Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
第15章の試訳のつづき。
——
第3節。
(01) Hegel のソクラテスに関する主要な解釈は、死後の1832年に出版された、彼の〈哲学史講義〉に見られる。
彼の哲学書の多くと対照的に、ソクラテスの扱いは比較的に明瞭で率直だった。だが、それは莫大な数の反応を惹き起こした。
(02) Hegel にとって、ソクラテスとthe Sophists はいずれも、ギリシャ思想の大きな転回地点を代表した。
彼は、the Sophists は詩人や文化を組織する力としての伝統的知識の主張者に替えてギリシャにその思考を組織する新しい方法を与えた最初の集団だ、と考えた。
また、18世紀の哲学者たちに似ていて、その影響は一種の古代の啓蒙思想にまで昇るに至った、とも考えた。
Hegel によると、the Sophists が獲得した報償は、悪(evil)に対する一般的に不当な評価だった。
しかし彼は、the Sophists は本当は何も悪いことをしなかった、と考察した。
The Sophists はギリシャ人に推論と思索(reflective)の方法を教えた。
このような思考は不可避的に、伝統的な信念や道徳を疑問視することへと導いた。
換言すると、彼らは懐疑主義(scepticism)を推奨したのだ。
これは実際に、彼らの誤りではなかった。
当時の思考や精神(mind)の発展状態の結果にすぎなかった。
Hegel によると、the Sophists は、懐疑主義に限界はないと判断していた。//
(03) Hegel にとって、ソクラテスはthe Sophists が始めた運動のつぎの一歩を進めた人物だった。
ソクラテスが行ったのは、伝統的価値と伝統的宗教を超えて発展する思索的(reflective)な道徳を生み出すことだった。
Hegel はこう書いた。
「精神の思索的動き、精神それ自体の転換にもとづく道徳は、まだ存在していなかった。
その存在は、ソクラテスの時期からのみ始まる。
しかし、思索が発生し、個人が自分自身の中へと隠退し、自分の望みに従って自分自身の生活をする確立した習慣から離反するやただちに、頽廃と矛盾が生起した。
しかし、精神は対立の状態にとどまることができない。
統合を探し求めるのであり、この統合のうちに、より高次の原理があるのだ。」(注3)//
(04) ソクラテスはこの過程を通じて、ギリシャ人が彼ら自身の主観性の中に道徳的指令を見出そうとするように導いた。
ソクラテスとプラトンは、the Sophists とは違って、この主観的性を通じて、伝統的道徳と結びつくだろう客観的な道徳的真実を発見し得るだろう、と考えた。
しかし、Hegel は、ソクラテスはこの移行に困惑さを与えており、彼自身に出現する主観性を彼の声または悪魔(daemon)が再現する、と考えた。
彼の声または悪魔に語りかけることで、ソクラテスは誘導と道徳的指令を求めて、本当は自分自身に語りかけ、自分自身を見つめているのだ。
ソクラテスが仲間のアテネの人々と対立するようになったのは、この強烈な主観性のゆえにだった。
彼の悪魔は事実の点では新しい神だった。—主観性という神であり、これに執着すれば、4世紀の〈都市(polis)〉は解体する。//
(05) したがって、Hegel にとって、ソクラテスは彼に向けられる責任について実際に罪状があった。
だが、その罪責は、ソクラテスの死の理由ではなかった。
アテネの陪審員の決定は、必ずしも処刑を要求しなかった。
ソクラテスが妥協を拒み、道理ある別の選択肢を提示できなかったあとではじめて、死刑判決が下された。
彼による妥協の拒否は、集団的道徳心とアテネの伝統よりも上に彼自身の良心—彼自身の主観性—を置くということになった。
これは、彼の基礎的な主観性への訴えの、論理的な帰結だった。//
(06) ゆえにHegel にとって、ソクラテスの死は、彼がこう書いたような理由で、本質的に悲劇的だった。「真に悲劇的なものには、衝突するに至った両者のいずれにも、根拠のある道徳的な力が存在しなければならない。これは、ソクラテスの場合にも言えた。」
ソクラテスとアテネの人々には、それぞれの側の道徳性があった。だが、その道徳性は異なるものだった。
Hegel の解釈に隠されている—但し、さほど隠されていない—のは、道徳の相対性を暗黙に承認していることだ。
だがなお、Hegel は、ソクラテスの究極的な目的は、そしてプラトンや結局はキリスト教のそれは、安定した(settled)道徳性を見出し、the Sophists が開けた人間の心の懐疑主義に限界を付すことだった、と主張することによって、そのような相対性とは距離を置いた。//
——
第3節、終わり。
第15章の試訳のつづき。
