Richard Pipes, VIXI -Memoirs of Non-Belonger(2003年)
 試訳のつづき。
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 第一部/ポーランド・イタリア・アメリカ。
 第一章・戦争 ③。
 (24) 〔1939年〕10月6日、ヒトラーが、勝利してポーランドの首都を視察するためにやって来た。
 私は、我々の4階の窓から、彼を眺めた。ドイツ兵が、行路である目抜き通りのMarzalkowska 通り沿いと我々の家屋の下に、数フィートごとに銃砲を持って配置されていた。
 彼はオープンカーのMerzedes に乗り、親しげな様子で立ち上がり、ナツィ式の敬礼をしていた。
 ヒトラーを殺すのは何と簡単なのか、と私は思った。//
 (25) ポーランド人は初めは、外国による占領を寡黙な宿命意識で耐えた。
 結局は、彼らの国は21年間だけ独立し、つづく120年は外国に支配された。
 ポーランド人の愛国意識は、国家性よりも文化を伴う民族性と彼らの宗教へと向かった。
 彼らは、この占領は長く続くだろうが、再生したポーランドをもう一度見るだろうことを、疑っていなかった。//
 (26) もちろん、ユダヤ人には状況はきわめて困難だった。
 ポーランドのユダヤ人の大多数—正統派で、密集した区画に住んでいた—はおそらく、彼らに対するナツィの考え方をほとんど何も知らなかった。
 東ヨーロッパのユダヤ人は、住民のうちで最も親ドイツの集団だった(共産主義とロシアに共感をもった者たちは別として)。(*脚注1)
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 (*脚注1)不幸なことに、多くがそうだった。その中で生活しつつもキリスト教徒から区別された彼らは、私事についてはきわめて現実的で、実際に厳しい体験で鍛えられていたが、伝統的に排除された政治の世界については著しく無知だった。
 彼らの中で同化した者たちは、メシアの到来を信じる正統派信者の仲間として、社会主義を信じがちだった。
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 彼らは、ドイツがロシアからポーランドを征圧して法と秩序をもたらした第一次大戦の間の時期(1915-1918)を記憶していた。私の母親の家族には、その時代のよい思い出しかなかった。
 私は思うのだが、ユダヤ人の大多数は1939年9月に起きたことをひどく怖がったということはなかった。そして、多少とも、正常な生活が回復すると予測した。
 Israel Zangwill はその〈ゲットーの子どもたち〉で、正当にこう語る。
 「ユダヤ人は迫害による苦痛をほとんど感じなかった。
 彼らはGoluth つまり亡命(exile)の時代にいると、またメシアの日々はまだ来ていないと、分かっていた。そして、迫害者は全知全能の神(Providence)の愚かな手先にすぎない、と考えた。」(+後注02)
 (+後注02) 1895年, New York &London.
 (27) 同化したユダヤ人は、より心配した。彼らはニュルンベルク法と水晶夜(Kristallnacht)〔1938年11月の反ユダヤ人暴動・「11月の虐殺」—試訳者〕について、知っていた。
 しかし、彼らですら、ドイツ支配下で何とかして生きていける、と考えた。ドイツ人にも結局は、医者、服屋、パン屋が必要だろう。
 ユダヤ人は二千年以上、敵対的環境の中で生き延びていく仕方を学んできていた。
 彼らは、体面や同情に訴えたり、人権を要求したりではなく、諸権力に有用な者に自分たちがなることによって、生存を達成した。すなわち、王や貴族に金を貸し、彼らの必需品を販売し、彼らの賃料や税金を徴収することによって。
 かつてしばらくの間、彼らが財産を奪われて追放されたのは本当だが、彼らはほとんどの時期を何とかして生きてきた。
 今度もそのようになるだろう、と彼らは思った。
 彼らは、大きな間違いを冒した。
 彼らが今対処しなければならない者たちは経済的な個人的利益には影響されず、異常な人種的憎悪に動かされていたのだ。—抑えることのできない憎悪感情。//
