Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
=アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
試訳のつづき。邦訳書は、たぶん存在しない。
——
緒言/第一節②。
(09) まとめるならば、これら二つの政策—1933年の冬と春のHolodomor およびそれに続く数ヶ月のあいだのウクライナ知識人や政治的階層の抑圧—は、ウクライナのソヴィエト化をもたらした。すなわち、ウクライナの民族思想(national idee)の破壊と、ソヴィエトの一体性に対するウクライナ人の全ての挑戦の抑圧。
「genocide(ジェノサイド)」という言葉の創設者のポーランド・ユダヤ人法律家のRaphael Lemkin は、この時期のウクライナについて、この彼の概念の「古典的事例」だと語った。
「ジェノサイド、個人だけではなく文化や一つのnation の破壊の事例だ」。
Lemkin が初めて使った語である「genocide」は、より狭い、より法学的な意味で用いられるようになった。
この語はまた、論争を生じさせる試金石にも、ウクライナ内部の諸グループはむろんのこと、ロシア人とウクライナ人の両者によって、政治的な主張を行うために用いられる概念にも、なった。
こうした理由で、「genocide」の一つとしてのHolodomor かに関する特別の考察が—Lemkin のウクライナとの関係や影響も含めて—この書物のエピローグの一部にあてられる。
(10) この書物の中心的主題は、もっと具体的だ。1917年と1934年の間に、ウクライナで何が現実に起きたのか?
とくに、1932-33年の秋、冬、春に何が起きたのか?
どんな事態の連鎖が、どんな意識構造が、飢饉を招いたのか?
誰に責任があるのか?
どうすれば、この恐ろしい事象はウクライナとウクライナ民族運動の幅広い歴史に適合するのか?
(11) 同様に重要だが、その後はどうなったか?
ウクライナのソヴィエト化は飢饉で始まったのではなく、飢饉で終わったのでもない。
ウクライナ知識人と指導者たちの逮捕は、1930年代を通じて継続した。
それから半世紀以上、歴代のソヴィエト指導者たちは、戦後の暴動であれ1980年代の抗議運動であれどのような形をとろうと、ウクライナ民族主義を過酷に排斥し続けた。
この時代の中で、ソヴィエト化はしばしばロシア化の形をとった。すなわち、ウクライナ語は格下げされ、ウクライナの歴史は教えられなかった。//
(12) とりわけ、1932-33年の飢饉の歴史は教育されなかった。
それどころか、1933年と1991年の間、ソヴィエト連邦は何らかの飢饉がかつて発生したこと自体を認めるのを、単直に拒否した。
ソヴィエト国家は地方の資料文書を破壊して、死の記録が飢餓を示唆しないことを確実にし、何が起きたかを隠すために、公にされた統計データを変更すらした。(5)
ソヴィエト連邦が存続している間は、飢饉とそれに伴った抑圧の歴史について、十分な文書資料にもとづいて執筆するのは不可能だった。
(13) しかし、1991年、スターリンが最も怖れたときが来た。
ウクライナは、独立を宣言した。
ソヴィエト同盟は、ウクライナが離脱する決定をしたことを一つの理由として、終わりを迎えた。
主権あるウクライナが歴史上初めて誕生し、併せて新しい世代のウクライナの歴史家、文書管理者、報道記者、出版者が出現した。
この人たちの努力のおかげで、1932-33年の飢饉に関する完全な歴史を語ることができる。//
--------
緒言/第二節①。
(01) この書物は、1917年から、ウクライナ革命と1932-33年に弾圧されたウクライナ民族運動から、始まる。
終わるのは、現在の、ウクライナの記憶に関する進行中の政策についての論争を語ってだ。
この書物は、ウクライナでの飢饉に焦点を当てる。それはより広いソヴィエトの飢饉の一部ではあるが、特有の原因と結果をもつ。
歴史家のAndrea Graziosi は、誰もユダヤ人またはジプシーを迫害したヒトラーに特殊な物語を伴う「ナツィの残忍性」と混同しはしない、と記した。
