さて、No.2523で引用した西尾幹二の文章は、いったい何を、あるいは何について叙述して、あるいは論じて、いるのだろうか。
 このように課題設定する前に、西尾幹二の<真意>を探ろうとする前に、そもそもこの人はつねに真面目にその「真意」を表現しようとしているのか、という問題があることを指摘しておかなければならない。
 ①「事実」または「真実」を明らかにする。②付与された紙数の範囲内で「作品」(文芸評論的、政治評論的な、等々)を仕上げて提出する。③世間的「知名」度を維持または形成する。④その他。
 付加すると、こうした西尾の<動機>自体の問題もある。西尾自身が、自分が書いてきたものは全て「私小説的自我」の表現だったと明言したことがあることも、想起されてよい。
 元に戻ると、西尾幹二は、明らかに自分自身を含むものについて、こう叙述したことがある。
 (1) 月刊正論2002年6月号=同・歴史と常識(扶桑社、2002)p.65-p.66。
 「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけない」。
 「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない。正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
 (2) 月刊諸君!2009年2月号、p.213。
 「思想家や言論人も百パーセントの真実を語れるものではありません。世には書けることと書けないことがあります。」
 「公論に携わる思想家や言論人も私的な心の暗部を抱えていて、それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされるでしょう」。
 以上。
 このように書いたことがある西尾幹二の文章ついては、上の(1)に該当していないのか、上の(2)が述べるように100パーセント「全部ぶちまけている」のか否か、をつねに問題にしなければならない。
 --------
  上は気にしなくてよいという仮の前提つきで、あらためて真面目に問題にしよう。
 No.2522で引用した西尾幹二の文章は、いったい何を、あるいは何について、叙述しあるいは論じているのか。
 「歴史」に関するもののようだ。次のように言う。
 「歴史」は、「過去の事実を知ること」ではなく、「事実について、過去の人がどう考えていたかを知ること」だ。
 「歴史」とは「『事実について、過去の人がどう考えていたかを知ること』」であって、かつまた「『異なる過去の時代の人がそれぞれどう感じ、どう信じ、どう伝えたかの総和』」なのではないか。
 歴史学者ではなく、一冊の歴史叙述書も執筆したことがない西尾の「歴史」論議を真面目に相手にする必要はない、と書けば、それで済む。
 秋月瑛二という素人でも、おそらく上の文章の100倍の長さを超える文章で、疑問を提起することができる。
 ここでの「歴史」はかなり限られた意味だ、そして「歴史」との区別も不明瞭だが「歴史」書も古事記、神皇正統記、大日本史、本居・古事記伝といった次元のものに限られている気配がある、過去の人が「考えていた」ものだけでなく遺跡・遺構・遺物や公家等の日常的な日記類(広く古文書類)も歴史の重要・貴重な「史料」だ、一時間前も一日前も一年前も10年前も「過去」であって「歴史」に属する、例えば秋月瑛二にも<個人史>または<自分史>があって、それも「歴史」の一つだ。
 『異なる過去の時代の人がそれぞれどう感じ、どう信じ、どう伝えたかの総和』が「歴史」だとも書くが、過去の人々が「どう信じ」たかも含めているのは気にならなくもないし、「総和」と言っても、過去の人々が「どう感じ、どう信じ、どう伝えたか」は各人によって相違する、矛盾することがあるのであり、「総和」などど簡単に語ることはできない。等々、等々。
 要するに、真剣な検討に値しない。「歴史」概念自体がすでに不明瞭だ。
 何を、どういうレベル、どういう単位で叙述する、または論じるのか。
 西尾は、上の文章に限られないが、おそらく、きちんと叙述しておくべき、自らだけは分かっているつもりなのかもしれない<暗黙の前提>を明記することを怠っている。
 ところで、「対象」とは日本語文でよく使われる言葉だが、哲学者のマルクス・ガブリエル(Markus Gabriel)は、「対象」(Gegenstnd)を<「真偽に関わり得る思考」(wahrheitfähige Gedanken)によって「考える」(nachdenken)ことのできるもの>と定義し、対象の全てが「時間的・空間的拡がりをもつ物」(raumzeitliche Dinge)であるとは限らない、「夢」の中の事象や「数字」も「形式的意味」での「対象」だ、とコメントする。また、「対象領域」(Gegenstandsberich)という造語?も使い、これを「特定の種類の諸対象を包摂する領域」と定義し、それら諸対象を「関係づける」「規則」(Regeln)が必要だとコメントする。
 M,Gabriel, Warum es die Welt nichi gibt (Taschenbuch/2015, S.264. 清水一浩の邦訳を参照した)。
 西尾においては、論述「対象」が何か自体が明瞭ではなく、「対象領域」を構成する別の対象との「関係づけ」も曖昧なままだ、と考えられる。「歴史」に関係する諸対象を「関係づける」「規則」を「歴史」(・「哲学」)の専門家ではない素人の西尾が知っているはずもない。
 よくぞ、『歴史の真贋』と題する書物を刊行できるものだと、(編集者の冨澤祥郎も含めて)つくづく感心してしまう。もっとも、「歴史」を表題の一部とする西尾の書は多い。
 専門の歴史家、歴史研究者、井沢元彦や中村彰彦のような歴史叙述者(後者は小説の方が多いが)は、かりに西尾の論述を知ったとして、どういう感想を持ち、どう評価するだろうか。
 --------
  ついで、「事実」の把握または認識に関する叙述であるようだ。
 そして、以下のように語られている。「過去の事実」=「歴史」だとすると(こう理解させる文がある)、「歴史」と無関係ではない。
 「歴史」は、「過去の事実」について「過去の人がどう考えていたかを知ること」だ。「過去の事実を直(じか)に知ることはできない」。
 「人間の認識力には限界があって、我々が事実を知ることは不可能であり、過去の人が事実をどう考え、どう信じ、そしてどう伝えていたかをわれわれは確かめ、手に入れようと努力し得るのみである」。
 「なぜなら、事実そのものは、把握できないからです。
 事実に関する数多くの言葉や思想が残っているだけなのです。」
 以上。
 この辺りに、西尾幹二に独特の(そう言ってよければ)「哲学」または<認識論・存在論>が示されていそうだ。
 「人間の認識力には限界があ」るのはそのとおりかもしれないが、そのことから、「事実を知ることは不可能」だとか、「事実そのものは、把握できない」ことになるのか?
 きっと、「事実」という言葉の意味の問題なのなのだろう。全知全能では全くない秋月瑛二でも、つぎのような「事実」を「認識」している。
 ・いま、体内で私の心臓が拍動している。・「呼吸」というものをしている。・ヘッドフォンから美麗な音楽が流れている。
 これらは、私の感覚器官・知覚器官、広くは「認識器官」を通じて「私」が「認識」していることだ。最後の点を含めて、近年の「私」に関する「過去の事実」でもある。
 「私」が介在していなくともよい。「私」が存在した一定の年月日に日本で〜大地震や〜事件、等々が起きたことは、「私」の感覚器官が直に(じかに)認知していなくとも、「過去の事実」として把握または認識することができる。
 私の生前に、一定の戦争に日本が勝利したり、敗北した(降伏文書の署名をし、外国によって「占領」された)ことも、「過去の事実」のようだ。
 そんなことを言いたいのではない、と西尾幹二は反応するかもしれないが、西尾の上の文章は、以上のようなことも否定することになる。そうでないとすれば、文章内容の十分な限定、条件づけを西尾という人は、行うことのできない人物なのだ。
 --------
 (つづく)