日本語でのニーチェに関する文献は邦訳書も含めて少なくないが、いろいろなニーチェ論、ニーチェ解説を知っておこう、という趣旨で、以下の英語著の最後の章(第15章)のニーチェに関する部分を試訳してみる。
Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
区切りの見出しも数字もないが、一行空白の箇所がいくつかあるので、それによって便宜的に「節」の区切りとみなし、連番数字をつけた。
一文ごとに改行し、段落の冒頭に(01)等の番号を付した。
——
第15章・ニーチェ。
第1節
(01) ブルジョアジーは、19世紀半ばから後半のヨーロッパの知的、文芸的、芸術的文化を支配した。
ドイツの統一の頃までに、永続すると考えられた世界を構築していた。
鉄道は大陸に網を張り、人々は電信ケーブルを使って大陸間で通信した。新たに設計された都市が田園風景の中に点在し、大きな蒸気船が、ヨーロッパで製造された商品を世界中に運んだ。
(02) 国民国家が、政治生活を支配した。
科学は自然の大きな秘密を解明し、自然を人類の財産の協力者にしたように見えた。
実際に、ヨーロッパ人は、T・H・ハクスリーが「事実の上にある科学が生んだ新しい自然」と呼んだものの中で生活していた。
(03) だが、このような生活様式の表面的快適さは、幻想だった。
ヨーロッパじゅうのブルジョアジーは不安をもち、怖れすらしていた。
Peter Gay がかつて指摘したように、「神経質病」が人々の挙措の一般的な病気と兆候として現れ始めた。
中間階層は、社会主義者を恐れた。
彼らはまた、貴族政体の健全な側面を維持した。
自分たちの国民国家の内外に、人種的な敵を探し求めた。
中間階層の快適さを生んでいた同じ産業革命が、軍隊のための新しい破壊力をも生んでいた。
中間階層の重要な与件だったキリスト教は、科学と歴史研究の包囲攻撃を受けていた。
リベラルな政治家たちは、想定されたようには全く働いていなかった。
有権者数の膨張は、社会主義者を助けたのみならず、政治的国民の保守的勢力の利益となったように見えた。
教会、貴族層、のちには反ユダヤ主義者は、民主政体の諸制度を彼らの目的のために用いることができた。
(04) しかし、少なくとも後から振り返れば、おそらく最も当惑させるもので、最も印象的だったのは、世紀の後半に顕著になった、ブルジョア世界に対する知識人の批判だった。
とくに重要なのは、半世紀前にJ・シュンペーターが指摘したように、この批判の多くがブルジョア文化それ自体から発生した、ということだ。
西側文明は、自己批判を好む傾向をつねに示した。そして、その文化の内部では、中間階層ほどにその傾向を示した集団は存在しなかった。
(05) 例えば、科学の方法を文学に適用せよとしばしば要求されたリアリズム小説の作家たちは、中間階層の文化を批評するために、科学に対するブルジョアの信仰を用いた。
さらに加えて、この批判の媒介手段—文学分野では小説—は、全ての人文形態の中で、おそらく最もブルジョア的だった。
伝統的な制度を拒むリベラルなブルジョアジーの志向は、サロンの伝統的権威を拒む芸術家たちとよく似ていたことだろう。また、そうした志向は、彼ら自身が選ぶ芸術展示会や画廊を始めることになった。—これはしばしば、裕福な中間階層を称賛し財政支援をすることとなった。
(06) 自分たち自身に向けたブルジョアジーの文化の最も顕著な例は、世紀の後半での理性(reason)の利用であり、これは、合理的なもの(the rational)を疑うか、非合理的なものを探すかのいずれかだった。
これらは、二つの全く異なる傾向だった。
前者は非合理的のものの賞賛へと至るもので、おそらくは人種的思考に見ることができる。
後者は、もっとはるかに複雑だった。
合理的方法を用いて非合理的なものを探すことは、非合理的なものの賞賛に至るかもしれないが、至らないかもしれない。
たんに合理的でないものの重要性を認識し、合理的なものの範囲内でそれを維持する試みに、つながり得るだろう。
あるいは、非合理的なものの発見と合理的なものとのその併存の許容へと至り得るだろう。
あるいは、ある場合には、合理性それ自体がほとんど無用だという考えに至り得るだろう。
これらのいずれも、ブルジョア文化に、より特定して言えば啓蒙思想(the Enlightenment)に、挑戦するものだ。
(07) 実証主義に対するこの反抗を主張した最も重要な人物であり、ブルジョア文化に対する過激な批判者だと考えられるに至ったのは、F・ニーチェ(Friedrich Nietzsche)だ。
