Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)。
試訳のつづき。
——
第一部/第六章・軍隊①。
(01) 1941年6月21日夕方、私はElmira の家で夏を過ごしていたが、ラジオが番組を中断して、ドイツがソヴィエト同盟に侵攻したというニュースを伝えた。
一年後、Pearl Harbor のあと、私はMuskingum の大学新聞に、政治や軍事の評論を週に一回定期的に寄稿するよう依頼された。
それは私の生涯最初の公表文書だった。読み返してみると、よく書けていると思う。//
(02) 私は強い関心をもって、ロシアの宣伝活動を追った。
私はロシアが勝利するのは疑わしいと思ったが、東部戦線での最初の数ヶ月の戦闘は、私の最悪の恐れを確認した。
生涯をロシア問題の研究と教育に捧げることになったけれども、当時はロシアに関心も知識もほとんどなかった。
ポーランドで生活していたが、ロシアとの間は貫き得ない壁で隔てられていた。
母親の二人の兄がそれぞれロシア人女性と結婚して、レニングラードに住んでいることを、知ってはいた。
彼らはときどき祖母と連絡を取り合っていたが、私は彼らの生活ぶりを何も知らなかった。
1930年代後半に、ソヴィエト同盟で起きているおぞましい出来事に関する情報を漏れ聞いたけれども、それがどういうものであるかは知らず、それを明らかにしたいという興味も全くなかった。
しかしながら、ロシアはポーランドとの国境に掘削して地雷を埋めた広い幅の土地を設け、犬を連れた警察官に監視させていることを、不信感をもって知っていた。//
(03) Pearl Harbor とヒトラーのアメリカに対する愚かな宣戦のあと、米国はソヴィエト同盟と連合することとなった。
ソ連に対する関心が高まってきた。
1942年の秋、ポーランド語とロシア語の近似性のために、私は容易にロシア語を学習できる、ということが大まかに明らかになってきた。
私はロシア語の文法書と辞書を購入して、自分でロシア語の勉強を始めた。
ぼんやりと感じていたのは、軍役に編入されるならば—それは不可避だと思えた—私はロシア語の知識を役立てることができるだろう、ということだった。//
(04) 1942年秋、最終学年の前年次の第一学期の最初に、私は軍隊に入ることを志願した。世界は騒乱の渦中にあるのに、大学にいることに落ち着かなくなっていたからだ。
だが、外国市民であるために志願兵になることはできない、と言われた。私は徴兵を待たなければならなかった。
徴兵が翌年1月にあった。そして、その翌月、オハイオ州Columbus にある空軍部隊に、私は編入された。//
(05) アメリカの軍隊についての最初の印象は、食物の質の良さだった。朝食では、ジュースにグレープフルーツかオレンジかを、卵にスクランブルかドライかを、パンにトーストかマフィンかを、選択することができた。
のちの別の軍営地では、感謝祭の日のデザートには、焼きアラスカ(baked Alaska)すら含まれていた。
Columbus での短い務めのあと、私は数百人の他の新規入隊者とともに、知らされていない目的地へと列車で運ばれた。
列車は昼夜を問わず進んで、開けた野原でついに停止した。そこは、北部フロリダだった。
空軍はそこに巨大なテント村を建設していた。私はそこで数週間を過ごし、そのあとで基礎的訓練を受けるためにペテルブルクの優雅なVinoy Hotel へと移った。
私はすみやかに、アメリカ合衆国の市民権を付与された。
訓練は楽なもので、海岸の砂浜で自由時間を過ごすのも認められた。//
(06) 私の同輩たちは多様な専門学校へと送られていったが、私はそのままだった。おそらく、私に関する安全性の調査を行う軍事上の必要があったからだろう。//
(07) 〔1943年〕5月のある日、軍用専門教育計画(A S T P)に関する発表文を読んだ。それは、言語と技術の二つの教育のために兵士を大学(colleges & universities)に派遣するものだった。
私はある同僚から一日交通券を借りて、申込み用紙に記入するためにペテルブルクのASTPの事務所へ行った。