同じ論理に従って、この書物は、1930-34年のソヴィエト全体の飢饉を論述するが—とくにKazakhstan と特定のロシア諸州でも多数の死亡者があった—、より直接的にはウクライナに特有の悲劇に焦点を合わせる。(6)//
(02) この書物は、ウクライナでの四半世紀の学問研究を反映してもいる。
Robert Conquest は1980年代初めに、飢饉について当時に利用できた公刊物の全てを編集し、1986年に、〈悲しみの収穫〉(The Harvest of Sorrow)という書物を出版した。この本は今でも、ソヴィエト同盟に関する出版物の画期をなすものだ。
しかし、ソヴィエト連邦の終焉と主権国家ウクライナの出現から30年が経過し、口述の歴史と記憶を収集するいくつかの幅広い国民運動が、国全土からの数千の新しい証言を生んだ。(7)
同じ時期に、Kyiv の公文書が—Moscow のそれと違って—公にされて簡単に利用できるようになった。
ウクライナでの分類分けされていない資料の割合はヨーロッパで最も高いものの一つだ。
ウクライナ政府の基金は学者たちに文書収集物の出版を奨励し、そのことで研究がより正確なものになっている。(8)
ウクライナでの飢饉やスターリン時代に関するしっかりした学者たちは、再印刷された文書類や口述筆記史料類を含めて、多数の書物や単著を刊行してきた。そうした学者に、Olga Bertelsen、Hennadii Boriak、Vasyl Danylenko、Lyudmyla Hrynevych、Roman Krutsyk、Stanislav Kulchytsky、Yuri Mytsyk、Vasyl Marochko、Heorhii Papakin、Yuri Shapanoval、Volodymyr Serhiichuk、Oleksandra Veselova、Hennadii Yufimenko がいる。
Olen Wolowyna と人口動態学者のチーム—Oleksander Hladun、Natalia Levchuk、Omelian Rudnytsky —は最近に、犠牲者の数を確定するという困難な仕事を始めた。
Harvard のウクライナ研究所は、多くの学者とともに研究して、成果を発表し、出版してきている。//
——
第二節②へとつづく。
=アン.アプルボーム・赤い飢饉—ウクライナでのスターリンの戦争(2017年)。
試訳のつづき。邦訳書は、たぶん存在しない。
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緒言/第一節②。
(09) まとめるならば、これら二つの政策—1933年の冬と春のHolodomor およびそれに続く数ヶ月のあいだのウクライナ知識人や政治的階層の抑圧—は、ウクライナのソヴィエト化をもたらした。すなわち、ウクライナの民族思想(national idee)の破壊と、ソヴィエトの一体性に対するウクライナ人の全ての挑戦の抑圧。
「genocide(ジェノサイド)」という言葉の創設者のポーランド・ユダヤ人法律家のRaphael Lemkin は、この時期のウクライナについて、この彼の概念の「古典的事例」だと語った。
「ジェノサイド、個人だけではなく文化や一つのnation の破壊の事例だ」。
Lemkin が初めて使った語である「genocide」は、より狭い、より法学的な意味で用いられるようになった。
この語はまた、論争を生じさせる試金石にも、ウクライナ内部の諸グループはむろんのこと、ロシア人とウクライナ人の両者によって、政治的な主張を行うために用いられる概念にも、なった。
こうした理由で、「genocide」の一つとしてのHolodomor かに関する特別の考察が—Lemkin のウクライナとの関係や影響も含めて—この書物のエピローグの一部にあてられる。
(10) この書物の中心的主題は、もっと具体的だ。1917年と1934年の間に、ウクライナで何が現実に起きたのか?
とくに、1932-33年の秋、冬、春に何が起きたのか?
どんな事態の連鎖が、どんな意識構造が、飢饉を招いたのか?
誰に責任があるのか?
どうすれば、この恐ろしい事象はウクライナとウクライナ民族運動の幅広い歴史に適合するのか?
(11) 同様に重要だが、その後はどうなったか?
