Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
第15章の試訳のつづき。
——
第2節。
(01) 1860年代のおよそ7年間、R・ワーグナー(Richard Wagner)とニーチェは友人だった。
この友人関係とその解消の物語は、それ自体で興味深い。そして、この世紀の後半の知的展開を示すものだ。
ニーチェは青年として、音楽に強い関心をもった。作曲家になろうと望んだかもしれない。
彼はとくに、ドイツ・ロマン派時代の音楽に魅了された。
1860年代初めに大学生のとき、ワーグナーだけではなくショーペンハウワー(Shoupenhauer)も賛美した。
彼は、ワーグナーはショーペンハウワーが叙述したような芸術上の天才だ、と見た。
ニーチェは1868年に、ワーグナーと初めて逢った。//
(02) 翌年、彼はバーゼル大学で文献学の教授になった。バーゼルはスイスのTribschen のワーグナーの家から遠くはなかった。
ニーチェがこの作曲家に多大の敬意をもつことを知らせたので、出会いはさらに続いた。
ワーグナーは、言いなりになる若い学者を持って、喜んだ。
対等な友人関係では全くなかったが、それは特に驚くべきことではなかった。
だが、明らかに、友人関係ではあった。
Richard とCosima は、クリスマスの贈り物を買うためにニーチェを送り出したり、二人のための用足しに彼を走らせることになる。
ニーチェは自分をワーグナーの年下の友人だと思っていた。彼は、その友人はドイツとじつにヨーロッパ全体の芸術と音楽をいずれも活気づかせている、と思っていた。
彼は23回も、Tribschen を訪れた。そして妹のElizabeth も、ワーグナーの仲間と友人になった。
ニーチェはまた、当初はバイロイト思想の強い支持者だった。//
(03) ニーチェは1872年に、〈悲劇の誕生(The Birth of Tragedy)〉、ワーグナーと共有した原稿と初期の草稿を出版した。
その書物は、ワーグナーに捧げられた。
実際に彼は、ワーグナーを愉快にさせるために、その本に多数の修正を加えていた。
その書物はもともとは、悲劇の研究書だった。少なくとも、そのようなものとして書き始められた。
しかし結局は、ギリシャ人以降はヨーロッパが知らなかったまたは経験しなかった新しい芸術の誕生だとして、ワーグナーの芸術を賛美する書物になった。
この書物は、理性に対する神話の勝利を賞賛し、ソクラテスとエウリピデスから始まったギリシャ文化の頽廃を描いた。//
(04) 〈悲劇の誕生〉には、最初の書物に見られる多くの痕跡がある。
大胆に、のちに受容された著作者たちよりももっと極端な立場を、明らかにしている。
しかし、ニーチェがのちに採る近代文明に対する批判の前兆も示している。
ニーチェは、学歴上は古典学者であり、文献学者だった。
総じて言って、19世紀半ばには、ギリシャ生活で最も強調されたのは、古代的な禁欲と5世紀のアテネとの均衡ある連携という理想だった。
ギリシャ生活の非合理的な側面は知られていたが、大部分は無視された。
アテネが文化的に達成したものは、合理的生活の出現と、Matthew Arnord とJonathan Swift の語句を使って表現した「甘美さと明るさ」の獲得だった。//
(05) ニーチェはこのようなギリシャ解釈に、そして西側の合理性の父祖という、長く続くソクラテスに対する尊敬の念に、闘いを挑んだ。
(06) ニーチェはまた、Dionysus の儀礼へとギリシャ悲劇の歴史をたどった。
彼は、ギリシャ悲劇はDionysus 的狂気とApollon 的様式との一種の結合から出現した、と見た。
ニーチェは決して、Dionysian—Apollonian という二元論を説いた最初の人物ではなかった。
それは実際には、ドイツの文学や音楽の世界内部では相当程度に一致して知られていた。
しかしながら、彼の書物は、西側ヨーロッパ人の心に拭いきれないほどに、この二元論を刻み込んだ。
ニーチェはこう言った。「我々は、〈Apollon 的文化〉という精巧な建造物をいわば一石ごとに分解して、それが依って立つ基盤を見つけるにまでに至る必要がある」。(注1)
Apollon 的様式の禁欲は、思想と現象的外観についてのショーペンハワー的世界と同等のものだった。
その世界の下には、Dionysus 的狂気が横たわっていた。
ニーチェは、こう宣言した。
「人間と人間のあいだの紐帯がDionysus 的な魔術によって再び復活する、というだけではない。
