Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。
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 第一部/第六章・軍隊②。
 (13) 1944年6月の初めに、ASTP の正規の「卒業式」があった。私は、ロシア語で、答辞の挨拶を述べた。
 我々は任務を課されるべく、士官候補生学校へ送られることになっていた。
 しかし、そうはならなかった。
 6月6日に連合軍はフランスに上陸し、軍は補充を必要としていた。
 我々は予定どおりに士官候補生学校へ行くのではなく、基礎訓練のために多数の歩兵部隊に配属されることになる、と知った。
 私は、Virginia 州のPickett 軍営地にいる第78分団または「稲妻」兵団の第310歩兵連隊に配属された。この軍営地は、Richmond 近くにある巨大な軍用地だった。
 その日は、我々二人が離れた、悲しい日だった。//
 (14) 私は思うのだが、アメリカ軍は人員方針について大きな過ちをしていた。軍服の兵士を、機械の一部のような交換できる存在物だと扱うことによってだ。
 男たちは、国のためにではなく、同志のために、25人かそこらの兵士で成る小隊(platoon)のような一団(unit)のために戦う。
 部隊(corps)の気概は、勝利する全ての戦力の基本的に重要な要素だ。
 第78分団の兵士は全員が、フランス侵攻を準備する部隊の補充兵として、三ヶ月前にイギリスに送られていた。将校と下士官はそこにとどまったけれども。
 私が属した分団は、言ってみれば、骨が抜かれていた。協力し合うチームではなく、多数の個人の集まりだった。これは、悪い前兆だった。//
 (15) つぎの八週間、我々は過酷な基礎訓練を受けた。フロリダの空軍で受けたのとは全く違っていた。
 Virginia の夏の気温は、しばしば華氏90度を超えた。
 我々はこの暑さの中で、全力で演習をしなければならなかった。
 私は、ブラウニング式自動小銃を運ぶ任務を割り当てられた。可動式のその銃はほとんど20ポンドの重さがあった。
 夜間の野営の間、我々はツツガムシ(chigger)に攻められた。皮膚に食い込み、ひどい炎症を引き起こす小さい不快な虫だ。火の点いたタバコをその後部にあてて排除しなければならなかった。
 我々の仲間の兵団は、混ぜこぜのクジの上にあった。—最も幸運ではないが、最善はヨーロッパに送られていることだった。//
 (16) ポーランドのROTC 軍営地での不幸な体験の5年後に小銃を引きつずって運んでいることを思うと、きわめて苦々しく感じた。
 私は日記に、不満を綴った。自分は「ラバのように働き、犬のように服従し、豚のように生きている、監獄の中の動物だ」。
 自分の言語上の技能、とくに敵国の言語である、ドイツ語とイタリア語のそれ、を使って、もっと戦争に貢献できる、と思っていた。そして、市民生活ではHarvard Law School に関係していた上品な大佐である、分団の情報部長に接触した。
 彼は私をG-2の一員にするという関心を示した。
 しかし、数日後に再び会って私の移動について尋ねると、私はもうすぐ出発することになっていると知った、と彼は言った。//
 (17) 実際に、数日後、海外輸送用の武器の包み方を仲間の代表が指示される会合に出席していたあいだに—1944年8月末のことだった—、私は呼び出され、Utah 州のKearns Field にある空軍基地に移動することが告げられた。
 私が属していた分団は、私を置き去りにして、ヨーロッパへと向かった。
 その分団は、Bulge の戦いで、些少の役割を果たした。//
 (18) Utah で、Cornell の学生たちは、別の二つの大学でロシア語の訓練を受けた者たちと出会った。そして10月に、我々はMaryland 州のRitchie キャンプへと移った。
 そのキャンプは、情報(intelligence)学校に転換されたカントリー・クラブの会館だった。
 二ヶ月ごとに新しいグループが、情報活動訓練の集中課程のために到着していた。そのあとで、修了生は任務を受け、前線へと出発した。
 我々の運命は、いくぶんか異なっていた。
 我々は特殊な任務のためのグループだったので、私はその任務の性質を戦争後に初めて知った。//
 (19) 1943年11月のテヘランでの首脳会談以来、アメリカとソ連の軍部は、ソヴィエト領域内に共用空軍基地を建設することを議論していた。
 ワシントンの主要な関心は、日本に対するための施設だった。だが、ヨーロッパは、東ヨーロッパでドイツと戦うソヴィエトの空軍施設を利用することも要求した。東ヨーロッパは、イギリスやイタリアの基地から爆撃することができなかった。
 「往復(shuttle)爆撃」という考えが現れた。すなわち、アメリカ空軍は東ヨーロッパの上を飛び、工業施設や油田地帯に爆弾を落とし、ソヴィエト領域内に着陸し、燃料補給と再装備をし、基地に帰還して、同じ任務を繰り返す。
 ロシアはこの提案に気乗りうすだったが、1944年の春、まさに我々がCornell での課程を終えようとしていた頃、ウクライナの三基地をアメリカ空軍が利用できるようにした。主要な基地はPoltava にあり、Mirgorod とPiriatin に小さな基地があった。
 この計画には、Frantic というコード・ネームが付けられた。
 1944年6月2日、アメリカ軍の爆撃機がこれらの基地から、初めてドイツの上空を飛行した。
 ドイツは東方からのこの空襲に驚き、6月22日に、200の爆撃機でPoltava 基地を集中攻撃した。Poltava 基地はほとんど廃墟となった。43のB-17爆撃機が破壊されるか、修理不可能な損傷を受けた。
