一 前回に関連して、つづける。
私が読んだ順に記すと、西尾幹二は2019年に、「神話」についてこう語った。
月刊WiLL2019年4月号=岩田温との対談。p.219-p.220。
①「神話は歴史とは異なります。…。
歴史は…、諸事実の中からの事実の選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由を許しますが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません。」
2017年にも、ほとんど同じ文を書いていた
2017年1月/「つくる会」20周年挨拶文—全集第17巻(2018)所収、p.715。
②「神話と歴史は別であります。…。
歴史は諸事実の中からの事実の選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由を許しますが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません。」
以上、完全な同文ではないが、ほとんど同じだ。
なお、この欄でかつて西尾幹二は文章の「使い回し」をしていると批判し、<コピー・ペースト>をしているふうに記したのは誤りで、お詫びして訂正する。「…」の部分も一致していない。
しかし、ほとんど同じ文だ。①と②を比べて一読すれば、すぐに分かるだろう。西尾は②の印刷文書を見ながら発言したのか、あるいは対談のゲラ段階で②を対談発言の中に書き加えたのか。
なお、②の文章の前には、つぎの一文がある。上掲同頁。
「歴史の根っこをつかまえるのだとして、いきなり『古事記』に立ち環り、その精神を強調する方が最近は目立ちますが、これもそのまま信じられるでしょうか」。
初めてこの欄に記すが、これは西尾の<保守>派内のライバル・櫻井よしこ批判であり、皮肉または当てこすりだ。
櫻井よしこは、西尾が上を書く直前に、<古事記の精神を強調>し、「古事記」の精神・価値観を理解して掲げるのが「保守」だ旨を書いていた。「3月号」になっているが、実際にはもっと早く発行されていると見られる。
櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)、p.85-p.86。
古事記の「精神」を強調する限りでは、西尾と同じで、「歴史」把握のための「いきなり」が良くないのだろうかと、西尾の言い分はやや不思議でもあるのだが。
--------
二 上のような「神話」と「歴史」の区別、<歴史—解釈を許す、神話—解釈を許さず「信じる」だけ>という対置の根拠はいったいどこにあるのだろうと、不可解だった。
少しは理解できたのは、以下による。
すなわち、秋月なりに言い換えれば、「理屈」ではない、「神話」とはそもそも「信じるべき」ものなのだ。そのようなものとして西尾は「神話」という語を用いているのだ。そして、日本の「王権」の由来が「神話」にあることも、日本人は「信じるべき」なのだ。
西尾幹二「神話の危機」2000年10月—同・日本の根本問題(新潮社(編集担当・冨澤祥郎)、2003) 所収、p.210-p.235。
例のごとく西尾の文章の「論旨」をたどるのは容易ではない。上の点に焦点を当てて、叙述の順に部分的に抜粋引用する。長くなる。
----
・「古事記の冒頭に、国生みの神話があり、…」、「神の上に神がいる」。日本民族以外と比べると「神らしくない神」だ。
・「日本の神様は、規範を持たない。掟を持たない」。仏教、儒教を「取り入れ」、「他の神を自らの神にするということに余りこだわりがない」。ふつうは「神仏習合」と言うが、その前に「神神習合」があったともされる。「神仏習合も神神習合の一つのバリエーションと考えられるのでしょう」。
・他の文明圏では「宗教」は血を流す対立を繰り返し、「不寛容」だったが、「日本の神様はどうもそうではない」。
・日本の神は「絶対唯一神」ではない。「自らの上に神を持たないがゆえに、すべてが神になり得る構造。…仏もまた神の一種としてとらえることが出来たという構造」、これは、「日本民族の主体性」を「暗黙のうちに自己表現」しているのではないか。
・仏教伝来時も、「すべてのものを神として迎え入れる日本の神の概念が非常に包容力を持ったものであったから、これを包み込むことが可能であったのです」。
