一 自らが初代会長だった「新しい歴史教科書をつくる会」の運動について、西尾幹二はこう語ったことがある。
 ①月刊諸君!2009年6月号(文藝春秋)。p.204-5。この雑誌の最終号の8名による座談会で、宮崎哲弥が「つくる会」は戦後保守の最初で「おそらく最後の」「大衆運動」だろうと見ていたと発言すると、西尾はすぐあとにこう発言した。
 「いや、運動はしましたよ。それはさかんに動いたけれども、結局、大勢我に利あらずして、現実を動かしえなかった…、私はそう総括しています。
 保守言論の無力というものを露呈したわけです。
 あのときの中韓との戦い<中略>、日本は負けてしまって…いまだに負けつづけているのです。」
 ②月刊WiLL2011年12月号(ワック)。これを現時点で散逸しているので正確な引用はできない。記憶による。
 西尾が自分が書いたものは全て「自己物語」で「私小説的自我の表現」だった旨を言い、対談者の遠藤浩一が、<そうすると、つくる会という組織の運営は大変だったでしょう>という旨を質問気味に発言すると、西尾は、こう反応した。
 <そうなんです。だから、失敗したのです。>
 (この部分は現物を見て後日修正するかもしれない。)
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  2009年、2011年の時点では、このように「無力」や「失敗」という言葉を用いていた。
 しかし、西尾個人編集の独特な<全集>の2018年の「歴史教科書問題」の巻(第17巻)になると、「つくる会」運動は全くまるで異なったものだったように描かれている(そのように個人編集されている)。
 この2018年刊行本の中に、前年2017年の「つくる会」20周年記念集会用の挨拶原稿が収載されている。その中につぎの文章があることは。すでに何回か触れた。もう少し範囲を拡大して。以下に(再)引用・紹介する。p.711-2。
 「“ジャパン・ファースト”の起点——歴史教科書運動」〔冒頭見出し—秋月〕。
 「ジャパン・ファーストで行こうと声をあげたのは、『新しい歴史教科書をつくる会』にほかなりません。」
 私は機関誌創刊号で「これを『自己本位主義』の名で呼びました」。
 「採択の結果は乏しかったのですが、…流れ出したジャパン・ファーストの精神運動はさまざまな方面の人々に引き継がれました」。保守言論界の雑誌に「集結した人々の文章のみが、今では唯一の国論をリードするパワーです」。
 「グローバリズム」は「国際化」とのスローガンで彩られていましたが、会はそのような「美辞麗句」を嫌い、「反共だけでなく反米の思想も『自己本位主義』のためには必要だと考え、初めてはっきり打ち出しました」。
 「私たちの前の世代の保守思想家、たとえば竹山道雄や福田恆存に反米の思想はありません。
 反共はあっても反米を唱える段階ではありませんでした。」
 三島由紀夫と江藤淳が「先鞭をつけました」が、「しかし、はっきりした自覚をもって反共と反米とを一体化して新しい歴史観を打ち樹てようとしたのは『つくる会』です。」
 「われわれの運動が曲がり角になりました。
 反共だけではなく反米の思想も日本の自立のために必要だということを、われわれが初めて言い出したのですが、単に戦後の克服、敗戦史観からの脱却だけが目的ではなく、これがわれわれ本来の目的だったということを、今確認しておきたいと思います。」
 以上。
 これが、西尾幹二が2017年時点で確認または総括する「つくる会」運動の積極的意義だ。失敗でも無力さもなかった、そうではなく、格調高い?意義を持っていたのだ。
 もっとも、西尾は「精神運動」、「反米思想」、「歴史観」といった言葉を使っているので、「精神」・「思想」運動のレベルでの意義を語っているのかもしれない。つまり、「教科書採択の成果は乏しかったのですが」とだけ触れつつ、その<現実>の背景・原因・理由には、最初の会長でありながら、いっさい触れず、何の総括も述べていないのだ。たぶん、その点を概括した文章も当時に書かなかったのだろう。
 良い面だけを取り上げる、そして全くかほとんど、「精神」・「思想」面に関心を示す(触れたくない「現実」は無視する)、という、この人物の(特にこの全集・巻の編集に際しての)特徴がよく表れている。
 上に「良い面」と書いたが、西尾にとってのそれで、詳論しないが、根本的間違い、誤った国際情勢把握を、ここでも示している。
 <アメリカからも中国からも自立・独立せよ>、とこの人物は別の論考で明言しているが、妄想・空想の類だ。軍事、食糧、エネルギー、デジタル商品、労働力等々、完全に一国だけで「自立」している国家など、どこにあるのか。西尾幹二のグローバリズム批判と「日本本位主義」は異常の域に入っているように思われる。
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  ついでに。
 上に紹介した2017年の文章をあらためて読んでいると、つぎの印象が生じる。
 この人は、竹山道雄、福田恆存、三島由紀夫、江藤淳に並ぶレベルの「思想家」とでも自らを勘違いしているのではないか。
 竹山と江藤についてはよく知らない。だが、西尾幹二が後世に福田恆存や三島由紀夫と並んで言及されるような、この二人と同列の人物だとは全く思われない。またおそらく、竹山よりも江藤よりも、劣った仕事しかしていないのではないか。
 要するに基本的には、読者をレトリックで煙に巻くことに長けた、かつやたら〈顕名〉=自己顕示を気にする「物書き」=文章執筆請負業者にすぎないだろう。この点は、これからも、この欄で(ニーチェの影響も含めて)述べていこう。
 また、西尾幹二が独特の「個性的」人物であるようであることの一例は、個人編集全集第17巻に即して、次回に書く。
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