ウクライナのソヴィエト化は飢饉で始まったのではなく、飢饉で終わったのでもない。
ウクライナ知識人と指導者たちの逮捕は、1930年代を通じて継続した。
それから半世紀以上、歴代のソヴィエト指導者たちは、戦後の暴動であれ1980年代の抗議運動であれどのような形をとろうと、ウクライナ民族主義を過酷に排斥し続けた。
この時代の中で、ソヴィエト化はしばしばロシア化の形をとった。すなわち、ウクライナ語は格下げされ、ウクライナの歴史は教えられなかった。//
(12) とりわけ、1932-33年の飢饉の歴史は教育されなかった。
それどころか、1933年と1991年の間、ソヴィエト連邦は何らかの飢饉がかつて発生したこと自体を認めるのを、単直に拒否した。
ソヴィエト国家は地方の資料文書を破壊して、死の記録が飢餓を示唆しないことを確実にし、何が起きたかを隠すために、公にされた統計データを変更すらした。(5)
ソヴィエト連邦が存続している間は、飢饉とそれに伴った抑圧の歴史について、十分な文書資料にもとづいて執筆するのは不可能だった。
(13) しかし、1991年、スターリンが最も怖れたときが来た。
ウクライナは、独立を宣言した。
ソヴィエト同盟は、ウクライナが離脱する決定をしたことを一つの理由として、終わりを迎えた。
主権あるウクライナが歴史上初めて誕生し、併せて新しい世代のウクライナの歴史家、文書管理者、報道記者、出版者が出現した。
この人たちの努力のおかげで、1932-33年の飢饉に関する完全な歴史を語ることができる。//
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緒言/第二節①。
(01) この書物は、1917年から、ウクライナ革命と1932-33年に弾圧されたウクライナ民族運動から、始まる。
終わるのは、現在の、ウクライナの記憶に関する進行中の政策についての論争を語ってだ。
この書物は、ウクライナでの飢饉に焦点を当てる。それはより広いソヴィエトの飢饉の一部ではあるが、特有の原因と結果をもつ。
歴史家のAndrea Graziosi は、誰もユダヤ人またはジプシーを迫害したヒトラーに特殊な物語を伴う「ナツィの残忍性」と混同しはしない、と記した。
同じ論理に従って、この書物は、1930-34年のソヴィエト全体の飢饉を論述するが—とくにKazakhstan と特定のロシア諸州でも多数の死亡者があった—、より直接的にはウクライナに特有の悲劇に焦点を合わせる。(6)//
(02) この書物は、ウクライナでの四半世紀の学問研究を反映してもいる。
Robert Conquest は1980年代初めに、飢饉について当時に利用できた公刊物の全てを編集し、1986年に、〈悲しみの収穫〉(The Harvest of Sorrow)という書物を出版した。この本は今でも、ソヴィエト同盟に関する出版物の画期をなすものだ。
しかし、ソヴィエト連邦の終焉と主権国家ウクライナの出現から30年が経過し、口述の歴史と記憶を収集するいくつかの幅広い国民運動が、国全土からの数千の新しい証言を生んだ。(7)
同じ時期に、Kyiv の公文書が—Moscow のそれと違って—公にされて簡単に利用できるようになった。
ウクライナでの分類分けされていない資料の割合はヨーロッパで最も高いものの一つだ。
ウクライナ政府の基金は学者たちに文書収集物の出版を奨励し、そのことで研究がより正確なものになっている。(8)
ウクライナでの飢饉やスターリン時代に関するしっかりした学者たちは、再印刷された文書類や口述筆記史料類を含めて、多数の書物や単著を刊行してきた。そうした学者に、Olga Bertelsen、Hennadii Boriak、Vasyl Danylenko、Lyudmyla Hrynevych、Roman Krutsyk、Stanislav Kulchytsky、Yuri Mytsyk、Vasyl Marochko、Heorhii Papakin、Yuri Shapanoval、Volodymyr Serhiichuk、Oleksandra Veselova、Hennadii Yufimenko がいる。
Olen Wolowyna と人口動態学者のチーム—Oleksander Hladun、Natalia Levchuk、Omelian Rudnytsky —は最近に、犠牲者の数を確定するという困難な仕事を始めた。
Harvard のウクライナ研究所は、多くの学者とともに研究して、成果を発表し、出版してきている。//
——
第二節②へとつづく。