Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
 試訳のつづき。序説(Introduction)・ウクライナ問題の最終回。
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 序説・ウクライナ問題④。
 (18) 工業化はロシア化への圧力も強めた。工場の建設はウクライナの諸都市に、ロシア帝国の至る所から外部者を送り込んだからだ。
 1917年までに、Kyiv の住民の5分の1だけがウクライナ語を話した。(19)
 炭鉱の発見と重工業の急速な発展は、とくにウクライナの東端地域にある鉱業と製造業の地域であるドンバス(Donbas)に劇的な影響を与えた。
 この地域の指導的な工業家はたいていはロシア人で、外国人が混じっていることは少なかった。
 ウェールズ人であるJohn Hughs は、元々は彼に敬意を表して「Yuzivka」と呼ばれ、今はDonetsk(ドネツク)として知られる都市の基礎を築いた。
 ロシア語はDonetsk の工場で使われる言語になった。
 ロシアとウクライナの労働者の間で抗争がしばしば発生し、ときには、「ナイフでの決闘という最も乱暴な形態」をとり、両者間の激闘となった。(20)//
 (19) Galicia にある帝国の境界付近の、オーストリア・ハンガリー帝国のウクライナ人とポーランド人の混住地域では、民族主義運動ははるかに小さかった。
 オーストリアはその帝国のウクライナ人に対して、ロシア帝国またはのちのソヴィエト連邦よりも、はるかに大きな自治を認めた。少なからず、ウクライナ人を(オーストリアの観点から)ポーランド人に対する有用な競争相手と見なしたからだった。
 1868年に、Liviv(リヴィウ)の愛国主義ウクライナ人が文化的社会団体のProsvita を設立し、これはやがてウクライナじゅうに多数の会員をもつに至った。
 1899年から、ウクライナ国民民主党(National Democratic P.)がGalicia でも自由に活動し、選出した代表者をウィーンの議会へと送った。
 今日まで、ウクライナの自立的社会団体(self-help society)の従前の本部は、Liviv にある最も印象的な19世紀の建築物の一つだ。
 この建物は、ウクライナ民族様式の装飾を〈Jugendstil〉(若者様式)の外観へと融合した壮麗なものだ。そして、ウィーンとガリツィア(Galicia)の完璧な合成物になっている。//
 (20) しかし、ロシア帝国内部ですら、1917年の革命前の数年間は、多くの点でウクライナにとって前向きだった。
 ウクライナの農民層は熱心に、20世紀の初めの帝国ロシアの近代化に参加した。
 彼らは、第一次大戦の直前に急速に、政治的意識に目覚め、帝国に懐疑的になった。
 農民反乱の波が、1902年にはウクライナとロシアの両方にまたがって勃発した。
 農民たちは、1905年革命でも大きな役割を果たした。
 それに続く騒乱は社会的不安の連鎖を生み、皇帝ニコライ二世を動揺させ、ウクライナにある程度の市民的、政治的権利をもたらした。その中には、公的生活の分野でウクライナ語を用いる権利もあった。(21)
 (21) ロシア、オーストリア・ハンガリーの両帝国が予期されないかたちで、それぞれ1917年と1918年に崩壊したとき、多くのウクライナ人は、ついに国家を設立することができる、と考えた。
 ハプスブルク家が支配していた領域では、この望みはすみやかに消失した。
 期間は短いが血まみれのポーランドとウクライナの軍事衝突は、1万5000のウクライナ人と1万のポーランド人の生命を奪った。そのあとで、最も重要な都市であるLiviv などの西部ウクライナの多民族地域は、近代のポーランドへと統合された。
 その状態は、1919年から1939年まで続いた。//
 (22) ペテルブルクでの1917年二月革命の後の状況は、もっと複雑だった。
 ロシア帝国の解体によって、権力は短い間、Kyiv のウクライナ民族運動の手に渡った。
 しかし、指導者の中には、民間人であれ軍人であれ誰一人、この国の権力について責任を担う心準備をしている者がいなかった。
 政治家たちが1919年にVersailles(ヴェルサイユ)に集まって新しい諸国家の境界線を引いたとき—その中には近代のポーランド、オーストリア、チェコ・スロヴァキアがあった—、ウクライナは国家に含まれないことになる。
 だがなおも、そのときは完全には失われていなかっただろう。
 Richard Pipes(リチャード・パイプス)が書いたように、1918年1月26日の独立宣言は「ウクライナでの国家形成の〈dénouement〉(結果)を示すものではなく、本当の始まりだった」。(22)
 独立した数ヶ月間の騒然状態と民族的一体性に関する活発な議論は、ウクライナを永久に変えることになっただろう。//
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 序説・ウクライナ問題、終わり。