(つづき)
ニ 西尾幹二の個々の論述は信用できないこと、それを信頼してはいけないことは、「思想家」という語を用いるつぎの文章からも、明瞭だ。
2002年、アメリカの具体的政策方針を批判しないという論脈だが、一般論ふうに、西尾はこう書いた。
①「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけないというのが私の考えです」。
②「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない。/正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
西尾幹二・歴史と常識(扶桑社、2002年5月)、p.65-p.66(原文は月刊正論2002年6月号)。
これは、すさまじい言葉だ。
思想家は「最高度に政治的でなくてはいけない」。
どういう場合にかというと、「日本の運命に関わる政治の重大な局面」でだ。
思想家は日本が「外国の前で土下座」するのを「思想的に支持しなければならない」ときもあり得る。
どういう場合にかというと、「いよいよの場面で、国益のために」だ。
まず第一に、結論自体に驚かされる。
本来の「思想」を「政治」に屈従させることを正面から肯定し、「思想的に支持」すべき可能性も肯定する。
思想家が「正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる」、そういうときがある、または既にあったかもしれないと、公言しているのだ。
第二に、どういう例外的な?場合にかの要件は、きわめて抽象的で、曖昧なままだ。
「日本の運命に関わる政治の重大な局面」で、「いよいよの場面で、国益のために」。
「国益」も含めて、こういう場合に該当するか否かを、誰が判断するのか。
もちろん、西尾幹二自身だろう。
「政治」を優先することを一定の場合には正面から肯定する、こういう「思想家」の言明、発言を、われわれは「信用」、「信頼」することができるだろうか?
この人は、自分の生命はもちろん、自分の「名誉」あるいは「世俗的顕名」を守るためには、容易に「政治」権力に譲歩し、屈従するのではないか、と感じられる。このような「政治」権力は今の日本にはないだろうが、かつての日本や外国にはあった。西尾幹二にとって、「安全」と「世俗的体裁」だけは、絶対に守らなければならないのであり、「正しい『思想』も、正しい『論理』もそのときにはかなぐり捨てる」心づもりがあると感じられる。
そのような人物は「思想家」か?
上の文章は、昨年末か、今年2022年に入って、小林よしのりの本を通じて知り、所在を西尾幹二の書物の現物で確認した。
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つづく。
ニ 西尾幹二の個々の論述は信用できないこと、それを信頼してはいけないことは、「思想家」という語を用いるつぎの文章からも、明瞭だ。
2002年、アメリカの具体的政策方針を批判しないという論脈だが、一般論ふうに、西尾はこう書いた。
①「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけないというのが私の考えです」。
②「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない。/正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
西尾幹二・歴史と常識(扶桑社、2002年5月)、p.65-p.66(原文は月刊正論2002年6月号)。
これは、すさまじい言葉だ。
思想家は「最高度に政治的でなくてはいけない」。
どういう場合にかというと、「日本の運命に関わる政治の重大な局面」でだ。
思想家は日本が「外国の前で土下座」するのを「思想的に支持しなければならない」ときもあり得る。
どういう場合にかというと、「いよいよの場面で、国益のために」だ。
まず第一に、結論自体に驚かされる。
本来の「思想」を「政治」に屈従させることを正面から肯定し、「思想的に支持」すべき可能性も肯定する。
思想家が「正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる」、そういうときがある、または既にあったかもしれないと、公言しているのだ。
第二に、どういう例外的な?場合にかの要件は、きわめて抽象的で、曖昧なままだ。
「日本の運命に関わる政治の重大な局面」で、「いよいよの場面で、国益のために」。
「国益」も含めて、こういう場合に該当するか否かを、誰が判断するのか。
もちろん、西尾幹二自身だろう。
「政治」を優先することを一定の場合には正面から肯定する、こういう「思想家」の言明、発言を、われわれは「信用」、「信頼」することができるだろうか?
この人は、自分の生命はもちろん、自分の「名誉」あるいは「世俗的顕名」を守るためには、容易に「政治」権力に譲歩し、屈従するのではないか、と感じられる。このような「政治」権力は今の日本にはないだろうが、かつての日本や外国にはあった。西尾幹二にとって、「安全」と「世俗的体裁」だけは、絶対に守らなければならないのであり、「正しい『思想』も、正しい『論理』もそのときにはかなぐり捨てる」心づもりがあると感じられる。
そのような人物は「思想家」か?
上の文章は、昨年末か、今年2022年に入って、小林よしのりの本を通じて知り、所在を西尾幹二の書物の現物で確認した。
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つづく。