Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(The Pennsylvania State Univ. Press, 2002).
=B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
第二部の最初の章の「序」のあとの本文へと進む。
なお、「Nietzschean」は、ニーチェ的、ニーチェ主義的(・ニーチェ主義者)、またはそのまま「ニーチェアン」と訳す。
——
第二部・第5章/現在の黙示録:マルクス、エンゲルスおよびニーチェのボルシェヴィキ的融合。
第一節・レーニン:正体を隠したニーチェアン?
(01) 疑問符を付しているのは、意図的だ。レーニンの「ニーチェ主義」(Nietzscheanism)の証拠は間接的だから。
レーニンのレトリックには、確かにニーチェ的な響きがある。
「意思」、「権力」および「紀律」(これはニーチェに関するApollo的解釈と符合する)は、彼の好みの言葉だ。
レーニンは政治における「感傷」を嫌い、ほとんど生活様式のごとく闘争に喜びを感じた。
このような嗜好に加えて革命的人民主義の「英雄的」伝統の称賛、1904年から1907年までのBogdanov との連携、Gorky との友人関係、ニーチェが染み込んだ一般的文化状況があったので、ニーチェがレーニンのマルクス主義解釈に影響を与えた(inform)、という高度の蓋然性はある。
レーニンは自分のノートでニーチェに言及しており、クレムリンの執務室に一冊の〈ツァラストゥラ〉を置いていた。(注5)
Gorky は、解放を目ざす大衆の闘いを指導するロシアの超人(Superman)を探していた。
レーニンは自分がその役割を果たすと、または少なくとも「世界的な歴史的個人」(ヘーゲルの観念)だと考えたかもしれない。
彼はブハーリンの、ニーチェ的要素のある帝国主義に関する書物に自分のその主題の本で回答し、プロレタリア国家の描写をして左翼ボルシェヴィキの「アナーキズム」に反論した。
もちろん、レーニンはニーチェを読んで彼の権力への意思を得たのではなかった。しかし、ニーチェはおそらくそれを強めた。//
(02) レーニンの全集は決して完全なものではない。
彼または彼の信条を当惑させそうな文書は、排除されていた。
彼自身がいくつかを破棄し、または手紙の場合には、破棄するよう受取人に指示した。(注6)
レーニンの公刊著作にはマルクス、エンゲルス、プレハノフおよびカウツキーへの言及が豊富にあり、より少ない程度で、Chernyshevsky、Herzen、Belinsky、および彼がマルクス主義の先駆者と見做した「70年代の輝かしい星座のごとき革命家たち」(Tucker 編,レーニン選集=LA,p.20)への言及がある。
彼は、自分の思想に対する非マルクス主義の影響については寡黙だった。
そのノートから明らかであるのは、ヘーゲル、クラウセヴィッツ、アリストテレスがレーニンのマルクス主義解釈と革命戦略を磨くのを助けた、ということだ。
ダーウィンとマキアヴェリ(Machiavelli)も、そうだった。
レーニンは執務机の上にダーウィン像を置いていた。しかし、マキアヴェリについては名前を出してはほとんど言及しなかった。だが、私的な連絡文書でもそうだったのではない(注7)。
政治局の指導者たちに対する(読後に破棄すべきものとされた)手紙で、レーニンはこう書いた。
「政治手腕(statecraft)の問題に関するある賢人[マキアヴェリ]は正しく、一定の政治目標を実現するのと同じことのためには一定の残虐さに訴えることが必要であるならば、最も激しいやり方でかつ可能なかぎり短時間のうちに、実行されなければならない、なぜならば、大衆は長期間の残酷さの利用に耐えることができない、と言った。」(注8)//
(03) マキアヴェリもそうだがニーチェもおそらく、レーニンのエリート主義と革命的反道徳主義を促進した。
レーニンは、プロレタリアートは自分たちで解放する力を持たないというTkachev の見方を共有しており、革命は「タフな事業だ」と叙述した。
「白い手袋をはめた、きれいな手では革命をすることができない。…。
党は女学校ではない。…。
悪人はまさに悪人であるがゆえに、我々が必要とするかもしれない。」
彼は、Nechaev の同時代人は「組織者、陰謀家としての特殊な才能を持ち、衝撃的な明瞭さでまとめ上げる技巧を持つことを忘れていた」と観察した。(注9)
レーニンの世代の最大原理主義者たちは、Nechaev は「ニーチェより前のニーチェアンだ」と見なした。
おそらくレーニンも、そうした。//
(04) レーニンは、ボルシェヴィズムの基礎的文献である〈何をなすべきか〉(1902年)で、前衛政党に関するマルクスの考えを超える、革命的エリート主義を提示した。
「階級的政治意識は労働者に対して〈外からのみ〉、すなわち経済的闘争の外部からのみ、もたらすことができる」(LA,p.50)。
プロレタリアートは自分たちでは、労働組合主義の意識だけを持つことができる。
潜在的には、プロレタリアートは間違った方向へと慌てて逃げることになる大きな群れだ。
この書物でレーニンは、「Tkachev の説示が用意し、現実に威嚇する『威嚇的な』テロルの手段により実行された『壮大な』権力奪取の企てと、たんに滑稽なだけの、とくに平均的な人々の組織化という考えで補完された場合には滑稽な、小Tkachev の『刺激的な』テロル」とを区別した。(LA,p.107.)
