Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
 第15章の試訳のつづき。
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 第4節。
 (01)  George Grote は銀行家、政治的な急進派で、議会議員であるとともに、J. S. Mill の友人だった。
 彼は、1846年から1856年にかけて、12巻本の〈ギリシャ史〉を出版した。
 1865年には、3巻本の〈プラトンとその他のソクラテスの仲間たち〉を公刊した。
 これらの著作によって、Grote は、ヴィクトリア期のおそらく最も影響力のあるソクラテス解釈者になった。//
 (02)  Grote は、活発かつ厳格に、古代のSophists を擁護した。
 彼は、the Sophists は二つの理由で良くない評価を受けている、とした。
 第一に、「sophist」や「sophistry」〔詭弁〕という近代の侮蔑的な意味が、遡って古代のSophists を叙述する際に投影されてきた。
 第二に、より重要だが、the Sophists に関するプラトンの叙述が表面的にだけ受容され、歴史的および批判的に検証されなかった。//
 (03)  Grote は、先行する詩歌や叙事詩の教育者たちと比べて—二つの例外を除いて—the Sophists は実際にはほとんど何の基本的違いはない、と主張した。
 彼らは先行者たちよりもより良く教育し、それに値する報酬を得ていた。
 プラトンは、古代の哲学で自分が嫌悪するもの全てをthe Sophists と結びつけた。
 さらに、プラトンの対話の多くにおいてすら、the Sophists は根本的に不道徳なことを述べていない。//
 (04)  The Sophists が行ったのは、そしてこれがGrote にとっては彼らが名声と称賛を要求できることなのだが、若いアテネの人々が民主政の市民生活に参加できるように準備させたことだった。
 彼が書くように、the Sophists は、アテネの青年たちが公的にはもとより私的にも、アテネで積極的で高潔な生活をする資格を与えるのを本職としていた。//
 (05)  この点で、the Sophists は基本的に保守的で、民主政が賢明に作動するためには重要だった。
 そしてGrote は、ソクラテスの声でもって財産維持、結婚、子供の養育の急進的な再構築を主張したのはプラトンだということを、読者に思い起こさせた。
 (06)  Grote の解釈は、それを彼が最初に書いたときは気づいていなかったと私は思うのだが、Hegel の解釈にある程度は似ていた。
 二人ともに、the Sophists は個人主義を促進したと見た。
 しかし、Hegel にとっては個人主義は危険なものだった。 
 Grote にとっては、個人主義は民主政の適切な作動のための基礎的なものだった。//
 (07)  Grote が読者を最も驚かせたのは、彼がソクラテスに向かったときだった。
 彼は、Peloponnesian 戦争の半ばにアテネの人々がその都市にいる主要なSophists の名前を尋ねられたときに全員が躊躇することなくソクラテスの名前を挙げただろうと主張することによって、ソクラテスをSophists の一人だと見なした。//
 (08)  なぜソクラテスは不人気だったのか、Grote によると何が Sophists たるソクラテスの任務だったのか?
 それは、主として、アテネ市民に科学的方法と批判的で合理的な知性を持ち込むことだった。
 そして、Grote の見方では、このことが不可避的に科学と宗教のあいだの衝突をもたらした。
 アテネ文化、伝統的価値、ふつうはthe Sophists と結びついている宗教を否定的に批判することが、現実には市場で教えを説くソクラテスの主要な役割になっていた。
 ソクラテスは、アテネの一般的な世論に対する大きな批判者だった。
 とくに、ソクラテスが科学を擁護したことによって、アテネの宗教と直接に対立するに至った。//
 (09)  では、Grote はソクラテスの死をどのように説明したか?
 世論に対する個人的挑戦の不可避的な結果だったと、彼は見たのか?
 Grote は、友人のJ. S. Mill の〈自由について〉と同じく、ソクラテスは敵対する世論の犠牲者だと考えることはできなかった。
 どのようにすれば、Grote はそうできただろうか?
 結局、彼は、古代アテネの民主政を擁護するヴィクトリア期の最大の人物だった。
 素晴らしいのは、アテネの人々がソクラテスを処刑したことではなかった。そうではなく、彼らが半世紀以上、ソクラテスが小うるさい批判者の役割を果たすことを認めたことだった。//
 (10)  Grote は、著作で別の悪役を見つけた。
 それは、宗教だった。
 ソクラテスの死の原因となったのは、アテネの人々の宗教の力と信仰だった。
 Grote は、ソクラテスはデルフォイの信託(Delphic oracle)に由来する彼の信念に関して完全に真摯だった、神たちはソクラテスに仲間の市民たちを改善する使命を与えて送り込んだ、と考えた。
 ソクラテスは「たんなる哲学者ではなく、哲学の仕事をする宣教師だった」と、Grote は書いた。 
 ソクラテスは批判的哲学を普及宣伝するための、目に見える宗教的狂信者だったと、彼は考えた。
 Grote から見ると、ソクラテス自身の個人的な、宗教に根ざした狂信こそが、彼の死を惹起した。 
 Grote はソクラテスに対する非難と処刑の責任を神たち自体に負わせようとしている、と感じる者がいるかもしれない。
 別の評論家のAlexander Grant は、Grote はソクラテスを「判決による自殺」へと向かわせた、と書いた。//
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 第4節、終わり。