 (28) 半世紀後に、パレスチナ人と交渉するイスラエルの人々のナイーヴさを観察して、この〔ユダヤ人の〕態度を理解できるようになった。
 イスラエル人は、イスラエルを破壊し、そのユダヤ人住民を虐殺するか少なくとも追放しようとした、三回のアラブの侵攻を撃退した。そして、イスラエルの人々は定住して快適に生活し、平和と繁栄を維持するためにアラブ人にほとんどどんな譲歩でも行う気があった。
 イスラエル住民のかなりの部分は、パレスチナの隣人たちの宥和不可能な破壊的熱情に関する間違いようのない証拠を、素っ気なく無視した。譲歩すれば何とかなると、確信していたのだ。
 彼らは憎悪しなかったがゆえに、自分たちが憎悪されることがあり得ると考えるのは困難だった。//
 (29) 被占領下のポーランドの生活は、驚くべき速さで正常に戻った。日常がいかに速く「英雄的なもの」を圧倒したかは、驚嘆するほどだ。
 この経験が私に与えたのは、つぎの不変の確信だ。すなわち、民衆一般は歴史では、ともかくも少数のエリートに留保された政治や軍事の歴史では、辺縁的な役割しか果たさない。彼らは歴史を作るのではなく、生きる。
 私はこのことを、〈Old Wive's Tale〉へのArnold Bennett 自身の序文での洞察で確認した。そこで彼は、年配の鉄道被用者とその妻への、1870-71年のプロシャの包囲の間のパリに関するインタビューを思い出している。
 Bennett はこう書く。「我が彼らから得た最も有益なことは、最初は驚いたが、ふつうの人々は包囲されたパリで全くふつうの生活を営みつづけた、ということだった」。//
 (30) 1940年5月に記録したようにこうした期間の私の思い出を振り返ってよいなら、以下はドイツ占領下で私が過ごした時代について書いていたものだ。
 「私のこれまでの人生で最も悲しい月が始まった。それは結構な終わりを迎えることになった。—1939年10月。
 この期間に何をしたか、どうやって過ごしたか、自分が叙述するのは困難だ。
 アパートは、ひどく寒かった。
 私はほとんど全てを着込んで掛け布団の下で寝た。
 ドイツ軍が歩いている人々を拘引していたので、外へ出るのは危険だった。
 夜には電灯が点かず、ろうそくは節約する必要があったので、私は昼間にだけ読書し、勉強することができた。
 私たちは毎日、ライス、マカロニを食べ、種々のスープを飲んだ。—のちにはキャベツとパンが加わった。
 私は10時頃に起床し、強い嫌悪感をもって、しかし同様の食欲で、朝食を摂った。そのあとで、家を出て[友人の]Olek やWanda、あるいは家にいる他の誰かを訪れた。…。
 困難な状況を思って、絶望していた。—野心、計画、夢の全てが粉みじんに散った。」//
 (31) 父親がなぜドイツ占領でのたんなる生存の見込みすら厳しいと考えたのか、私は正確には分からなかった。ほとんどのユダヤ人は、占領を甘んじて受けていた。
 おそらくは、誇りからだった。父親はパリア(pariah、のけ者・下層民)のごとく自分が扱われると考えること自体を耐え難く感じる、自負心の強い人だった。
 彼は広がっているいかなる幻想も持たず、前方にあるものを正確に予測していた。
 一ヶ月後に、公然たる追及が始まる前のことだが、彼が書いた手紙で、彼はこう書いた。「ポーランドのユダヤ人は、ドイツのユダヤ人よりも悪い運命に直面している」。//
 (32) 10月の前半のいつかに、我々は台所で家族会議を開き始めた。それには、家族全員と、戦争勃発とともに行方不明になっていたお手伝いのAndzia も加わった。
 あるラテン・アメリカ国への偽造旅券でポーランドから西側へと出る可能性が、浮かび上がった。
 父親はその国の名誉領事を知っていた。X氏と称しておくが、この人物は領事館のスタンプのない、一冊の空白の旅券を持っており、このスタンプは、外交団と一緒に彼がワルシャワを去るときに総領事からもらっていた。
 X氏は、我々が自由に使えるよう、この旅券を我々に預けた。
 しかし我々は、つぎの疑問に直面した。我々はあえて慣れた場所を立ち去って、未知の場所へと行くのか?