彼は、マルクス主義者は革命的人民主義者の過ちを繰り返さないということに関係して、職業的革命家、意識が高くて自己紀律をもつ革命的エリートの組織を強く主張した。//
(05) レーニンの「意識性」(〈soznatel'nost〉)と「自然発生性」(〈stikhinost'〉)という両範疇は、ニーチェのApollon 的衝動とDionysus 的衝動に対応している。
これは偶然ではないかもしれない。〈悲劇の誕生〉の1901年のドイツ語版は、レーニンの個人的蔵書の中にあった。(注10)
〈Stikhinost'〉は〈stikhinyi〉、「自然的」(elemental)という形容詞に由来しており、思考のない(mindless)過程を含意している。
レーニンは「自然発生性」の危険に警告を発し、それを奴隷性や原始性と結びつけた(LA,p.27,32,46,63)。
彼が術語を用いるとき、「意識」はたんに知覚だけではなく、権力を獲得するための戦略でもあった。
レーニンは、Bogdanov のように、マルクス主義を活性化するイデオロギー、あるいは動かす神話(mobilizing myth)だと見なした。
そのいずれも、組織のApollon 的原理を強調するものだった。//
(06) ニーチェ的マルクス主義者たちとの論争で、レーニンはニーチェ的用語を使い、自分の動的神話を発展させた。
1905年の革命の間、彼とBogdanov は(フィンランドの)同じ建物に住んだ。そこで彼らは、政治理論、文化、哲学、革命の戦略と戦術を論じ合った。(注11)
確実に、ニーチェはその討論に入ってきていた。
レーニンの動的神話は、新しい目標、新しい道徳、新しい政治形態を伴っていた。新しい政治形態—職業的革命家で構成される前衛政党、訓練されて意識が高い陰謀家的エリート、そして資本主義から共産主義の第一段階への直接的移行を指揮するプロレタリアート独裁。
マルクスは、どの時代にも特有の幻想(あるいは神話)がある、と書いた(Tucker 編,マルクス.エンゲルス読本=MER,p.165)。
レーニンは科学的であれと主張したが、社会主義という対抗神話を生み出していた。
「『唯一の』選択肢は、ブルジョア・イデオロギーか社会主義イデオロギーか、のどちらかだ。
中間の経路はない。…。
非階級の、または階級を超えたイデオロギーなど決して存在し得ない。」(LA,p.29.)//
(07) レーニンは「社会民主党の二つの戦術」(1905年6-7月)で、〈革命的民主主義的なプロレタリアートと農民の独裁〉を提起した。プロレタリアートだけでは権力を奪取するのに十分でなかったからだ。
この戦術変更を正当化するために、彼は弁証法的形態で論拠を言い表した。
「全ての事物は相対的だ。全てのものは流動する。全てのものは変化する。…。
抽象的な真実なるものは存在しない。
真実は、つねに具体的だ。」(LA,p.135.)
