フランソワ.フュレ、うそ・情熱・幻想。
 =François Furet, Lies, Passions & Illusions —The Democtratic Imagination in the 20 th Century.
 (The University of Chicago Press/Chicago & London、2014/原仏語書、2012)
 序文—フランソワ・フュレとポール・リクール(Paul Ricoeur)/Christophe Prochasson ②。
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 (6)この成功の理由を、どう説明することができるか?
 共産主義について明らかにすべきことは、大して多くは残っていなかった。
 反共産主義文学の偉大な伝統を支えた気持ちの悪い記録は、もう消え去ったように思われた。
 フュレの貢献は、弾劾にあるのではなかった。
 彼もまた、前の世代の共産主義経験はつぎの世代のためには何のためにもなっておらず、同じ幻想を抱かせることはないことを知っていたし、しばしば悔恨をもって肯定した。
 じつにこのことこそがその書物の目的だったのだから。目的は、歴史の叙述をすることではなく、20世紀の共産主義思想が作り出した革命的熱情の力強さを説明することにあった。
 非難することではなく、理解することだった。
 諸現象、というよりもむしろ共産主義の消失の「謎(enigma)」の対象化が、この書物を有用にしたものであり、結論を異にする人々にとってはひどく苛立たせるものだった。//
 (7)こうした視覚からの著作が好ましく受けとめられたことには、たしかに、20年前にSolzhenitsyn の〈The Gulag Archipelago(収容所群島)〉が華々しい成功を収めたのに似た状況が有利に働いていた。
 二つの書物には一世代の違いはあるが、同じイデオロギー上の潮流に属している。
 共産主義を捨て去っていく長い過程は1970年代半ばまでには始まっており、通常は知識人界に含まれるいくつかの個人の集団ばかりではなく広く「左翼(Left-Wingers)」階層全体に影響を与えていた。その過程は、世紀の終焉とともに終わった。
 フランソワ・フュレが関心を持ったのは、この最終的な段階だった。
 彼の書物は死亡確認書であるとともに、解剖診断書でもある。
 激情が彼の大胆さを正当化している。犯罪科学の外科医には、死体を無慈悲に扱うことが許されているように。
 ナツィズムと共産主義の比較、さらに悪いことにこれら二つに共通するように見える頑迷な思考方法こそが、フュレが最も挑発的に論争対象にしようとしたものだった。
 (8)この点で多くの者は、ファシズムに関する三巻の大著の著者であるドイツの歴史家のエルンスト・ノルテ(Ernst Nolte)との対話を行なったとして、フュレを非難した。
 ノルテがドイツの右翼(Right)と親近的だったことは、彼(ノルテ)をほとんど異端者にした。とくに、国家社会主義とファシズムについてのドイツの歴史家たちが対立した1980年代の〈歴史家論争〉以降のことだが。
 ナツィズム、ファシズム、および共産主義の比較可能性は、ノルテが最も論争主題としたもの一つだった。
 フュレは、この種の禁忌に煩わされるような人物ではなかった。彼にはつねに、その見解ではとくに左翼は安易すぎるとして、知識人の知的順応性を批判する用意があったのだ。
 〈歴史家論争〉はおそらく、彼自身のフランス革命解釈をめぐっての騒然とした歴史的かつ政治的な論争を、生々しく思い起こさせるものだったに違いない。//
 (9)彼は、〈幻想の終わり〉の長い脚注の中で初めて、ノルテに対する異論を明らかにした。それは、その書物にはほとんど脚注がないことからしても、驚くべきことだった。
 彼は、20世紀の二つの形態の全体主義を並置させるのを禁じる、歴史の「反ファシスト」解釈を打ち破ったことについてノルテを称賛しつつも、ノルテによる反ユダヤ主義(anti-Semitism)の解釈には同意できないと表明した。
 フュレによると、ナツィの反ユダヤ主義を「理性的」に正当視するのは、きわめて「衝撃的でかつ間違った」ものだった。//
 (10)イタリアの雑誌の〈Liberal〉が、遠く隔たっている二人の主唱者が手紙を交換したらどうかと提案した。
 二人の歴史家は、1995年の末から書簡交換を始め、1996年じゅうずっと続いた。
 各手紙は、フランスの〈Commentaire〉とイタリアの〈Liberal〉で、1997年のあいだに公表された。
 文通の全体はイタリアで同年に公刊されたのだが、二人はその数ヶ月前の1996年に、ナポリのFondazione Ugo Spirito で開かれた会合で初めて出会った。
 彼ら二人は、1997年6月にナポリで開催されたリベラリズムに関する会合で、もう一度だけ逢うことになる。それは、7月12日のフュレの突然の死の、わずか数週間前のことだった。//
 (11)フュレはおそらく、この議論の後半でしばしば文通の相手に対して、フランス革命の歴史家は動揺している、または最終的には保守的立場へと転じた、という印象を与えたことを後悔していただろう。
 いずれにせよ、(本書で)つづくインタビューを読むと、フュレがノルテと遭遇したことが影響を与えている部分をいくつか看取することができる。ちなみに、ポール・リクール(Paul Ricoeur)は、ノルテと書簡交換したことを、少しも咎めてはいない。
 このインタビューは、ノルテとの遭遇を正当化する最後の機会だったように見える。
 フュレは威嚇されたのではない。それにもかかわらず、自分の選択に責任を取っている。——死の数日前に彼がノルテに書き送った最後の手紙で、リベラリズムに関するノルテの歴史的分析の「幅広さと聡明な寛容さ」を称賛した。——彼はときおり、苦い味が残ったと感じていた。//
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 「序文」第1節、終わり。