François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
(The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ③。
——
「序文」第2節。
(1)ノルテとフュレが歩んだ途の交錯が全くの驚きではないとすれば、フュレと哲学者のポール・リクール(Paul Ricoeur)の遭遇は、さらに予期され得ないものだった。
たしかにこの二人のフランスの学者は、ともにシカゴ大学と関係があり、リクールは1970年以降、フュレは1980年以降、この大学で定期的に教えていた。
しかしながら、この近接さだけでは結果を生まなかった。
二人は大学で会っていたけれども、交際関係はなかった。
彼らの知的および政治的行路が遠く離れているということはなかった。
彼らの仕事の内容が全く似ていないということもなかった。
そして二人は際限のない好奇心をもつ知識人だったけれども、誰も二人は異なる感受性または関心の対象をもっているとは考えなかっただろう。//
(2)フュレとリクールが1989年3月4日に出会った証拠はある。その日、フュレはフランス革命に関する歴史叙述の変化についてSociété française de philosophie で講演をしていた。
討議の中で—注目すべきことに、Maurics de Gandillac、Andre Sernin、Jacques Merleau Ponty も参加していた—、リクールはつぎのように質問した。
「<省略—試訳者>」
フュレの回答は簡潔だったが、哲学者の仕事からするといくぶん陳腐だったとしても、褒め言葉を含んでいた。
「あなたの書物に、とくにそこに示されている規律についてのあなたの考えに、歴史家たちは何と多大な関心を寄せてきたことでしょうか。」
フュレは残りの時間を、若干の文章で反応した。フランス革命史でDenis Richet とともに展開した分析にある修正を付けて。会話は終わった。//
(3)フュレとリクールが一緒に語り合い、共産主義の世紀の検証に取りかかるには、いくばくかの奇跡が必要だった。
それは哲学者のFrançois Azoubi から生まれることになる。当時、Calmann-Levi の編集者だった。Robert Laffont のほか、この出版社によって、フュレは〈幻想の終わり〉の成功を獲得した。
同じ年にポール・リクールによるインタビュー・シリーズである〈La critique et la convention〉を刊行していたので、Azoubi は、哲学者と歴史家の同様の遭遇を企画しようとした。
フュレの本の重要さ、その稀に見る成功、その性質—歴史と哲学の中間—からすれば、ポール・リクールのような哲学者の注目を惹かないはずはなかっただろう。リクールは、思考と著述の方法に関して、歴史家たちに絶えず問いかける人物だった。
Azoubi は、リクールが〈幻想の終わり〉を賞賛しているのを聞いた。リクールはその書物を、ペンを手に取りながら読んでいた。//
(4)さらに、フュレの大著は、歴史家や自分自身の著作について叙述する際に、リクールが依拠することできるような類のものではなかった。
それとは反対に、歴史認識というのは、フュレが科学的な考察をしようとはほとんどしなかった、むしろ懐疑的なものだった。
だがなお、〈幻想の終わり〉はリクールの書棚の目立つ場所に置かれており、その書物の数十頁には彼自身の手によるメモが書かれていた。
そうした頁には、率直な興奮の中に、疑問をもっての当惑も見られた。
「どうしてこんなに断定的なのか?」
「歴史的論拠は本当に十分なのか?」
「どんな種類の歴史なのか?」
「Pensr la Revolution française に関係」
「イデオロギー的熱情の盟約」
「だが、この終結で全部なのか?」
「ブルジョアの素晴らしい素描」、等々。//
(5)フュレとリクールの会話は、1996年5月27日に行われた。
それは録音された。—テープは保存されなかったけれども。そしてすぐに、文字に起こされた。
この最初の対談の痕跡は、Ecole des hautes etudes en sciences sociales(EHESS)のCentre d'etudes sociologiques et politiques Raymond Aron(CESPRA)のフュレ資料庫に残っている。
最初の状態では公刊できないもので、体系的でなく、話し言葉ばかりで、多くを草稿化することが望ましかった。しかし、たぶん編集者だったAzoubi によると、将来の見込みが十分にあった。
こうして、フュレとリクールは対談をできるだけすみやかに再開するよう、要請された。
「François Azoubi は我々が会話をつづけて深化せることに賛成でした。このことで少なくとも、あなたとも一度、この冬に会うことが愉しみになりました。」(フュレ)
すぐれた二人の知識人は忙しい生活を送っていたので、関係文書は数ヶ月の間、閉じられたままだった。
再び開けられたのはつぎの春で、1997年3月19日に二人は再会した。//
(6)その数日前の3月6日、フュレは対話者(リクール)に手紙を送った。
この手紙は、言葉のやり取りの仕方を設定しようとし、素材を改めて調整することを提案していた。
実際的に見ると、これは、録音から文字起こしした文書から、くだけた部分を全部削除することを意味していた。
フュレが怖れた、間違って選んだ表現はむろんのこと、曖昧で自然に任せた部分は全て、思考が進行する動きを反映した構成をもつ、滑らかでよくこなれた文章に置き換えられなければならなかった。
これは、とても興味深い手紙だ。口頭での言葉を書き言葉に変える作業を率直に明らかにしている。また、フュレがほとんど下品はお喋りだと考えたものを公にすることを歴史家や哲学者が受容しなければならないことの一種の暴露または欺瞞すらも、明らかにしている。
フュレは、9月22日に、リクールにあててこう書いた。
「こうした頁を読むとき、ぞっとするでしょう(私が語った言葉の全ての間違いのゆえにです)。」
以下が示しているように、フュレの厳格さは過剰なものだった。//
——
第2節②へとつづく。