Bogdanov も、同じ言葉遣いをすることができただろう。//
(08) レーニンは同じ論文で、「革命は被抑圧者たちの祭典だ」と宣告した。
ボルシェヴィキは、「大衆の祭典のための活力、および直接の決定的行路を目ざす仮借なき自己犠牲的闘いを繰り広げる彼らの革命的熱情」を利用しなければならない」(LA,p.140-1)。
「熱情」(ardor)や「活力」(energy)という言葉は、ニーチェ的マルクス主義者たちに好まれた。
彼はまた、ボルシェヴィキには新しいスローガンが必要だ、と言った(「新しい言葉」のレーニン版)。
「言葉も、行動だ」。
「行動に移す必要のある〈直接的スローガン〉に進むことなくして、〈古いやり方で〉「言葉」に閉じ込める」のは裏切りだ(LA,p.134)。
言葉遣いに対するレーニンの繊細さは、ニーチェやそのロシアでの崇拝者たちと共通している、もう一つの分野だった。
ボルシェヴィキ指導者は、終生にわたって古典文献学に関心をもった。//
(09) 現実的にであれ潜在的にであれ、反抗に関するレーニンの定番の言葉は、「粉砕せよ」、「麻痺させよ」、「壊滅せよ」、「破壊せよ」だった。
彼は、このような乱暴な言葉は「憎悪、反感、そして侮蔑心、…を読者に掻き立てるように、納得させるのではなく敵の隊列を破壊するように、敵の誤りを訂正するのではなく破滅させて敵を地球の表面から一掃するように、計算されている」と語った(レーニン全集第12巻p.424-5)=(日本語版全集12巻「ロシア社会民主労働党第5回大会にたいする報告」433頁.)。
Bogdanov の好きな言葉の一つである「調和」は、レーニンの語彙の中にはなかった。
Gorky は、レーニンの言葉を「鉄斧の言語」と呼んだ。//
--------
(注5) Robert Service, Lenin -A Biography, p.203.
(注6) Ricard Pipes, ed, The Unknown Lenin, p.4.
(注7) Service, p.203-4, p.376.
(注8) In Pipes, p.153.
(注9) Dmitri Volkogonov, Lenin, p.22 から引用。
(注10) Aldo Venturelli, in "Nietzsche Studien" 1993, p.324.
(注11) Service, p.183.
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第一節②へとつづく。
=B. G. ローゼンタール・新しい神話、新しい世界—ニーチェからスターリニズムへ(2002)。総計約460頁。
第二部・ボルシェヴィキ革命と内戦期におけるニーチェ、1917-1921。
第二部の最初の章の「序」のあとの本文へと進む。
なお、「Nietzschean」は、ニーチェ的、ニーチェ主義的(・ニーチェ主義者)、またはそのまま「ニーチェアン」と訳す。
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第二部・第5章/現在の黙示録:マルクス、エンゲルスおよびニーチェのボルシェヴィキ的融合。
第一節・レーニン:正体を隠したニーチェアン?
(01) 疑問符を付しているのは、意図的だ。レーニンの「ニーチェ主義」(Nietzscheanism)の証拠は間接的だから。
レーニンのレトリックには、確かにニーチェ的な響きがある。
「意思」、「権力」および「紀律」(これはニーチェに関するApollo的解釈と符合する)は、彼の好みの言葉だ。
レーニンは政治における「感傷」を嫌い、ほとんど生活様式のごとく闘争に喜びを感じた。
このような嗜好に加えて革命的人民主義の「英雄的」伝統の称賛、1904年から1907年までのBogdanov との連携、Gorky との友人関係、ニーチェが染み込んだ一般的文化状況があったので、ニーチェがレーニンのマルクス主義解釈に影響を与えた(inform)、という高度の蓋然性はある。
