François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
(The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ④。
——
「序文」第2節②。
(7〉どんな文章を、フュレは指し示したのか?
<3文、省略>
彼の第一の関心は、美しさがその内容の適切さから浮かび上がってくるような正しい言葉を見出すことにあった。
かくして、彼はインタビューの最初の部分で、「幻想」と「ウソ」という言葉に関して整理することになる。
「この二つの観念は重なり合っていない。ウソは策略のための意図的行為であり、幻想とは、想像に基づく熱情が発生させる過ちだからだ。
共産主義は、体系的なウソで成るものだ。例えば無知な観光者のために組織された旅行や、より一般的には運動において〈agi-prop〉(煽動的プロパガンダ)が果たした役割が証明しているように。だが、その主な力は何か別のものに由来する。つまり、20世紀の人々の政治的想像力に対する影響。
それは、ウソだけでは覆い隠すことのできない、共産主義がもつ神秘的な普遍性の根源にあるものだ。
私が研究したいのは、まさにこの側面だ。すなわち、信念(belief)の歴史。
この歴史を不思議なものにしているのは、(1) その信念が裁きの場としての「本当の(real)」歴史を認知していること、(2) それにもかかわらず、その信念はいわゆる「本当の」歴史によるきわめて激しい論難を生き延びた、ということだ。
要するに、歴史家は、悲劇へと接合された希望をどのようにすれば説明することができるのか?」
(8)第二の部分は、この最初の考察から容易に派生してくる。
フュレはかくして、政治的信念と宗教的信念の比較をすることをリクールに提案した。
このような試みをすることは、対話の順序の全体的な変更を意味した。最初のインタビューでは、かなり表面的な形式でのやりとりがあって初めて現れるだろうこの問題は、無視されていたのだから。
我々はここに、口頭での対話を生の素材だとフュレが理解していたことを知ることができる。その素材は、聴取者ではなく読者に提示する価値のある最終的な作品に変えられなければならないものだった。//
(9)そして、第三の段階へといたった。
二人の対話者はどちらも、分析を好んだ。フュレが十月の「魔法」と呼んだものについて彼は〈幻想の終わり〉の長くて密度の濃い章を使うことになるのだが、これが、会話の中心となった。
「これに関して言うと、一定の文脈から掴み出して、討論の筋を取り戻す問題にすぎない(例えば、我々があまりに早く通り過ぎている問題だが、民主主義文化における普遍的なものとナショナルなものの間の関係)。
この主題は、我々の議論の中核部分を構成する。」//
(10)「幻想」の検証から厳密に言えば「全体主義という観念、その射程と限界、の分析」へと進むのは容易だっただろう。
全体主義の観念はフュレには馴染みがないものだ。彼はこれをほとんど用いず、濫用を遺憾に思いつつ、この観念の利用を非難したくなるような政治的主題のあることを、しばしば指摘してきた。
この部分で彼は、予期されなくもなかったが、ナツィとソヴィエト体制の関係や民主主義的Modernity はむろんのこと、ナツィとソヴィエト体制の比較の可能性のような、多くの関連する問題を持ち出すことになる。
フュレはまた、Claud Lafort の全体主義権力に関するテーゼについての議論も予告した。そのテーゼでは、「多数の者を一つにすることによる集団的存在の中での、政治的団体思想への一種のギリシア芸術的回帰をしての、民主主義的諸個人の再統合」と把握される。//
(11)フュレはこう書いた。「不可欠の叡智を用いる」ポスト共産主義の民主主義の将来でもって、公刊されるインタビューは終えることができた、と。
こうした関心は、生涯の末でのフュレの「物悲しい」心の裡にあった。そして、リクールとの対話の間にしばしば浮かび上がったように見える。
フュレの死の数週間前、1997年に撮られたインタビューの映像で、哲学者(リクール)は二つの全体主義の比較へと、そして彼が「留保」していた観念へと、戻っている。
リクールにとって、二つのユートピアは、それらが採用した手段に多くの類似性はあるけれども、「比較不能な」ものだ。
そして、西側文明を組成した偉大なるユートピアを殺してしまうことで、啓蒙主義的な楽観的見方は人類に未来を残さないäままで終焉した、とフュレは正しく考えてきた、と語って、リクールはフュレとの対話を再開していた。
それ以降、民主主義によって惹起された革命的熱情は、いったいどうなったのか? 民主主義はいつも手続き的で、その熱情を満足させられなかった。
二人がやり取りした文通には、この疑問が漂っていた、とリクールは肯定した。—悲しくも不完全になった—その文通はインタビューの書物化を準備していた数ヶ月のあいだ行われたが、その書物は日の目を見ることがなかった。//
——
序文・第2節②、終わり。
(The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ④。
——
「序文」第2節②。
(7〉どんな文章を、フュレは指し示したのか?