(The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ③。
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「序文」第2節。
(1)ノルテとフュレが歩んだ途の交錯が全くの驚きではないとすれば、フュレと哲学者のポール・リクール(Paul Ricoeur)の遭遇は、さらに予期され得ないものだった。
たしかにこの二人のフランスの学者は、ともにシカゴ大学と関係があり、リクールは1970年以降、フュレは1980年以降、この大学で定期的に教えていた。
しかしながら、この近接さだけでは結果を生まなかった。
二人は大学で会っていたけれども、交際関係はなかった。
彼らの知的および政治的行路が遠く離れているということはなかった。
彼らの仕事の内容が全く似ていないということもなかった。
そして二人は際限のない好奇心をもつ知識人だったけれども、誰も二人は異なる感受性または関心の対象をもっているとは考えなかっただろう。//
(2)フュレとリクールが1989年3月4日に出会った証拠はある。その日、フュレはフランス革命に関する歴史叙述の変化についてSociété française de philosophie で講演をしていた。
討議の中で—注目すべきことに、Maurics de Gandillac、Andre Sernin、Jacques Merleau Ponty も参加していた—、リクールはつぎのように質問した。
「<省略—試訳者>」
フュレの回答は簡潔だったが、哲学者の仕事からするといくぶん陳腐だったとしても、褒め言葉を含んでいた。
「あなたの書物に、とくにそこに示されている規律についてのあなたの考えに、歴史家たちは何と多大な関心を寄せてきたことでしょうか。」
フュレは残りの時間を、若干の文章で反応した。フランス革命史でDenis Richet とともに展開した分析にある修正を付けて。会話は終わった。//
(3)フュレとリクールが一緒に語り合い、共産主義の世紀の検証に取りかかるには、いくばくかの奇跡が必要だった。
それは哲学者のFrançois Azoubi から生まれることになる。当時、Calmann-Levi の編集者だった。Robert Laffont のほか、この出版社によって、フュレは〈幻想の終わり〉の成功を獲得した。
同じ年にポール・リクールによるインタビュー・シリーズである〈La critique et la convention〉を刊行していたので、Azoubi は、哲学者と歴史家の同様の遭遇を企画しようとした。
フュレの本の重要さ、その稀に見る成功、その性質—歴史と哲学の中間—からすれば、ポール・リクールのような哲学者の注目を惹かないはずはなかっただろう。リクールは、思考と著述の方法に関して、歴史家たちに絶えず問いかける人物だった。
Azoubi は、リクールが〈幻想の終わり〉を賞賛しているのを聞いた。リクールはその書物を、ペンを手に取りながら読んでいた。//
(4)さらに、フュレの大著は、歴史家や自分自身の著作について叙述する際に、リクールが依拠することできるような類のものではなかった。
それとは反対に、歴史認識というのは、フュレが科学的な考察をしようとはほとんどしなかった、むしろ懐疑的なものだった。
だがなお、〈幻想の終わり〉はリクールの書棚の目立つ場所に置かれており、その書物の数十頁には彼自身の手によるメモが書かれていた。
そうした頁には、率直な興奮の中に、疑問をもっての当惑も見られた。
「どうしてこんなに断定的なのか?」
「歴史的論拠は本当に十分なのか?」
「どんな種類の歴史なのか?」
「Pensr la Revolution française に関係」
「イデオロギー的熱情の盟約」
「だが、この終結で全部なのか?」
「ブルジョアの素晴らしい素描」、等々。//
(5)フュレとリクールの会話は、1996年5月27日に行われた。
それは録音された。—テープは保存されなかったけれども。そしてすぐに、文字に起こされた。
この最初の対談の痕跡は、Ecole des hautes etudes en sciences sociales(EHESS)のCentre d'etudes sociologiques et politiques Raymond Aron(CESPRA)のフュレ資料庫に残っている。
最初の状態では公刊できないもので、体系的でなく、話し言葉ばかりで、多くを草稿化することが望ましかった。しかし、たぶん編集者だったAzoubi によると、将来の見込みが十分にあった。
こうして、フュレとリクールは対談をできるだけすみやかに再開するよう、要請された。
「François Azoubi は我々が会話をつづけて深化せることに賛成でした。このことで少なくとも、あなたとも一度、この冬に会うことが愉しみになりました。」(フュレ)
すぐれた二人の知識人は忙しい生活を送っていたので、関係文書は数ヶ月の間、閉じられたままだった。
再び開けられたのはつぎの春で、1997年3月19日に二人は再会した。//
(6)その数日前の3月6日、フュレは対話者(リクール)に手紙を送った。
この手紙は、言葉のやり取りの仕方を設定しようとし、素材を改めて調整することを提案していた。
実際的に見ると、これは、録音から文字起こしした文書から、くだけた部分を全部削除することを意味していた。
フュレが怖れた、間違って選んだ表現はむろんのこと、曖昧で自然に任せた部分は全て、思考が進行する動きを反映した構成をもつ、滑らかでよくこなれた文章に置き換えられなければならなかった。
これは、とても興味深い手紙だ。口頭での言葉を書き言葉に変える作業を率直に明らかにしている。また、フュレがほとんど下品はお喋りだと考えたものを公にすることを歴史家や哲学者が受容しなければならないことの一種の暴露または欺瞞すらも、明らかにしている。
フュレは、9月22日に、リクールにあててこう書いた。
「こうした頁を読むとき、ぞっとするでしょう(私が語った言葉の全ての間違いのゆえにです)。」
以下が示しているように、フュレの厳格さは過剰なものだった。//
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第2節②へとつづく。