レーニンは自分のノートでニーチェに言及しており、クレムリンの執務室に一冊の〈ツァラストゥラ〉を置いていた。(注5)
Gorky は、解放を目ざす大衆の闘いを指導するロシアの超人(Superman)を探していた。
レーニンは自分がその役割を果たすと、または少なくとも「世界的な歴史的個人」(ヘーゲルの観念)だと考えたかもしれない。
彼はブハーリンの、ニーチェ的要素のある帝国主義に関する書物に自分のその主題の本で回答し、プロレタリア国家の描写をして左翼ボルシェヴィキの「アナーキズム」に反論した。
もちろん、レーニンはニーチェを読んで彼の権力への意思を得たのではなかった。しかし、ニーチェはおそらくそれを強めた。//
(02) レーニンの全集は決して完全なものではない。
彼または彼の信条を当惑させそうな文書は、排除されていた。
彼自身がいくつかを破棄し、または手紙の場合には、破棄するよう受取人に指示した。(注6)
レーニンの公刊著作にはマルクス、エンゲルス、プレハノフおよびカウツキーへの言及が豊富にあり、より少ない程度で、Chernyshevsky、Herzen、Belinsky、および彼がマルクス主義の先駆者と見做した「70年代の輝かしい星座のごとき革命家たち」(Tucker 編,レーニン選集=LA,p.20)への言及がある。
彼は、自分の思想に対する非マルクス主義の影響については寡黙だった。
そのノートから明らかであるのは、ヘーゲル、クラウセヴィッツ、アリストテレスがレーニンのマルクス主義解釈と革命戦略を磨くのを助けた、ということだ。
ダーウィンとマキアヴェリ(Machiavelli)も、そうだった。
レーニンは執務机の上にダーウィン像を置いていた。しかし、マキアヴェリについては名前を出してはほとんど言及しなかった。だが、私的な連絡文書でもそうだったのではない(注7)。
政治局の指導者たちに対する(読後に破棄すべきものとされた)手紙で、レーニンはこう書いた。
「政治手腕(statecraft)の問題に関するある賢人[マキアヴェリ]は正しく、一定の政治目標を実現するのと同じことのためには一定の残虐さに訴えることが必要であるならば、最も激しいやり方でかつ可能なかぎり短時間のうちに、実行されなければならない、なぜならば、大衆は長期間の残酷さの利用に耐えることができない、と言った。」(注8)//
(03) マキアヴェリもそうだがニーチェもおそらく、レーニンのエリート主義と革命的反道徳主義を促進した。
レーニンは、プロレタリアートは自分たちで解放する力を持たないというTkachev の見方を共有しており、革命は「タフな事業だ」と叙述した。
「白い手袋をはめた、きれいな手では革命をすることができない。…。
党は女学校ではない。…。
悪人はまさに悪人であるがゆえに、我々が必要とするかもしれない。」
彼は、Nechaev の同時代人は「組織者、陰謀家としての特殊な才能を持ち、衝撃的な明瞭さでまとめ上げる技巧を持つことを忘れていた」と観察した。(注9)
レーニンの世代の最大原理主義者たちは、Nechaev は「ニーチェより前のニーチェアンだ」と見なした。
おそらくレーニンも、そうした。//
(04) レーニンは、ボルシェヴィズムの基礎的文献である〈何をなすべきか〉(1902年)で、前衛政党に関するマルクスの考えを超える、革命的エリート主義を提示した。
「階級的政治意識は労働者に対して〈外からのみ〉、すなわち経済的闘争の外部からのみ、もたらすことができる」(LA,p.50)。
プロレタリアートは自分たちでは、労働組合主義の意識だけを持つことができる。
潜在的には、プロレタリアートは間違った方向へと慌てて逃げることになる大きな群れだ。
この書物でレーニンは、「Tkachev の説示が用意し、現実に威嚇する『威嚇的な』テロルの手段により実行された『壮大な』権力奪取の企てと、たんに滑稽なだけの、とくに平均的な人々の組織化という考えで補完された場合には滑稽な、小Tkachev の『刺激的な』テロル」とを区別した。(LA,p.107.)
