Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
=O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
——
第四部・内戦とソヴィエト体制の形成(1918-1924)…第12章〜第16章。
第15章/勝利の中の敗北。
第2節・人間の精神の技師⑤。
(18)革命の「夢想家たち」(dreamers)は、新しい芸術形式とともに、社会生活の新しい形態についても実験をしようとしていた。
これもまた人類(mankind)の本性を変えるために利用できる、と想定されていた。いや、正確に書けば、女性人類(womankind)のそれも。//
(19)女性解放は、新しい集団的生活の重要な側面だった。党の指導的なフェミニストたち—Kollontai、Armand、Balabanoff—が予想したように。
地域共同の食事室、洗濯場、保育室は退屈な家事労働から女性たちを解放し、革命での積極的な役割を与えることができるだろう。
あるソヴィエトのポスターには、「ロシアの女性たち、鍋を投げ棄てよ!」と書かれていた。
婚姻、離婚、堕胎に関する法制のリベラルな改革によって「ブルジョア的」家族は次第に解体され、女性たちを夫たちの専制から解放する、と想定された。
1919年に設置された党中央委員会書記局女性部(Zhenotdel)は、女性たちを地方の政治的業務に動員して教育的情報宣伝をすることで、「女性を再様式化 (refashion)」することを任務とした。
1920年のArmand の死によって書記局女性部長になっていたKollontai もまた、女性を解放するために性の革命を主張した。
彼女は、二人の対等な仲間としての男女間の「自由恋愛」や「エロティックな友情」を説き、女性たちを「婚姻という隷従」から、両性を一夫一婦制の重みから、解放しようとした。
これは、長く継続した夫や愛人たちとともに彼女自身が実践してきた哲学だった。夫や愛人の中には、1917年に結婚した17歳年長のボルシェヴィキ軍人のDybenko がおり、とりわけ、1930年代に在Stockholmの(最初かつ女性唯一の)ソヴィエト大使として彼女を採用したスウェーデン国王がいた。//
(20)Kollontai は、社会福祉人民委員として、この新しい性的関係の条件づくりをしようとした。
売春を撲滅し、子ども手当を増大させる試みがなされたが、どちらの分野でも、内戦中はほとんど進展がなかった。
不幸なことに、いくつかの地方人民委員部は、Kollontai の仕事を導入する意味を理解することができなかった。
例えばSaratow では、地方福祉部署は「女性の国有化に関する布令」を発した。これは婚姻を廃止して、公認の売春宿で性的要求を充たす権利を男たちに与えるものだった。
Kollontai の部下たちはVladimir に「自由恋愛事務局」を設置し、18歳から50歳までの全ての未婚の女性たちに彼女たちの性的交際相手を選択して登録することを義務づける布告を発した。
この布告は、18歳以上の全ての女性は「国有財産」であり、男たちに「事態の利益」に応じた生殖行為のために、彼女たちの同意がなくても登録した女性を選択する権利を与えた。(25)//
(21)Kollontai の仕事のほとんどは、現実には理解されなかった。
性的革命という彼女の展望は多くの点できわめて理想主義的だったが、一方で現実には、1917年以降のロシアじゅうを風靡した乱れた性的関係と道徳的アナーキーを促進しているものと広く受けとめられた。
レーニンはこのような問題に時間を割く余裕がなかった。そして、彼自身は上品ぶる人物で、Kollontai によるものとされた性的問題に関する「一杯の水」論—共産主義社会では、人の性的欲求の充足は一杯の水を飲むことのように率直で正直なものでなければならない—を「完全に非マルクス主義的」だと非難した。
レーニンはこう書いた。「確かに、渇きは癒されなければならない。しかし、ふつうの人間が排水溝で横たわってその水溜まりで水を飲もうとするだろうか?」
地方のボルシェヴィキたちは「女仕事」を軽侮していて、
Zhenotdel(党書記局女性部)のことを(農民の妻の意味の「baba」から)「babotdel」と呼んだ。
女性たち自身も、とくに男性優位的考えが依然としてあった農村部では、性的解放という理想に懐疑的だった。
多くの女性たちは、地域の共同保育室は自分たちの子どもを奪い去って国家の孤児にしてしまうのでないか、と怖れた。
彼女たちは、1918年の離婚自由化法は男性が彼らの妻や子どもたちに対する責任から免れるのを容易にしただけだ、と不満を言った。
統計も彼女たちを支持していた。
1920年代初頭までに、ロシアの離婚率はヨーロッパで抜群の高さに達した。ーブルジョア的ヨーロッパの26倍になった。
労働者階級の女性たちは、Kollontai が説いた自由な性的関係に強く反対し、男たちが自分たちを粗末に扱う公認書を与えるようなものだと見なした。
彼女たちがより大きな価値を置いたのは農民家庭の家計に根ざした旧様式の結婚観念であり、その家計とは家庭を維持するための労働を両性で分け合う共同経営だった。(26)
(22)レーニンが同意しなかったのは性的問題だけではなかった。
彼は芸術問題について、19世紀のブルジョアと全く同様に保守的だった。
レーニンには、アヴァンギャルドのための時間はなかった。
彼はその前衛芸術の革命上の地位は社会主義の伝統を<嘲って歪曲するもの〉だと考えていた。
四頭の象の上に立つマルクス像建立が企画されたとき、レーニンは激怒した。また、mayakovsky の有名な詩の「15億人」を「とても無意味で愚かな馬鹿さかげんと自惚れ」だとして却下した(多数の読者は同意するかもしれない)。