・「死ねば仏になる」と言うが、これは「死ねば神になる」のと同じで、「日本では神は自然万物とつながっており、そこに断絶がない。…明らかに神道と仏教が一緒になっている姿です」。「日本人にとって仏教というものは、難しい宗教哲学というよりも、美を味わう存在だ」と言えるだろう。だから素晴らしい「仏教彫刻」を残したのであり、「日本の神話と仏教信仰とは初めから何らの矛盾なく整合したのだ」。「仏教の導入に象徴される、何でも包容する日本のアイデンティティ…」。
・「日本文明の特徴」は「排他性の少ない、自然形成によるアイデンティティの高さのようなもの」でないか。
・日本民族は「自分の原理」を主張しなかったのではなく、「何時の頃からか、自分の国を『神の国』と自覚するようになります」。
・「神と仏が一つになるという思想が日本の根っこだという考えが、平安末期から北畠親房を経て出来あがった日本の国家観念です」。
・「日本の仏教は、…社会的にほぼ幕府に利用される一方で、思想的にはアニミズム的な要素が非常に強いのでインドの哲学のようにはならない」。「そのような体系的思考は日本の仏教には向いていない」のではないか。
・「日本人は完結した神話と伝統の中でずっと生きてきたのです。『大鏡』、『愚管抄』、『神皇正統記』—これらの書物はすべて神代と人代とを区別せず、天皇がまっすぐに神代につながっている。天皇譜と神話の神々の世界とが一直線につながっているのです」。
・「日本の天皇は神話によって根拠づけられ、神話と王権が直結している」。
・「神話とつながるということは、自然万物とつながるということなのです。日本の天皇の場合は神話の世界とも、自然とも全部つながっている。これは世界に類例がありません」。
・豪族の祖先も「神話」に出てくるので、「われわれは祖先崇拝を通じて神話とつながっている」。
・神話学者は理解できない。「過去の日本人にとっては、神話は学問化されない何物かであり、天皇の存在とつながった信仰の対象でもあったのです」。
・「宗教にとって重要なのは自らの信仰であって、知識ではありません」。
・「研究の対象が、信仰や神話…になりますと、相手は自然現象ではなく、人間の心です。自分の心の客観化など不可能なことです」。「信仰がどういうことかを知ることは、物体の法則を知ることと同じではない」。
・「つまり、信じるということは、一つを信じることであって、あれもこれも信じるということではないのです」。「かように、宗教というものは科学とは正反対なものです」。
・「近代科学」、「合理的な学問」に対して仏教にはまだ抵抗力があったが動揺し、「神話はもっと大きな深刻な打撃を受けました」。
・「神話を虚構化」した「合理主義者」の津田左右吉を引き継いで戦後に「神話破壊の現象」を出現させた「その筆頭が丸山真男です」。
・津田史学は今なお「猛威」を奮っていて、「古代史において『日本書紀』をきちんと読まないで『魏志倭人伝』ばかり持ち上げるのも、同じ合理主義の現れです」。「中国語で書かれた歴史を信じて、なぜ日本人が書いた歴史を信じないのか」。
・「日本の神道の場合は、何が入ってきても全部習合したため、無垢でありつづけることができた。しかし、近代化に対峙したときに、今度こそ大きな危機にさらされることになった」。
・「日本の神話の危機、日本の神道の危機は、日本そのものの危機と言っていいかもしれない」。
・「日本は神の上に神があり、またその上に神があって、絶対の神がない。無限定の神は何をも自らの神にすることが出来るという包容力とフレキシビリティがある。そのことは日本の深い強さであると同時に、近代科学文明というものにさらされたときにはある種の大きな脆さであるようにも思える」。「理論までも外から得て自己を防衛することはできません」。
・「日本人の持っている長い歴史には、歴史が物語っている何かがある。…、日本人の中に自ずと宿っている生命感、神秘感といったものを回復することが重要だと思います」。
・日本の「神話」は、「物語—こうした神話らしい楽しいお話」がある、「…文学」でもあり、「生命というものを感じさせる話が多い」。それを「ことごとしい科学分析の対象にしても仕方がない」。
・「神話がまっすぐ天皇制度につながっているということで、近代以降神話は解体の危機にさらされている」が、「もし王権につながってこないのなら日本の神話はほとんど意味がない」。