帰途で、説明しがたい理由で、つまり酒場へ足繁く通ってはいなかったので、一杯のビールを飲みに立ち寄った。
私は目の片隅に、二人の憲兵(MP)が店舗に入るのを捉えた。
彼らは、私が提示する義務のある査証について尋ねた。だが私は通し番号を憶えておらず、それで監視付きでホテルまで連れ戻された。
ホテルにいた軍曹は私に、一週間の夜間「厨房警察」(kitchen police, KP)を言い渡した。
その夜、私は巨大ホテルの厨房に報告した。すると、釜戸を鉄綿で磨くよう言われた。
料理人と話していて、彼はポーランド人だと分かった。
彼も私がポーランド出身だと気づいたとき、彼は罰のことは忘れよと言った。
私はつぎの週、浴室に閉じこもり、読書をして毎朝を過ごした。この快適でない位置で、私はSinclair Lewis の主要な諸小説を読み通した。その小説本は、その地域の図書館から借りていたものだった。//
(08) 7月にようやく、南カリフォルニアのChalestone にあるCitadel(要塞)という軍事学校へ行くよう指示を受けた。
私には、ロシア語を学習することが割り当てられた。
いくつかの大学の中から選ぶことができたので、ニューヨーク州Ithica のCornell 大学にした。両親の新しい家があるElmira に近かったからだ。
1943年9月にCornell 大学に到着し、そこでつぎの9ヶ月を過ごした。//
(09) 普通ではない、秀れた教師集団がいた。彼らのほとんどはロシアからの移住者で、Marc Vishniak もいた。この人物は、1918年に立憲会議〔憲法制定議会〕の事務局員として仕事をし、その後はパリの指導的ロシア語新聞の編集者だった。
物理学者のDmitrii Gavronsky は、私にMax Weber を教えてくれた。
ASTP(軍用専門教育課程)は、外国語を教育する「全次元的」方法の先駆者だった。
教師たちは、ロシア語だけで我々に話しかけた。我々が最初に学んだ句は、〈Gde ubornaia ?〉(トイレはどこ?)だった。
この教え方は、教室で実施された。だが、転換された親睦集団の生活区画で、想定されたようにロシア語を話した、と私は言うことができない。
ほとんどの学生たちは、僅かな単語と句しか知らなかった。
言語の教師たちは、強く反共産主義的だったが、その感情を抑制していた。
しかしながら、歴史と政治の教師たちは、共産主義に信頼を寄せていた。第一はVladimir Kazakevich で、この人物は戦争後にソ連に移住することになる。
第二は、Joshua Kunitz だった。
彼らは、自分たちの共感を秘密にしなかった。
全員でおよそ60名いたロシア語課程の学生たちは、ソヴィエト同盟に対して穏やかに友好的だった。ある者たちはイデオロギー的理由でだったが、ほとんどの者は、ドイツ軍と戦闘している同盟者への忠誠心からだった。
しかし、彼らとて、Kazakevich やKunitz が我々に提供する宣伝(propaganda)を鵜呑みにすることはできなかった。
二人とも、教室では事実上は爪弾きにされていた。//
(10) 私は三ヶ月で、ロシア語の基礎を習得した。—人生で初めて、学校で良心的に、本当に勉強をした。—そして、余った時間を他の問題に使った。
ある仲間が、写真を現像して焼く方法を教えてくれた。そして私は、多くの時間を暗室で過ごした。
私は音楽室で、クラシックの音盤を聴いた。
また、多くの時間を図書館での読書に費やし、私の最新の発見と好みの対象となった、Rainer Maria Rilke を翻訳しもした。
そして、デートをした。//
(11) ロシア語課程のASTPの校長は、職業的翻訳者のCharles Malamuth だった。トロツキーによるスターリン伝記を英語に翻訳したのは、この人物だ。
ある夕方、この人が我々の宿舎に持ち運べる蓄音機を持ってきて、我々のうちのポーランド出身者—同じ部屋だった—に聞かせた。それは、Adam Mickiewicz の〈Pun Tadeusz〉という叙事詩からの文章を、魅力的な女性の声で読んだものの録音だった。
我々は、読んでいるのは誰か、と尋ねた。
彼は答えて、Cornell にいる二人のポーランド女性だと言い、それぞれの名前も教えてくれた。
