François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 試訳のつづき、第8章へ。この章は、本文総計81頁のうち計26頁を占め、最も長い。中途に1行の空白のある場合は、意味ある区切りだろうと判断して、試訳者において「節」に分けている。
 ——
 第8章・全体主義論(Critique of Totalitarianism)①。
 第1節。
 (1)私の意図は全体主義の歴史を研究することだった。この全体主義の言葉と思想は、1920年代早くに、社会生活の全領域の国家による絶対的掌握を表現するために—イタリアでムッソリーニのファシズムとともに、そしてフランスとドイツで—出現した。
 しかし、私はレーニンとスターリンの間の移行の時期に関する章を、「一国社会主義」の考えがどのようにしてボルシェヴィズムの普遍主義的な野望についての移行を惹起したかを検証すべく、執筆した。この移行は、ボルシェヴィズムをいくぶんかファシズムへと接近させた。
 私の分析では、この時期に、全体主義思想のソヴィエトの経験への拡張が時代の語彙の中に現れる。
 (2)「全体主義的」(totaritarian)という形容詞は、イタリアで生まれた。
 私の知る範囲では、これを生んだのは、ムッソリーニだった。
 歴史学上の意味論では、我々はいつも、概念が生まれたときに立ち戻っている。
 特定の言葉について、その最初の使用を発見した、というのが確実なことはない。
 だがなおも、「全体主義的」はイタリアのファシストが考案したのだと思える。諸個人の生活の全ての側面が集合体と国家に連結している、ということを表現するためにだ。むろん、諸個人の生活の全ての側面をについて個人を包み込む(encompass)「全体的」(total)国家の存在を表現するためにも。
 この言葉のもう一つの起源は、〈全面戦争〉、「totaler Krieg」のようなドイツの右派による「total」という形容詞の使用だ、と私は考える。
 E・ユンガー(Ernst Jünger)は「全的軍事動員」(total mobilization)という語を用いた。
 ドイツ右派の構成員のあいだに、第一次大戦は、紛争が「全面戦争」になったという意味深い考え方を生んだ。これは、重要なのは生や死ではなく全体としての交戦国家の力(forces)だ—戦闘員の軍事意識だけではなく全ての政治的熱情、労働の全能力だ—ということを意味した。 
 ユンガーは、戦争への労働力の投入、生産力としての労働、を強調した。//
 (3)第一次大戦の間は、「total」や「totalitarian」という言葉は共産主義の世界とは何の関係もなかった。
 私の見解では、これらの言葉がファシズムと共産主義の両方を指し示す二重の意味を持つのは、ナツィズムとスターリンのソヴィエト同盟のあいだに比較し得る特性が現れた、1930年代だった。
 しかし、1925年と1930年の間のドイツの「ナショナル・ボルシェヴィズム」は特殊な場合だと見ることができた。つまり、スターリンの勝利を利用した移行であり、ドイツの極右に対して例示するための構築の真ん中にスターリンがいる状態だった。
 「total」や「totalitarian」が二重の意味を持つのはこの時期に始まった、と私は思う。
 そして、いつものことだが、新しい言葉の考案は、何か重要なことを知らせることになる。//
 (4)共産主義を本質的に反ファシズムだと定義するのは、たんなる消極的定義であり、その本来の敵とは正反対の特質を定義するものだ。すなわち、ファシズムが自由に敵対的ならば、共産主義は定義上、自由を好ましいものと見なすものだ、等々。 
 この言葉の対比は、マルクスならば「観念論的」と称しただろう。イデオロギーと意図の次元にのみ存在するものだからだ。しかし、ヨーロッパの左翼の想像力をふくらませた。
  この対比に何がしかの「唯物論的」重みを加えるために、共産主義者は経済へもこれを利用しようとした。いわく、ファシズムは金融資本主義の産物だ。ゆえに、唯一の真の反ファシストは必然的に反資本主義者であり、つまりは共産主義者だ。
 このテーゼは、馬鹿げている。しかし、20世紀に広範に流布されて、しばしば正しいものとして受容された(今日では利用できる歴史的反証があるにもかかわらず、一定の範囲ではまだ残っている)。正しいと受けとめられたということは、知的な首尾一貫性ではなく、政治的熱情からその力を得た、ということを示している。
 もう一度、オーウェルの判断に戻ろう。20世紀の左翼は、反ファシストだが、反全体主義者ではなかった。—これは、共産主義思想が果たした顕著な役割に関する、卓越した要約だ。//
 (5)戦争があり、数千万の死があった—反ファシズムの名のもとで死んだ共産主義者がいた。そのために、ファシズムと共産主義を比較対照することがタブーになった。
 第二次大戦が終焉して以降は、流された血の威嚇的効果は決定的だった。
 そして、誰もあえてナツィズムと共産主義と比較しようとしなかった。なぜなら、両者は戦場で顔を向け合って対決したのであり、赤軍はヨーロッパをナツィの抑圧から解放するに際して力強い、指導的ですらある役割を果たしたのだから。
 つぎの者を除いて、誰も比較対照をしなかった。当時はまだ無名だったV・グロスマン(Vassily Grossman)とH・アレント(Hannah Arendt)。後者は、収容所の視点から、戦争後すみやかに類似性を感知した。
 しかし、戦後すぐにタブーだったことは、1930年代にはそうではなかった。
 当時では、ファシズムと共産主義を全体主義という概念のもとで比較することは、全くふつうのことだった。
 私が歴史学に寄与したと思う一つは、全体主義は決して第二次大戦後の思想ではなく、1930年代の多数の著作者の文献に見出され得ることを、明らかにしたことだ。//
 ——
 第8章第1節①、終わり。