今日では、この点でニーチェほどの広汎な声価(reputation)を得ている哲学者はほとんどいない。
このような意味で、モダニズムの主唱者や中間階層文化を批判した他の者たちと同様に、ニーチェもまた、この文化に捉われており、取り込まれている。
(08) ニーチェの今日での声価が得られるまでには、かなりの困難さがあった。
彼が生きていた間、その書物は著名ではなく、広く受容されたのでもなかった。
ニーチェが出版社を見つけるのは、しばしば困難だった。
出版社があっても今度は、彼の本を売るという困難さがあった。
彼の声価が高まったのは、ようやく1880年代遅くに、デンマークの評論家のGeorge Brandes がニーチェの著作を論じ始めてからだった。
そうして、ニーチェは、多様な諸国の当時の他の文筆家に評価され始めた。
しかし、初期のこの声価と敬意は、欠陥のある、間違って編集された、半ば捏造された(quasi-forged)彼の著作にもとづいていた。その出版物は、ニーチェの実際の思想とはまさに正反対の鋳型へとその思想の多くを入れ込んだものだった。
(09) Brandes は1888年にコペンハーゲンで、ニーチェについて講演した。
その翌年早くに、ニーチェは精神障害(insanity)の時期に入った。それは1900年の彼の死まで続くことになる。
1880年代の彼の著作に関する代理人かつ執行者は、妹の Elizabeth Förster-Nietzsche だった。
彼女はBernard Förster の妻で、この夫は、ドイツの最も過激な人種主義者かつ反ユダヤ主義者の一人だった。
1880年代にその夫は死亡し、兄は狂人(mad)となった。そして彼女は、夫の考え方と政策を支持して促進すべく、兄の諸著作の編集をし始めた。
Förster-Nietzsche 夫人は、彼女の兄の著作物に対して排他的権利を持った。そして、出版したいと思うものだけを出版した。
(彼女は、1930年代まで生きた。)
彼女は、完全では決してないニーチェの選集のいくつかの版を出版した。
(10) 彼女はとくに、1908年まで、〈この人を見よ(Ecce Homo)〉の出版を遅らせた。
これはニーチェの最後の著作の一つで、反ユダヤ主義、ナショナリズム、人種主義、菜食主義、軍国主義、および権勢政治に対する批判を述べていた。
そして彼女は、この書物をきわめて高価にして出版した。
それより前に出版した諸著作は、兄にとってきわめて悪意のある声価を確立する鍵になっていた。
ニーチェの文章の中には、数百頁になる断章やアフォリズムがあった。
彼女は、これらの一部を1901年に、その他の多くをのちに〈権力への意思(The Will to Power)〉という挑発的な表題を付けて、出版した。
これらは、初期の諸著作のための覚え書だった。
彼女はこれらをでたらめにつなぎ合わせ、兄の最後の体系的な作品で構成されていると示唆した。
このような編集の操作によって、ニーチェは絶望的に理解し難く、曖昧で、非体系的で、反ユダヤ主義で、猛烈に民族主義的で、かつ親ナツィだ、という考えが広がるに至った。
ドイツの学界にいくぶんか歪曲の少ないニーチェの見解が現れたのは、ようやく第一次大戦の後だった。また、アメリカの学者たちが系統的にニーチェを検証して教育し始めたのは、まさにようやく、第二次大戦の後だった。
(11) ニーチェの思想は、少なくとも二つの発展段階を通っていた。
第一の時期には、逆のことへの多数の異論があったにもかかわらず、ニーチェは、ロマンチシズムの伝統と緊密に歩調を合わせ、非合理的なものをしばしば称賛しているように見えた。
彼はこの時期に、ワーグナー(Wagner)と親しく交際した。
(12) ニーチェの思想の第二期には、批判主義、コスモポリタン主義、良きヨーロッパ人を擁護し、民族主義を批判して、啓蒙思想(the Enligtenment)に接近した。
二つの時期を通じて、ニーチェは一般に、リベラリズムや、自分が中間階層の文化の俗物性だと見なしたものに対して、批判的だった。
ドイツの多くの哲学者たちのように、彼は、理性を用いて、理性の領域に挑戦し、あるいはそれを限界づけた。
——
第1節、終わり。
Frank M. Turner, European Intellectual History -From Rousseau to Nietzsche (2014).