当時に最も親しかったのはCasimir Krol といい、背が高く、少し年上だった。とても女性好きだったが、そうでないときは、憂鬱な気質だった。
彼は女性たちの一人を自分のデート相手に選んだ。背の高い方の女性で、この人が、私の将来の妻、Irene Roth だった。
私はもう一人の女性とデートの打ち合わせをした。この女性が記録を残した。
我々四人は、映画館とアイスクリーム店へ行った。
どちらの女の子も、私には強い印象を残さなかった。
我々もまた、彼女たちに大きな印象を与えなかった。Irene はその夜の日記に、二人から選ぶ必要があるのだとしても、自分でデート相手を選びたい、と書いた。//
(12) しかし、やがてIrene と私は、互いに惹かれ合うようになった。
注目すべきことに、二人には類似の背景があった。二人の母親はともにワルシャワ出身で、二人の父親はともにGalicia 地方の生まれだった。さらに、二人の一族は、おぼろげにも知り合いだった。
二人はともに、ポーランド語より先にドイツ語を覚えた。
二人は、若干の通りを離れてワルシャワに住んでいた。そして、ともに子どもとして参加した誕生日パーティのことを思い出した。
彼女とその家族は戦争の最初の週にワルシャワを脱出し、リトアニアに、ついでスウェーデンへと向った。そして、米国にいる彼女の父親の兄の助けで、1940年1月に、カナダへと移住した。
そのあとすみやかに、彼らはNew York 市に転居した。
彼女はCornell で、建築学を勉強していた。
二人の最初のデートは、Rudolf Serkin 〔ピアニスト—試訳者〕の演奏会に行くことだった。演奏会のあいだ、彼女はプログラムについて走り書きし、私に渡した。それは、多年にわたって彼女が維持した、演奏会での習慣だった。
我々はクラシック・レコードを聴き、写真を印刷した。
ある日、私は彼女をElmira に連れて行き、両親に逢ってもらった。
両親はともに、すぐに彼女を好きになった。//
——
②へと、つづく。
試訳のつづき。
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第一部/第六章・軍隊①。
(01) 1941年6月21日夕方、私はElmira の家で夏を過ごしていたが、ラジオが番組を中断して、ドイツがソヴィエト同盟に侵攻したというニュースを伝えた。
一年後、Pearl Harbor のあと、私はMuskingum の大学新聞に、政治や軍事の評論を週に一回定期的に寄稿するよう依頼された。
それは私の生涯最初の公表文書だった。読み返してみると、よく書けていると思う。//
(02) 私は強い関心をもって、ロシアの宣伝活動を追った。
私はロシアが勝利するのは疑わしいと思ったが、東部戦線での最初の数ヶ月の戦闘は、私の最悪の恐れを確認した。
生涯をロシア問題の研究と教育に捧げることになったけれども、当時はロシアに関心も知識もほとんどなかった。
ポーランドで生活していたが、ロシアとの間は貫き得ない壁で隔てられていた。
母親の二人の兄がそれぞれロシア人女性と結婚して、レニングラードに住んでいることを、知ってはいた。
彼らはときどき祖母と連絡を取り合っていたが、私は彼らの生活ぶりを何も知らなかった。
1930年代後半に、ソヴィエト同盟で起きているおぞましい出来事に関する情報を漏れ聞いたけれども、それがどういうものであるかは知らず、それを明らかにしたいという興味も全くなかった。
しかしながら、ロシアはポーランドとの国境に掘削して地雷を埋めた広い幅の土地を設け、犬を連れた警察官に監視させていることを、不信感をもって知っていた。//
(03) Pearl Harbor とヒトラーのアメリカに対する愚かな宣戦のあと、米国はソヴィエト同盟と連合することとなった。
ソ連に対する関心が高まってきた。
1942年の秋、ポーランド語とロシア語の近似性のために、私は容易にロシア語を学習できる、ということが大まかに明らかになってきた。
私はロシア語の文法書と辞書を購入して、自分でロシア語の勉強を始めた。
ぼんやりと感じていたのは、軍役に編入されるならば—それは不可避だと思えた—私はロシア語の知識を役立てることができるだろう、ということだった。//
