Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
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 第8節。
 (01) ニーチェは、ワーグナーと決別することで、ある意味ではロマン主義の継承物とも別れていた。彼の思想にはその要素の多くが維持されることになるけれども。
 彼は、より多く啓蒙思想と結びついた。
 しかし、ニーチェは、理性とその行使に対して批判する姿勢を明確に維持した。1870年代半ばまでにはワーグナー現象を批判したように。//
 (02) 1870年代半ばまでにニーチェは、後年の彼の著作の全てに影響を与えた結論に達していた。
 歴史上初めて、人間は最も過激な態様で、神なき世界に住むという事実に直面しなければならないだろう。
 これまでの文筆家は神の存在または非存在を否定し、疑問視し、あるいは公然と肯定を主張してきた。
 しかし、ニーチェは、哲学的思索の対象の一つとしてはこの疑問に接近しなかった。
 彼にとって、神なき世界という見通しは、人間の道徳史上の重大な転換点を意味した。
 人間は、高次のまたは超越した何物かとの関係をもたない価値を設定するのを余儀なくされるだろう、ということを意味した。//
 (03) 彼の見方と従来の科学的または理性的な自由思想家のそれとの違いは、年上のDavid Friedrich Strauss の書物に対するニーチェの批判に見ることができる。Strauss は、知識人たちの中にあるキリスト教信仰の解体に貢献していた。
 ニーチェは、こう書く。
 「彼は見事な率直さで、もうクリスチャンではないと公言する。だが、彼は、誰の心の平穏も乱そうとはしていない。
 一つの結社を壊すために一つの結社を設立するのは矛盾すると、彼は思っているのだろう。—これは実際にはさほどに矛盾してはいないのだが。
 確実に粗雑に満足して、彼は我々の猿の系統主義者の汚れた外套の中に身を隠し、ダーウィンを人類の最大の恩人だとして称賛する。
 しかし、彼の倫理が全体として、『何が世界についての我々の観念なのか』という疑問に依存することなく構成されていることが分かると、我々は混乱する。…/ 
 Strauss は、かつていかなる思想も人間をより善良で、より道徳的にし得ていない、ということすらまだ知らない。道徳を説くことはその根拠を見い出すのは困難であるのと同程度に易しい、ということも学んでいない。
 彼の課題の多くはむしろ、現実には存在する善良さ、思いやりの心、愛情、自己犠牲の精神を人間から取り去ることだった。そしてそれらをダーウィン主義者の仮説から導き、それで説明することだった。だが一方で、彼は命令(the imperative)に跳び込むことで〈説明〉という課題から逃げ出そうとしている。」(注15)//
 (04) Strauss の過ちは実際には、同時代のその他の著名な思想家全てのそれだった。
 どの思想家も安易に、キリスト教が存在しない中で、科学、人間性、リベラルな国家、あるいはナショナリズムのごとき他のものが、倫理の基盤を提供することができるだろう、と想定した。
 ニーチェは対照的に、安易な楽観主義のない自然主義(naturalism)を選んだ。
 ニーチェは、どの価値体系が支配すべきかを問題にしなかった。そうではなく、何が人間の社会的実在にある事実としての価値の根源なのか、を問うた。//
 (05) ニーチェの過激な道徳懐疑主義は、同様に過激な形而上学的懐疑主義に根ざしていた。
 言葉のかなり狭い定義をかりに用いるとすると、彼は適切にニヒリスト(nuhilist)だと見なされてよい。
 ニーチェの哲学的ニヒリズムは、世界には何らかの本源的な価値の何らかの形態がある、ということを否定するという形をとった。
 自然とその一部としての人間は、善や悪なくして、たんに存在している。
 世界(the universe)は、たんに、ある。
 それを超えては、またはその中には、いかなる高次の価値も存在しない。
 存在するという現象の中には、別の道徳を越える一組みの諸道徳を正当化するものはいっさい存在しない。
 彼がかつて、こう宣言したようにだ。
 「道徳的現象なるものは存在しない。現象の道徳的解釈だけがある。」(注16)//
 (06) ニーチェはこの哲学的立場によって、認識論の特定の様式へと至った。キリスト教に対する攻撃へと、当時のリベラルな政治の批判へと。
 そしてこれら全てが、彼の道徳に関する問題にかかわっていた。
 ニーチェが敢然と突きつけようとしたのは、世界の全体的に自然主義的な解釈の可能性と必要性だった。
 このことが含み得るものは、ある意味では、彼の三つの著作のタイトルに認めることができる。//
 1. 〈善悪の彼岸〉(1886)—世界と生への接近方法は、かつては道徳的または善または悪と考えられたものを超越したものでなければならない、と示唆する。
 2. 〈道徳の系譜〉(1887)—諸道徳は永遠に存在するのではなく、歴史と発展がある、と示唆する。
 3. 〈偶像の黄昏、あるいは金槌でいかに哲学するか〉(1888)—現存の偶像または哲学、道徳、宗教を、新しい出発のために破壊することの必要性を示唆する。//
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 第9節へとつづく。