Markus Gabriel, Der Sinn des Denken(2018年)。
 =Markus Gabriel, The Meaning of Thought (2020年)。
 久しぶりに、ドイツ語から試訳する。邦訳書はないように見える。
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 第五章/現実とシミュレーション。
 第17節・きのこ(Champignons)、シャンパン(Champagner)と思考の思考との区別。
 <省略>
 (20) ここまで読んできた読者ならば、とっくに思考に関して思考することを学んだだろう。
 アリストテレスの文章に貴方たちは、ひょっとすれば多少とも直接に納得するだろう。
 そしてまた、明らかになってきているはずなのは、全ての思考が思考されなかったことを対象としているわけではなく、ゆえに全ての思考が無意識の過程を説明しているわけではない、ということだ。
 我々は、…思考の諸理論を発展させる力をもつことを認めなければならない。そうでなければ、真(echt)の認識物と知的に昇華された権力闘争を区別する規準をもはや持たないだろうから。
 (21) このことは、フーコー(Foucault)やその師匠(Meister)のニーチェ(Nietzsche)についても言える。この二人は、どのようにして力への無意識の意思や隠された専門化の方法に関する彼らの考察に立ち至ったかを、説明することができない。これらは、我々の意識的な思考の全体を組み立てるはずのものであるのだが。
 貴方たちは自分たちは例外たる地位に置かれていると不満に思う。ちなみにそれは、ニーチェが恥知らずにも奴隷状態を正当化するために用いたものだ。(注247, Nietzsche)
 (22) 我々にはゆえに、二つの選択肢がある。
 我々は、たびたび真実と事実を我々の利己的利益よりも優先する、理性的で精神的な生物(Lebenwesen)であることができるという観念から完全に決別するか、それとも、純粋な思考(reines Denken)がある、ということを受け容れるか。
 (23) むろん、純粋な思考は生物が行うことだ。
 人間は、理性または純粋な思考だけではない。そうではなく、生の営為がしばしば我々の思考過程に関する省察のかたちをとる生物だ。
 「なぜなら、純粋な思考の現実は、生であるからだ」。(注248, Aristoteles)
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 第18節へ続いている。