 我々は裕福でなかったが、家で金銭について議論したことはなかった(総じて言って、金銭はユダヤ人中流家庭での会話の話題でなかった)。私も、生き延びるためのその必要性に関して、何の考えも持っていなかった。
 父親がこの冒険の是非を声を出して考えている間、私は賛成の意見だった。
 私は大学に入学登録したかったが、それはドイツ占領下のポーランドでは考え難いことを知り、ポーランドを離れるよう強く主張した。
 金銭については、我々は何とかするだろう。最終的には、父親には、我々が苦境を切り抜けるための銀行口座が、ストックホルムにある。//
 (33) 母親によると、離れるという決定が下されたのは、ドイツ軍が掲示板に彼らに登録した住民にはパンの配給券が発行されると発表した後だった。
 父親は、これは誰がユダヤ人なのかを決める手段だ、と結論した。//
 (34) 私の主張と私の(根拠のない)自信は、間違いなく、父親の判断を助けた。
 私は今でも、父親が全く大胆な決定をしたと驚嘆している。
 母親は、ユダヤ人の彫刻師を探し出して、欠けている領事館の公印を偽造させた。
 そして父親は、出国許可を求めてドイツ軍司令部との交渉を始めた。
 Gestapo は10月15日にワルシャワに入っていた。だが父親は、もっぱら軍部と交渉した。
 父親は私にこう言った。ドイツ軍司令部と我々の出国を交渉している間に、市長のStarzynski のところへ行ったのだが、彼は父親をドイツのスパイか協力者だと疑って怒りの視線を向けた、だが説明する機会がなかった、と。//
 (35) こうしたことが起きている間、私は、幸運に包囲攻撃から生き延びた友人たち全員を訪問した。
 音楽がとても好きな学校の友人の一人のアパートの中庭に入ったとき、Beethoven の〈英雄(Eroica)〉の音が聞こえた。
 別の学校友達の母親は驚いて、ドアを開けるのを拒んだ。
 最良の親友のOlek Dyzenhaus は、姿見がよかった。
 Marzalkowska 通りを二人で歩いていたとき、パン待ちの行列に気づいた。語り合い、笑いながら、我々もそれに加わった。
 後ろの一人の男性が、首を振りながら、「ああ、若いやつ、若いやつ」と呟いた。
 我々はこれは怪しい人物だと思った。しかし今では、彼の反応が分かる。//
 (36) ついに、全ての書類が揃った。イタリアへの通過ビザも含めて。
 我々は、ドイツ軍が市を占領していたので、10月27日金曜日の午前5時49分に、ワルシャワからの始発列車で出発することになった。
 その列車は、故郷へと兵団を運ぶ軍事用のものだった。
 我々の目的地は、Breslau(今日のWroclaw)だった。//
 (37) 父親は一人のドイツ系ポーランド人—Volksdeutsche と呼ばれた—と、推測するに我々が戻るまで、我々のアパートに転居することを取り決めた。
 その人物は、アパート所有物の詳細な目録に署名をした。
 私は、音楽と芸術の歴史に関するものが最も多い書物と写真を集めた。
 そして、ほとんど哲学書と芸術史書から成る私の小さな書斎に別れを告げた。
 その中の主要なものは、Meyer の〈Konversationslexicon〉だった。それは19世紀末に出版され、芸術史に関する知識のほとんどを、私はそれから得ていた。
 ロシアによる検閲で、攻撃的と見られた全ての文章が墨汁で黒く塗られていた。
 表紙は、第一次大戦の寒い冬の間の燃料になるよう、注意深く破り取られていた—そう叔父は私に教えた。
 私は夜のあいだずっと、手の施しようもなく震えていた。//
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 第一章④へとつづく。