区切りの見出しも数字もないが、一行空白の箇所がいくつかあるので、それによって便宜的に「節」の区切りとみなし、連番数字をつけた。
一文ごとに改行し、段落の冒頭に(01)等の番号を付した。
——
第15章・ニーチェ。
第1節
(01) ブルジョアジーは、19世紀半ばから後半のヨーロッパの知的、文芸的、芸術的文化を支配した。
ドイツの統一の頃までに、永続すると考えられた世界を構築していた。
鉄道は大陸に網を張り、人々は電信ケーブルを使って大陸間で通信した。新たに設計された都市が田園風景の中に点在し、大きな蒸気船が、ヨーロッパで製造された商品を世界中に運んだ。
(02) 国民国家が、政治生活を支配した。
科学は自然の大きな秘密を解明し、自然を人類の財産の協力者にしたように見えた。
実際に、ヨーロッパ人は、T・H・ハクスリーが「事実の上にある科学が生んだ新しい自然」と呼んだものの中で生活していた。
(03) だが、このような生活様式の表面的快適さは、幻想だった。
ヨーロッパじゅうのブルジョアジーは不安をもち、怖れすらしていた。
Peter Gay がかつて指摘したように、「神経質病」が人々の挙措の一般的な病気と兆候として現れ始めた。
中間階層は、社会主義者を恐れた。
彼らはまた、貴族政体の健全な側面を維持した。
自分たちの国民国家の内外に、人種的な敵を探し求めた。
中間階層の快適さを生んでいた同じ産業革命が、軍隊のための新しい破壊力をも生んでいた。
中間階層の重要な与件だったキリスト教は、科学と歴史研究の包囲攻撃を受けていた。
リベラルな政治家たちは、想定されたようには全く働いていなかった。
有権者数の膨張は、社会主義者を助けたのみならず、政治的国民の保守的勢力の利益となったように見えた。
教会、貴族層、のちには反ユダヤ主義者は、民主政体の諸制度を彼らの目的のために用いることができた。
(04) しかし、少なくとも後から振り返れば、おそらく最も当惑させるもので、最も印象的だったのは、世紀の後半に顕著になった、ブルジョア世界に対する知識人の批判だった。
とくに重要なのは、半世紀前にJ・シュンペーターが指摘したように、この批判の多くがブルジョア文化それ自体から発生した、ということだ。
西側文明は、自己批判を好む傾向をつねに示した。そして、その文化の内部では、中間階層ほどにその傾向を示した集団は存在しなかった。
(05) 例えば、科学の方法を文学に適用せよとしばしば要求されたリアリズム小説の作家たちは、中間階層の文化を批評するために、科学に対するブルジョアの信仰を用いた。
さらに加えて、この批判の媒介手段—文学分野では小説—は、全ての人文形態の中で、おそらく最もブルジョア的だった。
伝統的な制度を拒むリベラルなブルジョアジーの志向は、サロンの伝統的権威を拒む芸術家たちとよく似ていたことだろう。また、そうした志向は、彼ら自身が選ぶ芸術展示会や画廊を始めることになった。—これはしばしば、裕福な中間階層を称賛し財政支援をすることとなった。
(06) 自分たち自身に向けたブルジョアジーの文化の最も顕著な例は、世紀の後半での理性(reason)の利用であり、これは、合理的なもの(the rational)を疑うか、非合理的なものを探すかのいずれかだった。
これらは、二つの全く異なる傾向だった。
前者は非合理的のものの賞賛へと至るもので、おそらくは人種的思考に見ることができる。
後者は、もっとはるかに複雑だった。
合理的方法を用いて非合理的なものを探すことは、非合理的なものの賞賛に至るかもしれないが、至らないかもしれない。
たんに合理的でないものの重要性を認識し、合理的なものの範囲内でそれを維持する試みに、つながり得るだろう。
あるいは、非合理的なものの発見と合理的なものとのその併存の許容へと至り得るだろう。
あるいは、ある場合には、合理性それ自体がほとんど無用だという考えに至り得るだろう。
これらのいずれも、ブルジョア文化に、より特定して言えば啓蒙思想(the Enlightenment)に、挑戦するものだ。
(07) 実証主義に対するこの反抗を主張した最も重要な人物であり、ブルジョア文化に対する過激な批判者だと考えられるに至ったのは、F・ニーチェ(Friedrich Nietzsche)だ。
