西尾幹二の個人全集第17巻(2018年)の特徴は、前回に書いたことのほか、いくつかある。
  一つは、この巻が対象としている自分の文章等についての、読者が恥ずかしくなるほどの自画自賛ぶりだ。「後記」から、例を挙げる。なお、別巻収載の同『国民の歴史』にも言及がある。
 ①「それよりも今一番見逃せないのは、私の最大の長所が、日本史のトータルを歪曲した勢力との思想的格闘にあったことだ」。p.748。
 ②「(この巻の)第一部は従来の歴史思想を挑発し、徹底的に論破しようとしている。
 第二部は学問的に内省し、自分の立場を固めようとしている。」p.749。
 ③「ことに第三部の最後の三篇」は「…全国規模のドキュメントで、推理小説のようにスリリングであり、最後に思いもかけない『犯人』が暴露されるいきさつをお楽しみいただきたい」。
 ④「『国民の歴史』『地球日本史』その他によって遺産として遺された著作群は、同運動の継承者を末長く動かす唯一の成果であろう」。
 この点を除けばつくる会運動の意義はない、と言えば「運動の具体的関与者」は不満だろうが、「歴史哲学の存在感は大きい」。p.751。
 (『国民の歴史』等は「歴史哲学」書だと西尾本人が言っている!—秋月)
 ⑤「『国民の歴史』の前半」を…に力点を置いて「読まれるようお願いしておきたい」。「これからの時代にその必要度は増してくると思われるからである」。p.752。
 ⑥上の理由はつぎのとおり。「中国を先進文明とみなす」病理が巣食っているが、「この点を克服しようとしている『国民の歴史』はグローバルな文明的視野を備えていて、もうひとつの私の主著『江戸のダイナミズム』と共に、これからの世紀に読み継がれ、受容される使命を担っている」。
 以上。
 ④での「歴史哲学」という言葉の使い方にも驚くが、この⑥は、呆れかえる、「精神・神経」の健全さすら疑う、というレベルのものだ。
 本当に喫驚する。
 仮に万が一適切だったとしても、自分の著について、「グローバルな文明的視野を備えてい」る、「これからの世紀に読み継がれ、受容される使命」がある、と書くことのできる日本人文筆者は他にいるだろうか。
 そして、その内容、自己主張に適切さは全くないとなると、いったいこの人はどういう「精神・神経」の状態にあるのだろうか。
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  日本人ではない、「哲学者」とされるニーチェ『この人を見よ』は、その傲岸さを感じつつ(各文献を知らないままで)戯れに読むと、面白い作品だ。
 あくまで一部の紹介だが、「なぜわたしはこんなに賢明なのか」等の他に「なぜわたしはこんなによい本を書くのか」と題する章があり、さらにその中に、つぎの文章がある。
 「『悪意』のある批評を書かれた事例」はほとんどないのに反して、「まるでわたしの著書がわからないという純なる愚かさの実例となると、これは多すぎるくらいにある!」
 ドイツ以外には「至るところに読者」があり、「選り抜きのインテリゲンチアで、高い地位と義務の中で教育された信頼すべき人物ばかりだ」。
 「要するに、わたしの著書を読み出すと、ほかの本にはもうがまんできなくなるのだ。哲学書などはその筆頭である。」
 「およそ書物のうちで、これ以上に誇り高い、同時に洗練されたものは絶対にない。」
 長くなるから、これくらいにする。訳は、手塚富雄:岩波文庫(1969年)によった。
 西尾幹二は、ニーチェを基準とすると、まだ可愛いのかもしれない。
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  もう一点、西尾個人全集第17巻については、指摘しておくべき重要な点がある。つぎの機会に回す。
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