有害だとして遠ざけられ、従属させられた自然が、その失った息子である人類とのあいだの和解の祭典をもう一度、祝福しもするのだ。<中略>
今や、宇宙的調和の福音を聴きながら、各人はみんな、たんに自分が隣人と結合し、和解し、融合していると感じるだけではなく、その隣人とまさに文字通りに一つであると感じるのだ。まるで、maya のベールが引きちぎられて、その切れ端だけが神秘的な始原的一体(根源的一つ(das Ur-Eine))の前ではためいているがごとくに。」(注2)//
(07) 芸術と悲劇に関して、ニーチェは、Dionysus 的なものとApollon 的なもののいずれも必要だと考えた。
彼の書物は、Dionysus 的なものを賞賛するだけの、無条件の著作ではない。
そうではなく、彼が論じたのは、ギリシャの最高度の芸術が感動的であるのは、外観についてのApollon 的世界の下に横たわっているのは精神(the psyche)の内的深さであることを証明している、ということだった。//
(08) ニーチェはショーペンハウワーを使ったけれども、十分に彼を超えて進んでいた。
ショーペンハウワーが悲観主義と生の否認へと駆り立てたのに対して、ニーチェは、芸術は生を肯定するものだと見た。
劇場における悲劇を通じて、ギリシャ人はその生を見出し、その共同体を肯定した。
芸術にとっての、とくにギリシャ悲劇にとっての問題は、Apollon 的なものが支配したときに発生した。
Dionysus 的なものが放棄されたとき、芸術はその様式だけではなく内容も、当時の道徳性から採用した。
ギリシャの場合にこれが意味したのは、悲劇がソクラテス的知識と分析の浅瀬に乗りあげて座礁するに至った、ということだった。//
(09) なぜニーチェがソクラテスに対する批判と侮蔑へと飛躍したのかを理解するためには、19世紀におけるソクラテスについて、少しばかり知らなければならない。
ニーチェは、ソクラテスを論評する中で、19世紀の多数の関係文献を5世紀のアテネでの議論へと符号化(encode)していた。//
(10) 19世紀の初期および半ばには、ソクラテスに関する二つの主要な解釈があった。G. W. F. ヘーゲルの解釈と、George Grote の解釈だ。//
——
第2節、終わり。
第15章の試訳のつづき。
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第2節。
(01) 1860年代のおよそ7年間、R・ワーグナー(Richard Wagner)とニーチェは友人だった。
この友人関係とその解消の物語は、それ自体で興味深い。そして、この世紀の後半の知的展開を示すものだ。
ニーチェは青年として、音楽に強い関心をもった。作曲家になろうと望んだかもしれない。
彼はとくに、ドイツ・ロマン派時代の音楽に魅了された。
1860年代初めに大学生のとき、ワーグナーだけではなくショーペンハウワー(Shoupenhauer)も賛美した。
彼は、ワーグナーはショーペンハウワーが叙述したような芸術上の天才だ、と見た。
ニーチェは1868年に、ワーグナーと初めて逢った。//
(02) 翌年、彼はバーゼル大学で文献学の教授になった。バーゼルはスイスのTribschen のワーグナーの家から遠くはなかった。
ニーチェがこの作曲家に多大の敬意をもつことを知らせたので、出会いはさらに続いた。
ワーグナーは、言いなりになる若い学者を持って、喜んだ。
対等な友人関係では全くなかったが、それは特に驚くべきことではなかった。
だが、明らかに、友人関係ではあった。
Richard とCosima は、クリスマスの贈り物を買うためにニーチェを送り出したり、二人のための用足しに彼を走らせることになる。
ニーチェは自分をワーグナーの年下の友人だと思っていた。彼は、その友人はドイツとじつにヨーロッパ全体の芸術と音楽をいずれも活気づかせている、と思っていた。
彼は23回も、Tribschen を訪れた。そして妹のElizabeth も、ワーグナーの仲間と友人になった。
ニーチェはまた、当初はバイロイト思想の強い支持者だった。//
(03) ニーチェは1872年に、〈悲劇の誕生(The Birth of Tragedy)〉、ワーグナーと共有した原稿と初期の草稿を出版した。
その書物は、ワーグナーに捧げられた。
実際に彼は、ワーグナーを愉快にさせるために、その本に多数の修正を加えていた。
その書物はもともとは、悲劇の研究書だった。少なくとも、そのようなものとして書き始められた。