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第3節。
(01) Hegel のソクラテスに関する主要な解釈は、死後の1832年に出版された、彼の〈哲学史講義〉に見られる。
彼の哲学書の多くと対照的に、ソクラテスの扱いは比較的に明瞭で率直だった。だが、それは莫大な数の反応を惹き起こした。
(02) Hegel にとって、ソクラテスとthe Sophists はいずれも、ギリシャ思想の大きな転回地点を代表した。
彼は、the Sophists は詩人や文化を組織する力としての伝統的知識の主張者に替えてギリシャにその思考を組織する新しい方法を与えた最初の集団だ、と考えた。
また、18世紀の哲学者たちに似ていて、その影響は一種の古代の啓蒙思想にまで昇るに至った、とも考えた。
Hegel によると、the Sophists が獲得した報償は、悪(evil)に対する一般的に不当な評価だった。
しかし彼は、the Sophists は本当は何も悪いことをしなかった、と考察した。
The Sophists はギリシャ人に推論と思索(reflective)の方法を教えた。
このような思考は不可避的に、伝統的な信念や道徳を疑問視することへと導いた。
換言すると、彼らは懐疑主義(scepticism)を推奨したのだ。
これは実際に、彼らの誤りではなかった。
当時の思考や精神(mind)の発展状態の結果にすぎなかった。
Hegel によると、the Sophists は、懐疑主義に限界はないと判断していた。//
(03) Hegel にとって、ソクラテスはthe Sophists が始めた運動のつぎの一歩を進めた人物だった。
ソクラテスが行ったのは、伝統的価値と伝統的宗教を超えて発展する思索的(reflective)な道徳を生み出すことだった。
Hegel はこう書いた。
「精神の思索的動き、精神それ自体の転換にもとづく道徳は、まだ存在していなかった。
その存在は、ソクラテスの時期からのみ始まる。
しかし、思索が発生し、個人が自分自身の中へと隠退し、自分の望みに従って自分自身の生活をする確立した習慣から離反するやただちに、頽廃と矛盾が生起した。
しかし、精神は対立の状態にとどまることができない。
統合を探し求めるのであり、この統合のうちに、より高次の原理があるのだ。」(注3)//
(04) ソクラテスはこの過程を通じて、ギリシャ人が彼ら自身の主観性の中に道徳的指令を見出そうとするように導いた。
ソクラテスとプラトンは、the Sophists とは違って、この主観的性を通じて、伝統的道徳と結びつくだろう客観的な道徳的真実を発見し得るだろう、と考えた。
しかし、Hegel は、ソクラテスはこの移行に困惑さを与えており、彼自身に出現する主観性を彼の声または悪魔(daemon)が再現する、と考えた。
彼の声または悪魔に語りかけることで、ソクラテスは誘導と道徳的指令を求めて、本当は自分自身に語りかけ、自分自身を見つめているのだ。
ソクラテスが仲間のアテネの人々と対立するようになったのは、この強烈な主観性のゆえにだった。
彼の悪魔は事実の点では新しい神だった。—主観性という神であり、これに執着すれば、4世紀の〈都市(polis)〉は解体する。//
(05) したがって、Hegel にとって、ソクラテスは彼に向けられる責任について実際に罪状があった。
だが、その罪責は、ソクラテスの死の理由ではなかった。
アテネの陪審員の決定は、必ずしも処刑を要求しなかった。
ソクラテスが妥協を拒み、道理ある別の選択肢を提示できなかったあとではじめて、死刑判決が下された。
彼による妥協の拒否は、集団的道徳心とアテネの伝統よりも上に彼自身の良心—彼自身の主観性—を置くということになった。
これは、彼の基礎的な主観性への訴えの、論理的な帰結だった。//
(06) ゆえにHegel にとって、ソクラテスの死は、彼がこう書いたような理由で、本質的に悲劇的だった。「真に悲劇的なものには、衝突するに至った両者のいずれにも、根拠のある道徳的な力が存在しなければならない。これは、ソクラテスの場合にも言えた。」
ソクラテスとアテネの人々には、それぞれの側の道徳性があった。だが、その道徳性は異なるものだった。
Hegel の解釈に隠されている—但し、さほど隠されていない—のは、道徳の相対性を暗黙に承認していることだ。
だがなお、Hegel は、ソクラテスの究極的な目的は、そしてプラトンや結局はキリスト教のそれは、安定した(settled)道徳性を見出し、the Sophists が開けた人間の心の懐疑主義に限界を付すことだった、と主張することによって、そのような相対性とは距離を置いた。//
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第3節、終わり。