François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012
 試訳のつづき、第7章へ。途中に「+」のついた空白の1行があるので、短いながら、節を分ける。下線は、試訳者。
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 第7章・ボルシェヴィズムの魅惑(The Seduction of Bolshevism)。
 第1節。
 (1)私は明らかにしたいのだが、ボルシェヴィズムに関する尋常ではないものは、その魅惑(seduction)の可塑性だ。
 これの三つの類型を挙げる。第一に、B・スヴァーリン(Boris Souvarine)は、フランスの伝統でのジャコバンであるがゆえに、最も単純だ。
 第二に、P・パスカル(Pierre Pascal)は、ロシアと教会連合を熱愛した、反マルクス主義キリスト教者だ。
 彼の場合はすでに、理解するのがむつかしい。
 第三は、G・ルカーチ(Georg Lukács)で、より突飛ですらある。この人物の出身は、ニーチェ、キルケゴール、およびその種の著作者だ
 彼は、芸術愛好家、ユダヤ人銀行家の息子、オーストリア=ハンガリーの伊達男で、ブダペストのカフェやウィーンでよく知られていた。
 換言すると、知識人には、可能なかぎり異なっている、三タイプがある。
 そして、少しのちに、イギリスのファビアン派(Fabians)が現れた。
 ボルシェヴィズムは、ヨーロッパの全ての知識人界を揺さぶった。
 ボルシェヴィキ思想はどのようにして、かくも多くの文化的伝統—シュール・リアリスト、ニーチェ主義者、フランス・ジャコバン、イギリス・ファビアン派—をその周りに集めることができたのか?
 社会民主主義者たちは、少し大きい抵抗を示した。彼らはボルシェヴィキ・ボルシェヴィズムと同じ宗派育ちであり、通暁していたからだ。
 しかし、反共主義者と呼ばれるのを恐れて、おとなしくしていた。//
 (2)イギリスの場合は独特だ。プロテスタントの国民と文化を巻き込んでいるのだから。
 ブルームズベリー・グループ(the Bloomsbury Group)の特徴は、反既得権益層、フランスのシュール・リアリストのそれに似た反ブルジョア的耽美主義だった。
 耽美的反応による親共産主義者というこの流れは、この世紀中ずっとイギリスの知識人界を貫いた。
 1930年代のCambridge は、その一例だ。
 しかし、イギリスの共産党は、フランス共産党と違って、議員が選出されたりする現実的にナショナルな存在となることができなかった。
 おそらくその理由は、フランスでは多数の例が提示されたような、演劇的かつ悲劇的な解体の場面をイギリスの国民は露骨に見ることがなかった、ということだ。
 忠実な活動家は、全ゆる罵倒を浴びせられる「背教者」に変わった。
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 第2節。
 (1)共産主義者の最大の犯罪は、先ずロシア人に対して、次いでポーランド人—西ヨーロッパにとって忘れられた人々—に対して、冒された。
 パリ、ローマ、あるいはロンドンではしばしば、共産主義に関する歴史的判断はロシアやウクライナの農民層の廃絶、殺戮または追放された数百万の人々、強制収容所(the Gulag)、カティン(Katyn)に基づいている。
 トゥール(Tours)大会での分裂や共産党とのつながりがなければ、左翼はもっと早くもっと頻繁にフランスを支配していただろう。このことを忘れて、フランス人は、人民戦線や有給休暇の名前でもって共産主義を理解してきた、としばしば言われる。//
 (2)共産主義者が最も非難されるべき行為は、ソヴィエト体制に関してうそをついていたことだ。
 我々は、彼らが行ったことよりも—結局はフランスのような国では彼らはたいていは天使の側にいたのだ—、むしろ彼らが言ったこと、あるいは逆に言わなかったことを、非難することができる。
 彼らは決して、うそをつくことを止めなかった。
 今日ではあまりに巨大で、あまりにも明瞭だと見えるこのうそは、意図された欺瞞であったことだけで、あれほどにまで共有され、信じられたのではなかった。
 このうそは、20世紀に、ソヴィエト同盟がその歴史的伝説の一つだと想定される、民主主義的普遍主義を求める熱情に、遭遇したのだ。
 このことが理由となって、共産主義は、暴力や独裁に反対する勢力から狂信的に守られなければならなかった。//
 (3)普遍的なものを求めるこの熱情が我々の同時代人たちに対して及ぼした力に、私は衝撃を受けている。
 今日の豊かで平和な国々で、若い世代のための政治の大路は、人道主義(humanitarianism)だ。
 人間の諸権利は、階級闘争に置き代わった。そして今のところ、同一の目標、人間性の解放に役立っている。
 しかし私は、 それは政治を明晰に判断するのを回避するもう一つの路にすぎないのではないかと、不思議に思って(wonder)いる。//
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 第7章、終わり。