・「神話が王権の根拠になっていることが、世界史の中で日本民族が自己を保っている唯一のよりどころなのです」。
・「日本人は外のものをもう借りない」。自分で「再構成」し、自分が「発信者」になる。そのときに、「日本人のこれからの文明の発展と自己回復力の源」になるのは、「神話に表現されているような自然と自己の同一性といったもの」だと信じている。
----
以上。
日本・日本人・日本民族への強いこだわりは別として、凡人の秋月でも気づくような「仏教」認識の誤り、<こころ・神話>と<物体・科学>の単純で幼稚な対置・二分論、「神話に表現されているような自然と自己の同一性といったもの」等々の実体がほとんど不明の空疎な言辞、「生命」に言及する等のニーチェの影響があると見られる表現、等々、感じることは多い。
また、この人にとって、—上の一の2017年、2019年の文章では明確でなかったが、この文章では—「神話」とは王権・「天皇」の生成・存続の根拠であり、かつ「神道」と全くかほとんど同一のものであることも確認できる。
興味深く、かつ重要なのは、明らかに「仏教」よりも「神道」が優先されていることにも関連して、つぎだ。
この「危機に立つ神話」は、「日本青年協議会・日本文化研究所共催」の「セミナー」での「講演」記録だと末尾に明記されている。p.235。
後者は前者の関連団体。
この講演は、西尾が「つくる会」の会長だった2000年に行われた。
しかし、興味深いことに、「つくる会」の実質的分裂または縮小化のあった2006年以降に、西尾幹二は、「日本青年協議会」について、こう発言した。2009年のこと。
・「日本青年協議会、これは日本会議の母体で、日本会議はこれの上部団体ですから、今でも日本青年協議会は存在し、組織は日本会議と一体です」。
・「日本会議」に「『新しい歴史教科書をつくる会』なんてえらい被害を受けた」。「会はすんでのところで乗っ取られにかかり、ついに撹乱、分断されたんです。悪い連中ですよ」。
・「日本会議」の「正体がよくわかったので、残された人生の時間に彼らとはいっさい関わりを持たないでいきたいと思います」。
以上、西尾幹二=平田文昭・保守の怒り(草思社、2009)。
→No.2464「四付」。
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三以降へと、つづく。
私が読んだ順に記すと、西尾幹二は2019年に、「神話」についてこう語った。
月刊WiLL2019年4月号=岩田温との対談。p.219-p.220。
①「神話は歴史とは異なります。…。
歴史は…、諸事実の中からの事実の選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由を許しますが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません。」
2017年にも、ほとんど同じ文を書いていた
2017年1月/「つくる会」20周年挨拶文—全集第17巻(2018)所収、p.715。
②「神話と歴史は別であります。…。
歴史は諸事実の中からの事実の選択を前提とし、事実を選ぶ人間の曖昧さ、解釈の自由を許しますが、神話を前にしてわれわれにはそういう自由はありません。」
以上、完全な同文ではないが、ほとんど同じだ。
なお、この欄でかつて西尾幹二は文章の「使い回し」をしていると批判し、<コピー・ペースト>をしているふうに記したのは誤りで、お詫びして訂正する。「…」の部分も一致していない。
しかし、ほとんど同じ文だ。①と②を比べて一読すれば、すぐに分かるだろう。西尾は②の印刷文書を見ながら発言したのか、あるいは対談のゲラ段階で②を対談発言の中に書き加えたのか。
なお、②の文章の前には、つぎの一文がある。上掲同頁。
「歴史の根っこをつかまえるのだとして、いきなり『古事記』に立ち環り、その精神を強調する方が最近は目立ちますが、これもそのまま信じられるでしょうか」。
初めてこの欄に記すが、これは西尾の<保守>派内のライバル・櫻井よしこ批判であり、皮肉または当てこすりだ。
櫻井よしこは、西尾が上を書く直前に、<古事記の精神を強調>し、「古事記」の精神・価値観を理解して掲げるのが「保守」だ旨を書いていた。「3月号」になっているが、実際にはもっと早く発行されていると見られる。