 それにもかかわらず、アメリカ空軍は7月に攻撃を再開した。全部で、2000機以上によって、ソヴィエトの基地からの攻撃が行われた。
 効果は少なく、ソヴィエトとの軋轢がつねにあった。
 夏の終わりに、ロシアはウクライナの三空軍基地の閉鎖を命じた。
 しかしながら、いわゆる東方作戦は、1945年6月まで、引き続き敢行された。(*後注6)
 (*後注6) Richard C. Lucas, Eagles East (1970) で、語られている。
 (20) 我々ロシア・グループは、ウクライナの往復基地に通訳者として派遣されることになっていた。しかし、作戦が終わるにつれて、その任務も消失した。
 そうしてRitchie での課程を終えて、イリノイ州のScott Field へと移された。  
 表向きにはラジオ作戦の訓練のためだったが、実際には、将来にロシア語の話し手を必要とする事態に備えての予備軍として囲われた。
 退屈な生活だった。モールス符号やラジオの細かな機構の勉強は、楽しいものではなかった。
 (21) そこにいたことで、重要な精神的効果が副産物として生じた。
 一人前の歴史家になろうと決心したのは、そのときだった。
 私はつねに歴史に惹き付けられてきた。一つには過去は想像力を掻き立てるからであり、また一つには、歴史の射程範囲には限界がないからだった。
 だが、職業として歴史学を選択したのは、まさにその頃だった。//
 (22) Scott Field はミズーリ州のセントルイスの近くに位置していた。そのセントルイスで私は、ほとんどの週末を演奏会、公共図書館、あるいは古書店探しをして過ごした。
 ある日、たまたまFrançois Guizot の〈欧州文明の歴史〉に出会った、それは著名な文筆家の子息であるWilliam Hazlitt が翻訳したものだった。
 その書物—Guizot が1928年にソルボンヌで行った一連の講義録—は、かつて読んだどの歴史書とも違っていた。
 明々白々なものは何もないのだから、探求心はかつて発生した事実上全てのことについて、関心を寄せることができる。動機や影響について、そしてじつに、事態の推移それ自体について、つねに疑問がある。
 かくして、中世のハンガリーの穀物価格の歴史に、教皇Innocent 三世の生涯と仕事に、Zerbst 施設があった公国の政策に、これらは知的な変化を示しているというだけの理由で、人々は関心を集中させることになる。
 しかし、このような論点には、幅広い意義がない。これらは、チェス遊戯にも似た、問題解決の練習だ。
 同じことは、諸国や事件に関する標準的で一般的な歴史書について言える。
 それらは何が起きたかを、おそらくはその理由も、語る。しかし、そのような知識が何らかの意味で重要であることの理由を示しはしない。//
 (23) Guizot が書いた、そして私がそれ以来ずっとモデルにしてきた歴史書には、過去と我々自身との間の連結があった。それは哲学的歴史書であり、我々自身に関して教えてくれる叡智だ。—我々はどこから来て、なぜ今のように考えているのか。
 最初の頁から、Guizot は歴史への哲学的アプローチを明らかにしている。
 「いずれかの過去について、歴史を事実を語ることに制限する必要があるとしばしば主張されてきた。それが最も公正だと。しかし、語るべきはるかに多くの事実があること、事実それ自体はその性格について人々が先ず与えられたと思うものよりもはるかに多様であることに、我々は絶えず留意しなければならない。…
 我々が哲学を引き合いに出すことに慣れている歴史の割合、事件相互の関係、それらを結びつける連関、それらの原因と効果—これらは全て事実であり、全てが歴史だ。戦闘に関する話やその他の重要で可視的な事件と全く同じように。…
 文明は、こうした事実の一つだ。…
 私はただちに、歴史は全てのもののうち最大のものだ、歴史は全てを包含する、と付け加えよう。」//
 この序論的導入部に続く14の章は、時代と国々を、制度と宗教を見事に概観し、全てを洗練された上品な文体で表現していた。
 この書物は、私を完璧に捉えた。
 私が興味をもってきたものは—とくに哲学と芸術—、全てが歴史という学問分野の広大な屋根のもとに収容することができる、ということを、この書は示してくれた。//
 (24) 私の軍歴の残りは、拍子抜けしたものだった。
 Scott Field からCornell での夏の再教育課程に戻り、そしてRitchie に帰った、そこで私は、夜間の電話交換者の仕事を割り当てられた。
 1945年の後半〔著者は22歳—試訳者〕、我々はCalifornia に送られた。コリアで通訳者に配属される準備だった。
 しかし、日本が降伏して戦争は終わったので、家に帰りたくなった。
 我々の部隊には、FAH という不思議な名があった。
 たぶん我々を担当している軍事省の将校のイニシャルで成っている、と私は思いついた。
 正規の軍将校名簿を調べてみると、実際に、このイニシャルに一致する、Frank A. Hartmann という大佐を発見した。
 我々はペンタゴンにいる彼に電話する機会をもち、3-4年間も軍役に就いてきたので、除隊されるに値する、と知らせた。
 数日後に、東部の我々に命令書が届いた。
 もう待てなかった。民間人としての生活を取り戻し、自分の勉強を再開したかった。
 1946年3月、Maryland 州、Fort Meade で、私は除隊された。//
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 第六章②、終わり。次章・第一部第七章の表題は、<母国をホロコーストが襲う>。