今日では、この点でニーチェほどの広汎な声価(reputation)を得ている哲学者はほとんどいない。
このような意味で、モダニズムの主唱者や中間階層文化を批判した他の者たちと同様に、ニーチェもまた、この文化に捉われており、取り込まれている。
(08) ニーチェの今日での声価が得られるまでには、かなりの困難さがあった。
彼が生きていた間、その書物は著名ではなく、広く受容されたのでもなかった。
ニーチェが出版社を見つけるのは、しばしば困難だった。
出版社があっても今度は、彼の本を売るという困難さがあった。
彼の声価が高まったのは、ようやく1880年代遅くに、デンマークの評論家のGeorge Brandes がニーチェの著作を論じ始めてからだった。
そうして、ニーチェは、多様な諸国の当時の他の文筆家に評価され始めた。
しかし、初期のこの声価と敬意は、欠陥のある、間違って編集された、半ば捏造された(quasi-forged)彼の著作にもとづいていた。その出版物は、ニーチェの実際の思想とはまさに正反対の鋳型へとその思想の多くを入れ込んだものだった。
(09) Brandes は1888年にコペンハーゲンで、ニーチェについて講演した。
その翌年早くに、ニーチェは精神障害(insanity)の時期に入った。それは1900年の彼の死まで続くことになる。
1880年代の彼の著作に関する代理人かつ執行者は、妹の Elizabeth Förster-Nietzsche だった。
彼女はBernard Förster の妻で、この夫は、ドイツの最も過激な人種主義者かつ反ユダヤ主義者の一人だった。
1880年代にその夫は死亡し、兄は狂人(mad)となった。そして彼女は、夫の考え方と政策を支持して促進すべく、兄の諸著作の編集をし始めた。
Förster-Nietzsche 夫人は、彼女の兄の著作物に対して排他的権利を持った。そして、出版したいと思うものだけを出版した。
(彼女は、1930年代まで生きた。)
彼女は、完全では決してないニーチェの選集のいくつかの版を出版した。
(10) 彼女はとくに、1908年まで、〈この人を見よ(Ecce Homo)〉の出版を遅らせた。
これはニーチェの最後の著作の一つで、反ユダヤ主義、ナショナリズム、人種主義、菜食主義、軍国主義、および権勢政治に対する批判を述べていた。
そして彼女は、この書物をきわめて高価にして出版した。
それより前に出版した諸著作は、兄にとってきわめて悪意のある声価を確立する鍵になっていた。
ニーチェの文章の中には、数百頁になる断章やアフォリズムがあった。
彼女は、これらの一部を1901年に、その他の多くをのちに〈権力への意思(The Will to Power)〉という挑発的な表題を付けて、出版した。
これらは、初期の諸著作のための覚え書だった。
彼女はこれらをでたらめにつなぎ合わせ、兄の最後の体系的な作品で構成されていると示唆した。
このような編集の操作によって、ニーチェは絶望的に理解し難く、曖昧で、非体系的で、反ユダヤ主義で、猛烈に民族主義的で、かつ親ナツィだ、という考えが広がるに至った。
ドイツの学界にいくぶんか歪曲の少ないニーチェの見解が現れたのは、ようやく第一次大戦の後だった。また、アメリカの学者たちが系統的にニーチェを検証して教育し始めたのは、まさにようやく、第二次大戦の後だった。
(11) ニーチェの思想は、少なくとも二つの発展段階を通っていた。
第一の時期には、逆のことへの多数の異論があったにもかかわらず、ニーチェは、ロマンチシズムの伝統と緊密に歩調を合わせ、非合理的なものをしばしば称賛しているように見えた。
彼はこの時期に、ワーグナー(Wagner)と親しく交際した。
(12) ニーチェの思想の第二期には、批判主義、コスモポリタン主義、良きヨーロッパ人を擁護し、民族主義を批判して、啓蒙思想(the Enligtenment)に接近した。
二つの時期を通じて、ニーチェは一般に、リベラリズムや、自分が中間階層の文化の俗物性だと見なしたものに対して、批判的だった。
ドイツの多くの哲学者たちのように、彼は、理性を用いて、理性の領域に挑戦し、あるいはそれを限界づけた。
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第1節、終わり。