しかし結局は、ギリシャ人以降はヨーロッパが知らなかったまたは経験しなかった新しい芸術の誕生だとして、ワーグナーの芸術を賛美する書物になった。
この書物は、理性に対する神話の勝利を賞賛し、ソクラテスとエウリピデスから始まったギリシャ文化の頽廃を描いた。//
(04) 〈悲劇の誕生〉には、最初の書物に見られる多くの痕跡がある。
大胆に、のちに受容された著作者たちよりももっと極端な立場を、明らかにしている。
しかし、ニーチェがのちに採る近代文明に対する批判の前兆も示している。
ニーチェは、学歴上は古典学者であり、文献学者だった。
総じて言って、19世紀半ばには、ギリシャ生活で最も強調されたのは、古代的な禁欲と5世紀のアテネとの均衡ある連携という理想だった。
ギリシャ生活の非合理的な側面は知られていたが、大部分は無視された。
アテネが文化的に達成したものは、合理的生活の出現と、Matthew Arnord とJonathan Swift の語句を使って表現した「甘美さと明るさ」の獲得だった。//
(05) ニーチェはこのようなギリシャ解釈に、そして西側の合理性の父祖という、長く続くソクラテスに対する尊敬の念に、闘いを挑んだ。
(06) ニーチェはまた、Dionysus の儀礼へとギリシャ悲劇の歴史をたどった。
彼は、ギリシャ悲劇はDionysus 的狂気とApollon 的様式との一種の結合から出現した、と見た。
ニーチェは決して、Dionysian—Apollonian という二元論を説いた最初の人物ではなかった。
それは実際には、ドイツの文学や音楽の世界内部では相当程度に一致して知られていた。
しかしながら、彼の書物は、西側ヨーロッパ人の心に拭いきれないほどに、この二元論を刻み込んだ。
ニーチェはこう言った。「我々は、〈Apollon 的文化〉という精巧な建造物をいわば一石ごとに分解して、それが依って立つ基盤を見つけるにまでに至る必要がある」。(注1)
Apollon 的様式の禁欲は、思想と現象的外観についてのショーペンハワー的世界と同等のものだった。
その世界の下には、Dionysus 的狂気が横たわっていた。
ニーチェは、こう宣言した。
「人間と人間のあいだの紐帯がDionysus 的な魔術によって再び復活する、というだけではない。
有害だとして遠ざけられ、従属させられた自然が、その失った息子である人類とのあいだの和解の祭典をもう一度、祝福しもするのだ。<中略>
今や、宇宙的調和の福音を聴きながら、各人はみんな、たんに自分が隣人と結合し、和解し、融合していると感じるだけではなく、その隣人とまさに文字通りに一つであると感じるのだ。まるで、maya のベールが引きちぎられて、その切れ端だけが神秘的な始原的一体(根源的一つ(das Ur-Eine))の前ではためいているがごとくに。」(注2)//
(07) 芸術と悲劇に関して、ニーチェは、Dionysus 的なものとApollon 的なもののいずれも必要だと考えた。
彼の書物は、Dionysus 的なものを賞賛するだけの、無条件の著作ではない。
そうではなく、彼が論じたのは、ギリシャの最高度の芸術が感動的であるのは、外観についてのApollon 的世界の下に横たわっているのは精神(the psyche)の内的深さであることを証明している、ということだった。//
(08) ニーチェはショーペンハウワーを使ったけれども、十分に彼を超えて進んでいた。
ショーペンハウワーが悲観主義と生の否認へと駆り立てたのに対して、ニーチェは、芸術は生を肯定するものだと見た。
劇場における悲劇を通じて、ギリシャ人はその生を見出し、その共同体を肯定した。
芸術にとっての、とくにギリシャ悲劇にとっての問題は、Apollon 的なものが支配したときに発生した。
Dionysus 的なものが放棄されたとき、芸術はその様式だけではなく内容も、当時の道徳性から採用した。
ギリシャの場合にこれが意味したのは、悲劇がソクラテス的知識と分析の浅瀬に乗りあげて座礁するに至った、ということだった。//
(09) なぜニーチェがソクラテスに対する批判と侮蔑へと飛躍したのかを理解するためには、19世紀におけるソクラテスについて、少しばかり知らなければならない。
ニーチェは、ソクラテスを論評する中で、19世紀の多数の関係文献を5世紀のアテネでの議論へと符号化(encode)していた。//
(10) 19世紀の初期および半ばには、ソクラテスに関する二つの主要な解釈があった。G. W. F. ヘーゲルの解釈と、George Grote の解釈だ。//
——
第2節、終わり。