<3文、省略>
彼の第一の関心は、美しさがその内容の適切さから浮かび上がってくるような正しい言葉を見出すことにあった。
かくして、彼はインタビューの最初の部分で、「幻想」と「ウソ」という言葉に関して整理することになる。
「この二つの観念は重なり合っていない。ウソは策略のための意図的行為であり、幻想とは、想像に基づく熱情が発生させる過ちだからだ。
共産主義は、体系的なウソで成るものだ。例えば無知な観光者のために組織された旅行や、より一般的には運動において〈agi-prop〉(煽動的プロパガンダ)が果たした役割が証明しているように。だが、その主な力は何か別のものに由来する。つまり、20世紀の人々の政治的想像力に対する影響。
それは、ウソだけでは覆い隠すことのできない、共産主義がもつ神秘的な普遍性の根源にあるものだ。
私が研究したいのは、まさにこの側面だ。すなわち、信念(belief)の歴史。
この歴史を不思議なものにしているのは、(1) その信念が裁きの場としての「本当の(real)」歴史を認知していること、(2) それにもかかわらず、その信念はいわゆる「本当の」歴史によるきわめて激しい論難を生き延びた、ということだ。
要するに、歴史家は、悲劇へと接合された希望をどのようにすれば説明することができるのか?」
(8)第二の部分は、この最初の考察から容易に派生してくる。
フュレはかくして、政治的信念と宗教的信念の比較をすることをリクールに提案した。
このような試みをすることは、対話の順序の全体的な変更を意味した。最初のインタビューでは、かなり表面的な形式でのやりとりがあって初めて現れるだろうこの問題は、無視されていたのだから。
我々はここに、口頭での対話を生の素材だとフュレが理解していたことを知ることができる。その素材は、聴取者ではなく読者に提示する価値のある最終的な作品に変えられなければならないものだった。//
(9)そして、第三の段階へといたった。
二人の対話者はどちらも、分析を好んだ。フュレが十月の「魔法」と呼んだものについて彼は〈幻想の終わり〉の長くて密度の濃い章を使うことになるのだが、これが、会話の中心となった。
「これに関して言うと、一定の文脈から掴み出して、討論の筋を取り戻す問題にすぎない(例えば、我々があまりに早く通り過ぎている問題だが、民主主義文化における普遍的なものとナショナルなものの間の関係)。
この主題は、我々の議論の中核部分を構成する。」//
(10)「幻想」の検証から厳密に言えば「全体主義という観念、その射程と限界、の分析」へと進むのは容易だっただろう。
全体主義の観念はフュレには馴染みがないものだ。彼はこれをほとんど用いず、濫用を遺憾に思いつつ、この観念の利用を非難したくなるような政治的主題のあることを、しばしば指摘してきた。
この部分で彼は、予期されなくもなかったが、ナツィとソヴィエト体制の関係や民主主義的Modernity はむろんのこと、ナツィとソヴィエト体制の比較の可能性のような、多くの関連する問題を持ち出すことになる。
フュレはまた、Claud Lafort の全体主義権力に関するテーゼについての議論も予告した。そのテーゼでは、「多数の者を一つにすることによる集団的存在の中での、政治的団体思想への一種のギリシア芸術的回帰をしての、民主主義的諸個人の再統合」と把握される。//
(11)フュレはこう書いた。「不可欠の叡智を用いる」ポスト共産主義の民主主義の将来でもって、公刊されるインタビューは終えることができた、と。
こうした関心は、生涯の末でのフュレの「物悲しい」心の裡にあった。そして、リクールとの対話の間にしばしば浮かび上がったように見える。
フュレの死の数週間前、1997年に撮られたインタビューの映像で、哲学者(リクール)は二つの全体主義の比較へと、そして彼が「留保」していた観念へと、戻っている。
リクールにとって、二つのユートピアは、それらが採用した手段に多くの類似性はあるけれども、「比較不能な」ものだ。
そして、西側文明を組成した偉大なるユートピアを殺してしまうことで、啓蒙主義的な楽観的見方は人類に未来を残さないäままで終焉した、とフュレは正しく考えてきた、と語って、リクールはフュレとの対話を再開していた。
それ以降、民主主義によって惹起された革命的熱情は、いったいどうなったのか? 民主主義はいつも手続き的で、その熱情を満足させられなかった。
二人がやり取りした文通には、この疑問が漂っていた、とリクールは肯定した。—悲しくも不完全になった—その文通はインタビューの書物化を準備していた数ヶ月のあいだ行われたが、その書物は日の目を見ることがなかった。//
——
序文・第2節②、終わり。