櫻井よしこ「これからの保守に求められること」月刊正論2017年3月号(産経)、p.85-p.86。
古事記の「精神」を強調する限りでは、西尾と同じで、「歴史」把握のための「いきなり」が良くないのだろうかと、西尾の言い分はやや不思議でもあるのだが。
--------
二 上のような「神話」と「歴史」の区別、<歴史—解釈を許す、神話—解釈を許さず「信じる」だけ>という対置の根拠はいったいどこにあるのだろうと、不可解だった。
少しは理解できたのは、以下による。
すなわち、秋月なりに言い換えれば、「理屈」ではない、「神話」とはそもそも「信じるべき」ものなのだ。そのようなものとして西尾は「神話」という語を用いているのだ。そして、日本の「王権」の由来が「神話」にあることも、日本人は「信じるべき」なのだ。
西尾幹二「神話の危機」2000年10月—同・日本の根本問題(新潮社(編集担当・冨澤祥郎)、2003) 所収、p.210-p.235。
例のごとく西尾の文章の「論旨」をたどるのは容易ではない。上の点に焦点を当てて、叙述の順に部分的に抜粋引用する。長くなる。
----
・「古事記の冒頭に、国生みの神話があり、…」、「神の上に神がいる」。日本民族以外と比べると「神らしくない神」だ。
・「日本の神様は、規範を持たない。掟を持たない」。仏教、儒教を「取り入れ」、「他の神を自らの神にするということに余りこだわりがない」。ふつうは「神仏習合」と言うが、その前に「神神習合」があったともされる。「神仏習合も神神習合の一つのバリエーションと考えられるのでしょう」。
・他の文明圏では「宗教」は血を流す対立を繰り返し、「不寛容」だったが、「日本の神様はどうもそうではない」。
・日本の神は「絶対唯一神」ではない。「自らの上に神を持たないがゆえに、すべてが神になり得る構造。…仏もまた神の一種としてとらえることが出来たという構造」、これは、「日本民族の主体性」を「暗黙のうちに自己表現」しているのではないか。
・仏教伝来時も、「すべてのものを神として迎え入れる日本の神の概念が非常に包容力を持ったものであったから、これを包み込むことが可能であったのです」。
・「死ねば仏になる」と言うが、これは「死ねば神になる」のと同じで、「日本では神は自然万物とつながっており、そこに断絶がない。…明らかに神道と仏教が一緒になっている姿です」。「日本人にとって仏教というものは、難しい宗教哲学というよりも、美を味わう存在だ」と言えるだろう。だから素晴らしい「仏教彫刻」を残したのであり、「日本の神話と仏教信仰とは初めから何らの矛盾なく整合したのだ」。「仏教の導入に象徴される、何でも包容する日本のアイデンティティ…」。
・「日本文明の特徴」は「排他性の少ない、自然形成によるアイデンティティの高さのようなもの」でないか。
・日本民族は「自分の原理」を主張しなかったのではなく、「何時の頃からか、自分の国を『神の国』と自覚するようになります」。
・「神と仏が一つになるという思想が日本の根っこだという考えが、平安末期から北畠親房を経て出来あがった日本の国家観念です」。
・「日本の仏教は、…社会的にほぼ幕府に利用される一方で、思想的にはアニミズム的な要素が非常に強いのでインドの哲学のようにはならない」。「そのような体系的思考は日本の仏教には向いていない」のではないか。
・「日本人は完結した神話と伝統の中でずっと生きてきたのです。『大鏡』、『愚管抄』、『神皇正統記』—これらの書物はすべて神代と人代とを区別せず、天皇がまっすぐに神代につながっている。天皇譜と神話の神々の世界とが一直線につながっているのです」。
・「日本の天皇は神話によって根拠づけられ、神話と王権が直結している」。
・「神話とつながるということは、自然万物とつながるということなのです。日本の天皇の場合は神話の世界とも、自然とも全部つながっている。これは世界に類例がありません」。
・豪族の祖先も「神話」に出てくるので、「われわれは祖先崇拝を通じて神話とつながっている」。
・神話学者は理解できない。「過去の日本人にとっては、神話は学問化されない何物かであり、天皇の存在とつながった信仰の対象でもあったのです」。
・「宗教にとって重要なのは自らの信仰であって、知識ではありません」。
・「研究の対象が、信仰や神話…になりますと、相手は自然現象ではなく、人間の心です。自分の心の客観化など不可能なことです」。「信仰がどういうことかを知ることは、物体の法則を知ることと同じではない」。
