ユダヤの新聞の切り抜きを送ってくれた。それには、Wanda が自分の言葉で、Treblinka のガス室へと移送する家畜列車から飛び降りて、ドイツにあるポーランド人用強制収容所の労働者として終戦を迎えた、と書いていた。
 これらは奇跡だった。
 だが、我々の一族の他の者には、奇跡は乏しかった。
 母親の二人の兄は、何とか生き延びた。
 郵便による連絡が回復するや否や、彼らは、すでに知られていたようなホロコーストが母国で行われたと伝える手紙を、我々に送ってきた。
 私の伯父は二人とも学歴がなく、戦前に多くを成し遂げたというのでもなく、主として祖母の資産から生じる家賃で生活してきた。
 このことで、二人の手紙はいっそう強烈なものだった。
 母親の弟のSigismund は、戦前には女性を追いかける人生を送っていたが、こう書いてきた。
 「狂人になっているのではないかと思う。彼らが戻ってくるという想いだけが浮かぶ。
 母親と一緒にいた我々のArnold とMax、Esther そして(彼らの娘の)Niusia は1942年9月9日にファシストの凶漢によってゲットーから引き出されて、巨大な輸送車に積み込まれた。
 ドイツのやつらは最初は、定住地を変えるだけだと言った。しかし、分かったとおり、到着すると人々は生きたまま焼かれるかガスを吸わされたのだから、これは通常の殺害だった。
 数百万の人々が、ゲットー全体が、このようにして殺戮された。もっと残虐なこともあった。」
 Max は、こう書いた。
 「Sigismund と私は、Max(.Gabrielew)、(その妻)Esther とJasia がTreblinka へ移送されたことの証人だ。…
 我々みんなが愛して、深い悲しみが尽きないArnold は、いつものように、年老いて生きるのに疲れた我々の最愛の母親と一緒に、口元に微笑をたたえて、「死の列」に立っていた。 
 この73歳の女性も、勇敢に立っていた。…
 ああ、彼らを救う可能性はなかった。
 どんな人間の力も叡智も、(彼らの運命を)和らげる何事もできなかった。
 彼らに毒を渡すこともできなかった。」//
 (03) 既に語られてきていないホロコーストのことで、私に言えることはほとんどない。
 これは、ホロコーストに関して読んだり映画や写真を見て、意識的に萎縮してきたからですらある。
 私が読んだ虐殺の全ての事件や観た全ての映像は私の心に永遠に鮮明に刻み込まれ、悪魔的犯罪のおぞましい記憶想起物として今も漂っている、というのが私の理由だ。
 これには困ってきたが、私の精神の安定と生への前向きの姿勢を維持するために意識はしてきた。//
 (04) ホロコーストは、私の宗教的感情を動揺させなかった。
 知的にも情緒的にも、私は神の言葉をヨブ記が記録するように受け入れた。その第38章によると、我々人間には神の目的を理解することのできる能力がない。(脚注)
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 (脚注) そう受容することで、私は知らないうちにタルムード(Talmudic)の聖人たちの、人間の理解を超越した問題を考察するのを思いとどまらせる助言、「汝にはむつかしすぎる事柄を探し出すな、汝に隠されている事柄を詮索するな」、に従っていた。A. Cohen, Everyman's Talmud (1949), p.27.
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 多くのユダヤ人が、ホロコーストを理由として宗教的信条を失った。私の父親も、その一人だった。
 かりに何かあったとして、私の信条は強くなった。
 大量虐殺(同時期にソヴィエト同盟で起きていたものを含む)は、人々が神への信仰を放棄するとき、人間は神の心象によって造られていることを否定するとき、そして人間を魂の欠けた、ゆえに消耗し得る物資的対象にしてしまうときに、生じるものだ。//
 (05) 私の心理に対するホロコーストの主な影響は、私に認められてきた生きる毎日を楽しく感じさせたことだ。私は確実な死から救われたのだから。
 自己耽溺や自己肥大に費やすためにではなく、悪魔の思想がどのようにして悪魔的帰結を生じさせたかの歴史上の例を示したり使ったりして、道徳的教訓を広げるよう用いるために、私の生は残されたのだ、と感じたし、今日まで感じている。
 学者たちがホロコーストについて十分に書いてきたので、共産主義を例として用いて、その真実を明らかにすることが使命だ、と私は考えた。
 さらに、精一杯の幸福な人生を送るのが自分の義務だと、また、ヒトラーを許さないと、生がもたらす全てに満足していようと、陽気にしていて気難しくはしないと、私は感じたし、感じている。悲しみと不満は、嘘をつくことや残虐さに無関心であるのと同様に、冒涜の一形態だと私には思える。
 このような考え方は、私の個人的および職業的生活に影響を与えたのだが、私の若い時代の体験の結果だ。そうではなく、苦しい経験を免れた幸運な人々が人生や職業をより冷静に捉えるのは自然なことだ。
 その反面で、自由な人々の心理上の諸問題にはほとんど我慢できないことを、私は認める。とくに、彼らが「アイデンティティの探求」その他の自己探求の種々の形に耽溺しているならば。
 それらは、私に言わせれば、些細なことだ。
 ドイツの随筆家、Johanness Gross が人類は二つの類型に区別することができる、と書くのに、私は同意する。「問題をかかえる人々と、交際をする人々」。
 問題をかかえる者たちは彼ら自身に任せるのが、自己を維持するための重要な要素だ。(後注7) 
 (後注7) FAZ, Magazine,1981.09.11.
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 ②へと、つづく。