(04) 1942年秋、最終学年の前年次の第一学期の最初に、私は軍隊に入ることを志願した。世界は騒乱の渦中にあるのに、大学にいることに落ち着かなくなっていたからだ。
だが、外国市民であるために志願兵になることはできない、と言われた。私は徴兵を待たなければならなかった。
徴兵が翌年1月にあった。そして、その翌月、オハイオ州Columbus にある空軍部隊に、私は編入された。//
(05) アメリカの軍隊についての最初の印象は、食物の質の良さだった。朝食では、ジュースにグレープフルーツかオレンジかを、卵にスクランブルかドライかを、パンにトーストかマフィンかを、選択することができた。
のちの別の軍営地では、感謝祭の日のデザートには、焼きアラスカ(baked Alaska)すら含まれていた。
Columbus での短い務めのあと、私は数百人の他の新規入隊者とともに、知らされていない目的地へと列車で運ばれた。
列車は昼夜を問わず進んで、開けた野原でついに停止した。そこは、北部フロリダだった。
空軍はそこに巨大なテント村を建設していた。私はそこで数週間を過ごし、そのあとで基礎的訓練を受けるためにペテルブルクの優雅なVinoy Hotel へと移った。
私はすみやかに、アメリカ合衆国の市民権を付与された。
訓練は楽なもので、海岸の砂浜で自由時間を過ごすのも認められた。//
(06) 私の同輩たちは多様な専門学校へと送られていったが、私はそのままだった。おそらく、私に関する安全性の調査を行う軍事上の必要があったからだろう。//
(07) 〔1943年〕5月のある日、軍用専門教育計画(A S T P)に関する発表文を読んだ。それは、言語と技術の二つの教育のために兵士を大学(colleges & universities)に派遣するものだった。
私はある同僚から一日交通券を借りて、申込み用紙に記入するためにペテルブルクのASTPの事務所へ行った。
帰途で、説明しがたい理由で、つまり酒場へ足繁く通ってはいなかったので、一杯のビールを飲みに立ち寄った。
私は目の片隅に、二人の憲兵(MP)が店舗に入るのを捉えた。
彼らは、私が提示する義務のある査証について尋ねた。だが私は通し番号を憶えておらず、それで監視付きでホテルまで連れ戻された。
ホテルにいた軍曹は私に、一週間の夜間「厨房警察」(kitchen police, KP)を言い渡した。
その夜、私は巨大ホテルの厨房に報告した。すると、釜戸を鉄綿で磨くよう言われた。
料理人と話していて、彼はポーランド人だと分かった。
彼も私がポーランド出身だと気づいたとき、彼は罰のことは忘れよと言った。
私はつぎの週、浴室に閉じこもり、読書をして毎朝を過ごした。この快適でない位置で、私はSinclair Lewis の主要な諸小説を読み通した。その小説本は、その地域の図書館から借りていたものだった。//
(08) 7月にようやく、南カリフォルニアのChalestone にあるCitadel(要塞)という軍事学校へ行くよう指示を受けた。
私には、ロシア語を学習することが割り当てられた。
いくつかの大学の中から選ぶことができたので、ニューヨーク州Ithica のCornell 大学にした。両親の新しい家があるElmira に近かったからだ。
1943年9月にCornell 大学に到着し、そこでつぎの9ヶ月を過ごした。//
(09) 普通ではない、秀れた教師集団がいた。彼らのほとんどはロシアからの移住者で、Marc Vishniak もいた。この人物は、1918年に立憲会議〔憲法制定議会〕の事務局員として仕事をし、その後はパリの指導的ロシア語新聞の編集者だった。
物理学者のDmitrii Gavronsky は、私にMax Weber を教えてくれた。
ASTP(軍用専門教育課程)は、外国語を教育する「全次元的」方法の先駆者だった。
教師たちは、ロシア語だけで我々に話しかけた。我々が最初に学んだ句は、〈Gde ubornaia ?〉(トイレはどこ?)だった。
この教え方は、教室で実施された。だが、転換された親睦集団の生活区画で、想定されたようにロシア語を話した、と私は言うことができない。