・「つまり、信じるということは、一つを信じることであって、あれもこれも信じるということではないのです」。「かように、宗教というものは科学とは正反対なものです」。
・「近代科学」、「合理的な学問」に対して仏教にはまだ抵抗力があったが動揺し、「神話はもっと大きな深刻な打撃を受けました」。
・「神話を虚構化」した「合理主義者」の津田左右吉を引き継いで戦後に「神話破壊の現象」を出現させた「その筆頭が丸山真男です」。
・津田史学は今なお「猛威」を奮っていて、「古代史において『日本書紀』をきちんと読まないで『魏志倭人伝』ばかり持ち上げるのも、同じ合理主義の現れです」。「中国語で書かれた歴史を信じて、なぜ日本人が書いた歴史を信じないのか」。
・「日本の神道の場合は、何が入ってきても全部習合したため、無垢でありつづけることができた。しかし、近代化に対峙したときに、今度こそ大きな危機にさらされることになった」。
・「日本の神話の危機、日本の神道の危機は、日本そのものの危機と言っていいかもしれない」。
・「日本は神の上に神があり、またその上に神があって、絶対の神がない。無限定の神は何をも自らの神にすることが出来るという包容力とフレキシビリティがある。そのことは日本の深い強さであると同時に、近代科学文明というものにさらされたときにはある種の大きな脆さであるようにも思える」。「理論までも外から得て自己を防衛することはできません」。
・「日本人の持っている長い歴史には、歴史が物語っている何かがある。…、日本人の中に自ずと宿っている生命感、神秘感といったものを回復することが重要だと思います」。
・日本の「神話」は、「物語—こうした神話らしい楽しいお話」がある、「…文学」でもあり、「生命というものを感じさせる話が多い」。それを「ことごとしい科学分析の対象にしても仕方がない」。
・「神話がまっすぐ天皇制度につながっているということで、近代以降神話は解体の危機にさらされている」が、「もし王権につながってこないのなら日本の神話はほとんど意味がない」。
・「神話が王権の根拠になっていることが、世界史の中で日本民族が自己を保っている唯一のよりどころなのです」。
・「日本人は外のものをもう借りない」。自分で「再構成」し、自分が「発信者」になる。そのときに、「日本人のこれからの文明の発展と自己回復力の源」になるのは、「神話に表現されているような自然と自己の同一性といったもの」だと信じている。
----
以上。
日本・日本人・日本民族への強いこだわりは別として、凡人の秋月でも気づくような「仏教」認識の誤り、<こころ・神話>と<物体・科学>の単純で幼稚な対置・二分論、「神話に表現されているような自然と自己の同一性といったもの」等々の実体がほとんど不明の空疎な言辞、「生命」に言及する等のニーチェの影響があると見られる表現、等々、感じることは多い。
また、この人にとって、—上の一の2017年、2019年の文章では明確でなかったが、この文章では—「神話」とは王権・「天皇」の生成・存続の根拠であり、かつ「神道」と全くかほとんど同一のものであることも確認できる。
興味深く、かつ重要なのは、明らかに「仏教」よりも「神道」が優先されていることにも関連して、つぎだ。
この「危機に立つ神話」は、「日本青年協議会・日本文化研究所共催」の「セミナー」での「講演」記録だと末尾に明記されている。p.235。
後者は前者の関連団体。
この講演は、西尾が「つくる会」の会長だった2000年に行われた。
しかし、興味深いことに、「つくる会」の実質的分裂または縮小化のあった2006年以降に、西尾幹二は、「日本青年協議会」について、こう発言した。2009年のこと。
・「日本青年協議会、これは日本会議の母体で、日本会議はこれの上部団体ですから、今でも日本青年協議会は存在し、組織は日本会議と一体です」。
・「日本会議」に「『新しい歴史教科書をつくる会』なんてえらい被害を受けた」。「会はすんでのところで乗っ取られにかかり、ついに撹乱、分断されたんです。悪い連中ですよ」。
・「日本会議」の「正体がよくわかったので、残された人生の時間に彼らとはいっさい関わりを持たないでいきたいと思います」。
以上、西尾幹二=平田文昭・保守の怒り(草思社、2009)。
→No.2464「四付」。
——
三以降へと、つづく。