彼は、マルクス主義者は革命的人民主義者の過ちを繰り返さないということに関係して、職業的革命家、意識が高くて自己紀律をもつ革命的エリートの組織を強く主張した。//
(05) レーニンの「意識性」(〈soznatel'nost〉)と「自然発生性」(〈stikhinost'〉)という両範疇は、ニーチェのApollon 的衝動とDionysus 的衝動に対応している。
これは偶然ではないかもしれない。〈悲劇の誕生〉の1901年のドイツ語版は、レーニンの個人的蔵書の中にあった。(注10)
〈Stikhinost'〉は〈stikhinyi〉、「自然的」(elemental)という形容詞に由来しており、思考のない(mindless)過程を含意している。
レーニンは「自然発生性」の危険に警告を発し、それを奴隷性や原始性と結びつけた(LA,p.27,32,46,63)。
彼が術語を用いるとき、「意識」はたんに知覚だけではなく、権力を獲得するための戦略でもあった。
レーニンは、Bogdanov のように、マルクス主義を活性化するイデオロギー、あるいは動かす神話(mobilizing myth)だと見なした。
そのいずれも、組織のApollon 的原理を強調するものだった。//
(06) ニーチェ的マルクス主義者たちとの論争で、レーニンはニーチェ的用語を使い、自分の動的神話を発展させた。
1905年の革命の間、彼とBogdanov は(フィンランドの)同じ建物に住んだ。そこで彼らは、政治理論、文化、哲学、革命の戦略と戦術を論じ合った。(注11)
確実に、ニーチェはその討論に入ってきていた。
レーニンの動的神話は、新しい目標、新しい道徳、新しい政治形態を伴っていた。新しい政治形態—職業的革命家で構成される前衛政党、訓練されて意識が高い陰謀家的エリート、そして資本主義から共産主義の第一段階への直接的移行を指揮するプロレタリアート独裁。
マルクスは、どの時代にも特有の幻想(あるいは神話)がある、と書いた(Tucker 編,マルクス.エンゲルス読本=MER,p.165)。
レーニンは科学的であれと主張したが、社会主義という対抗神話を生み出していた。
「『唯一の』選択肢は、ブルジョア・イデオロギーか社会主義イデオロギーか、のどちらかだ。
中間の経路はない。…。
非階級の、または階級を超えたイデオロギーなど決して存在し得ない。」(LA,p.29.)//
(07) レーニンは「社会民主党の二つの戦術」(1905年6-7月)で、〈革命的民主主義的なプロレタリアートと農民の独裁〉を提起した。プロレタリアートだけでは権力を奪取するのに十分でなかったからだ。
この戦術変更を正当化するために、彼は弁証法的形態で論拠を言い表した。
「全ての事物は相対的だ。全てのものは流動する。全てのものは変化する。…。
抽象的な真実なるものは存在しない。
真実は、つねに具体的だ。」(LA,p.135.)
Bogdanov も、同じ言葉遣いをすることができただろう。//
(08) レーニンは同じ論文で、「革命は被抑圧者たちの祭典だ」と宣告した。
ボルシェヴィキは、「大衆の祭典のための活力、および直接の決定的行路を目ざす仮借なき自己犠牲的闘いを繰り広げる彼らの革命的熱情」を利用しなければならない」(LA,p.140-1)。
「熱情」(ardor)や「活力」(energy)という言葉は、ニーチェ的マルクス主義者たちに好まれた。
彼はまた、ボルシェヴィキには新しいスローガンが必要だ、と言った(「新しい言葉」のレーニン版)。
「言葉も、行動だ」。
「行動に移す必要のある〈直接的スローガン〉に進むことなくして、〈古いやり方で〉「言葉」に閉じ込める」のは裏切りだ(LA,p.134)。
言葉遣いに対するレーニンの繊細さは、ニーチェやそのロシアでの崇拝者たちと共通している、もう一つの分野だった。
ボルシェヴィキ指導者は、終生にわたって古典文献学に関心をもった。//
(09) 現実的にであれ潜在的にであれ、反抗に関するレーニンの定番の言葉は、「粉砕せよ」、「麻痺させよ」、「壊滅せよ」、「破壊せよ」だった。
彼は、このような乱暴な言葉は「憎悪、反感、そして侮蔑心、…を読者に掻き立てるように、納得させるのではなく敵の隊列を破壊するように、敵の誤りを訂正するのではなく破滅させて敵を地球の表面から一掃するように、計算されている」と語った(レーニン全集第12巻p.424-5)=(日本語版全集12巻「ロシア社会民主労働党第5回大会にたいする報告」433頁.)。
Bogdanov の好きな言葉の一つである「調和」は、レーニンの語彙の中にはなかった。
Gorky は、レーニンの言葉を「鉄斧の言語」と呼んだ。//
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(注5) Robert Service, Lenin -A Biography, p.203.
(注6) Ricard Pipes, ed, The Unknown Lenin, p.4.
(注7) Service, p.203-4, p.376.
(注8) In Pipes, p.153.
(注9) Dmitri Volkogonov, Lenin, p.22 から引用。
(注10) Aldo Venturelli, in "Nietzsche Studien" 1993, p.324.
(注11) Service, p.183.
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第一節②へとつづく。