ほとんどの学生たちは、僅かな単語と句しか知らなかった。
言語の教師たちは、強く反共産主義的だったが、その感情を抑制していた。
しかしながら、歴史と政治の教師たちは、共産主義に信頼を寄せていた。第一はVladimir Kazakevich で、この人物は戦争後にソ連に移住することになる。
第二は、Joshua Kunitz だった。
彼らは、自分たちの共感を秘密にしなかった。
全員でおよそ60名いたロシア語課程の学生たちは、ソヴィエト同盟に対して穏やかに友好的だった。ある者たちはイデオロギー的理由でだったが、ほとんどの者は、ドイツ軍と戦闘している同盟者への忠誠心からだった。
しかし、彼らとて、Kazakevich やKunitz が我々に提供する宣伝(propaganda)を鵜呑みにすることはできなかった。
二人とも、教室では事実上は爪弾きにされていた。//
(10) 私は三ヶ月で、ロシア語の基礎を習得した。—人生で初めて、学校で良心的に、本当に勉強をした。—そして、余った時間を他の問題に使った。
ある仲間が、写真を現像して焼く方法を教えてくれた。そして私は、多くの時間を暗室で過ごした。
私は音楽室で、クラシックの音盤を聴いた。
また、多くの時間を図書館での読書に費やし、私の最新の発見と好みの対象となった、Rainer Maria Rilke を翻訳しもした。
そして、デートをした。//
(11) ロシア語課程のASTPの校長は、職業的翻訳者のCharles Malamuth だった。トロツキーによるスターリン伝記を英語に翻訳したのは、この人物だ。
ある夕方、この人が我々の宿舎に持ち運べる蓄音機を持ってきて、我々のうちのポーランド出身者—同じ部屋だった—に聞かせた。それは、Adam Mickiewicz の〈Pun Tadeusz〉という叙事詩からの文章を、魅力的な女性の声で読んだものの録音だった。
我々は、読んでいるのは誰か、と尋ねた。
彼は答えて、Cornell にいる二人のポーランド女性だと言い、それぞれの名前も教えてくれた。
当時に最も親しかったのはCasimir Krol といい、背が高く、少し年上だった。とても女性好きだったが、そうでないときは、憂鬱な気質だった。
彼は女性たちの一人を自分のデート相手に選んだ。背の高い方の女性で、この人が、私の将来の妻、Irene Roth だった。
私はもう一人の女性とデートの打ち合わせをした。この女性が記録を残した。
我々四人は、映画館とアイスクリーム店へ行った。
どちらの女の子も、私には強い印象を残さなかった。
我々もまた、彼女たちに大きな印象を与えなかった。Irene はその夜の日記に、二人から選ぶ必要があるのだとしても、自分でデート相手を選びたい、と書いた。//
(12) しかし、やがてIrene と私は、互いに惹かれ合うようになった。
注目すべきことに、二人には類似の背景があった。二人の母親はともにワルシャワ出身で、二人の父親はともにGalicia 地方の生まれだった。さらに、二人の一族は、おぼろげにも知り合いだった。
二人はともに、ポーランド語より先にドイツ語を覚えた。
二人は、若干の通りを離れてワルシャワに住んでいた。そして、ともに子どもとして参加した誕生日パーティのことを思い出した。
彼女とその家族は戦争の最初の週にワルシャワを脱出し、リトアニアに、ついでスウェーデンへと向った。そして、米国にいる彼女の父親の兄の助けで、1940年1月に、カナダへと移住した。
そのあとすみやかに、彼らはNew York 市に転居した。
彼女はCornell で、建築学を勉強していた。
二人の最初のデートは、Rudolf Serkin 〔ピアニスト—試訳者〕の演奏会に行くことだった。演奏会のあいだ、彼女はプログラムについて走り書きし、私に渡した。それは、多年にわたって彼女が維持した、演奏会での習慣だった。
我々はクラシック・レコードを聴き、写真を印刷した。
ある日、私は彼女をElmira に連れて行き、両親に逢ってもらった。
両親はともに、すぐに彼女を好きになった。//
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②へと、つづく。