François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ⑤。
 〈 〉は原文中で、斜字体(イタリック)の部分であることを示す。この欄の他の「試訳」でも同じ。
 ——
 序文・第3節②。
 (8)<省略>
 (9)本書が以下で示すとくに興味深いのは、〈幻想の終わり〉についてのフュレの最終的な考察を全て集めていることだ。この書物は彼の最後の本であり、彼に国際的な高名をもたらした。
 かくして、この考察は、知的な遺書だと見なされ得る。
 政治的な遺書でもある。民主主義の将来に関する著者の最後の怖れを再び述べているからだ。
 この主題に関する多数の他の著作を考えれば、本当に新しいものはない。しかし、若干の補正部分を発見することはできる。その部分はこの考察に感動的な次元を与えている。
 さらに加えて、この考察には、〈幻想の終わり〉がつねに論評の対象だった数ヶ月のあいだにフュレが決まって用いていた表現が見られない。
 わずかな違いは看取し得る。自己批判の途を開いており、あの書物の中心にあった一定の章の調子を弱めている。
 我々は、ノルテ(Ernst Nolte)に関連していると見た。
 それを、この書の全体主義に関する節に認め得るだろう。すなわち、フュレはつねにこの観念には批判的な距離をおいていた。一定の著述者がこの観念で持ち込んでいる濫用ぶりと怠惰さに、気づいていたのだ。
 彼は、最後に意を決して、その観念へと戻る。//
 (10)これで、読者には助言が与えられた。
 編集された文章の全てがそうであるように、以下のページは直接に過去から来ているのではない。 
 <1文、略>
 一つの見方からすると、喪失を伴うがゆえに、<口語から文語への>変更は痛ましい。
 彼の言い回し、長く抑制されている肺結核の負担のある息使いは、彼の会話に特殊な調子を与えている。
 他方で、口語から文語への変化が必要とする批判的な荷重は、くだけた口語体の文章にはしばしば欠ける主題を明確にしている。
 編集者として、とりとめもなく不完全に書いてきた。
 このことを明確にしておくことで、私は困惑作成者ではなく〈文章の演出者〉だと見なされることを望んでいる。//
 ——
 序文、終わり。
 なお、この本の成り立ちのほかF・フュレはすでに故人であることが背景的理由の一つだと思われるが、フュレによる本文計81頁(後注を除く)に対して、以上の「序文」だけで計27頁もある。通常の書物に比べて、やや多すぎるだろう(以上、試訳者)。