François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012) 
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 第6章・歴史家が追求した仕事(The Historian's Persuit)①。
 (1)〈幻想の終わり〉は一人の歴史家の著作で、状況、事態の推移、様相を扱う。
 しかし、私のこれを書いた究極的な理由は、かりにあるとしても、私を超えており、諸問題を未解明のまま残している。
 20世紀の民主主義的な人々によってもたらされた悲劇の性質や規模には、つねに、何か神秘的なものがあるだろう。
 歴史家は、ヴェルサイユ条約の諸条項や1929年の経済危機によって、ヒトラーの到来を説明することができる。しかし、この諸条項はナツィズムがドイツとヨーロッパの歴史に、例えばユダヤ人大虐殺に施した黙示書(apocalypse)であることを説明しない。
 私は、事実または事件が歴史家の知性に逆らうときには、反対のことで取り繕うよりはそのまま言った方がよい、と考える者の一人だ。//
 (2)私はつねに〈アナール学派(Annales)〉と複雑な関係をもってきた。
 Braudel が歴史—彼はこれが、とくに政治史が嫌いだ—の特徴を示すために用いる〈événementiel〉(事実的なもの、事件性)という考えはきわめて硬い(solid)とは、私は思わない。
 歴史家にとっての20世紀の魅力は、〈événementiel〉対〈structural〉(構造的)によってではなく、共産主義やナツィズムのごとき政治体制の新奇さや前例のなさによって説明することができる。
 我々はハイデッガー(Heidegger)とともに、歴史の舞台へのこれらの体制の登場は、「技術(technology)」の勝利と何らかの関係がある、と言えるだろう。それは、以前の専制体制は抑圧するためのそのような手段を有していなかった、ということを表現するためだ。
 しかし、これだけでは、問題を全て解消することにはならない。//
 (3)何か他のものが、全体主義体制の特質だ。すなわち、被抑圧者が専制者を日常的に愛好していると宣告するのを義務づけること。
 G・オーウェル(George Orwell)は、このことをまさに明瞭に書いた。
 ナポレオンのもとでとは、同じでない。邪心がないならば、体制の美点を毎朝に祝い、輝かしい将来の始まりだと考える必要はない。
 連帯意識、思想の共有を通じて常時再確認される社会的紐帯意識、これを伴う強迫観念(obsession)が、近代リベラリズムには内在している、と私は考える。
 リベラルな社会には、共通善というものはない。
 集団的道徳性というものも、ない。
 あるのは、共通善に関してどう考えようかと考えている、そしてある程度の自分たちの活動によってだけつながっている、個人たちだ。
 市民活動は、彼らの生存にとって最も重要ではない部分だ。
 20世紀の二つの全体主義は民主政治の必然的な産物ではなく、選択された産物だと、私は理解せざるを得ない。ホッブズ(Hobbes)以来ずっと諸文献が論じてきた恐るべき疑問に回答する、選択された産物なのだ。
 その疑問—かりに我々が自律的個人であるなら、社会をどうやって組成するのか?
 この疑問は、〈幻想の終わり〉のいたるところに、ふいに現れる。//
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 第6章①、終わり。