レーニンは、内戦が終わると、Proletkult の活動を立ち入って検討した。ーそして、閉鎖することに決定した。
1920年の秋に、それに対する財政援助が劇的に削減された。
Bogdanov は指導部から解任され、レーニンはその原理的考え方に対する攻撃を始めた。
ボルシェヴィキ党指導者は、Proletkult の因襲打破的偏見に苛立ち、過去の文化的成果を基礎にして形成していく必要を強調した。また、それがもつ自立性によって政治的脅威は大きくなると判断した。
彼が見たのは、Proletkult はBogdanov 一派だ、ということだった。
確かにProletkult は労働者反対派と多くの点で共通しており、「ブルジョア専門家」の雇用によりまだ示されているようなブルジョアジーの文化的主導性を打倒する必要を強調した。そしてじつに、NEP の直後でもそうしていた。
この意味では、Proletkult の反ブルジョア感情とスターリン自身の「文化革命」との間には直接の連結関係があった。
レーニンの目からすると、Proletkult の閉鎖はNEP への移行のための不可欠の要素だった。
NEP は経済分野でのテルミドールだったが、「ブルジョア芸術」に対する闘争のこの中断は、文化分野でのそれだった。
どちらの由来も、ロシアのような後進国では古い文化の成果は維持されなければならず、その基礎の上に社会主義社会は建設される、という認識にあった。
共産主義への近道などは存在しないのだ。//
(23〉レーニンはこの時期に、「文化革命」の必要性について何度も執筆した。
彼は、労働者国家を生むだけでは十分でない、と論じた。社会主義への長い移行のための文化的条件もまた、生み出さなければならない。
文化革命という概念で彼が強調したのは、プロレタリアの文学や芸術ではなく、プロレタリアの科学と技術だった。
Proletkult は芸術を人間の解放の手段として位置づけたのに対して、レーニンは、科学こそを人間の変革の手段だと見た。人間の変革とは、人々を国家の「歯車」に変えることだ。(*)
〈 (*)原書注記ースターリンはしばしば、人々は国家という巨大な機械の「歯車」(vintiki)だと述べた。〉
レーニンは、「悪質で」「識字能力のない」労働者たちが「資本主義の文化で教育される」ことを—そして技能をもち紀律のある労働者となって子供を技術学校へ通わせることを—望んだ。そうすれば、社会主義への移行に際してこの国の後進性を克服できるだろう(27)。
ボルシェヴィズムとは、近代化のための戦略でないとすれば、何物でもなかった。//
(24)レーニンが入念な科学的訓練の必要を強調したことは、1920-21年の間の教育政策の変化を反映していた。
ボルシェヴィキは、教育を人間の変革の主要な道筋だと見なした。学校や子供たちと青年のための共産主義同盟(Pioneer とKommsomol〉を通じて、次の世代へと新しい集団的生活様式が教え込まれるだろう。
ソヴィエトの教育の率先者の一人だったLitina Zinoviev が、1918年の公教育大会で、こう宣言したとおりだ。/
「我々は、若い世代を共産主義の世代へと作り込まなければならない。
子どもたちは柔らかい蝋のごとくきわめて柔軟かつ従順であって、良い共産主義者へと鋳造されるに違いない。……
我々は、家庭生活の有害な影響から子どもたちを救わなければならない。……
我々は、彼らを国有化(natinalize)しなければならない。
小さな生命の最も早い時期から、共産主義の学校の愛情溢れた影響のもとにいることを知らなければならない。
彼らは、共産主義のABCを学習するだろう。……
母親に子どもをソヴィエト国家に捧げることを義務づけること—これが我々の任務だ。」//
(25)ソヴィエト式学校の基本的モデルは、1918年に設立された統合労働学校(Unified Labour School)だった。
この学校は、子どもたち全員に対して14歳になるまで自由な普通教育を与えることを意図していた。
しかしながら、内戦による実際的な困難があったため、その目的は現実にはごく僅かの学校で達成されたにすぎなかった。
1920年に多数のボルシェヴィキ党員と労働組合指導者たちは、幼年期から職業訓練を行う限定された制度づくりを主張し始めた。
彼らは、トロツキーの軍事化計画の影響を受けて、教育制度を経済的需要に従属させる必要を強調した。ロシアには熟達した技術者が必要であり、それを生み出すのは学校の仕事だ、と。
Lunachartsky はこれに反対し、この主張は自分がVpered 主義者だった時代から追求してきた革命の人間中心主義的目標を放棄する誘因となる、と見なした。
彼はこう主張した。
労働者の名のもとで権力を奪取したボルシェヴィキは、「産業の支配人」になれる知識人のレベルにまで引き上げる子どもたちの教育を強いられている。だが、見習う前に読み書きの仕方を教えるだけでは十分ではない。
そうすれば、資本主義の階級分化、知識をもつという力により分離される支配人と男たちの文化を再生産してしまうだろう。
Lunachartsky の力により、1918年の科学技術の考え方は基本的には維持された。
しかし、実際には、狭い職業訓練教育の考え方が増大した。それによって子どもたちは、とくに孤児たちは、9歳か10歳の早い時期から工場の実習生になることを強いられた。//
——-
⑥へとつづく。
=O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
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第四部・内戦とソヴィエト体制の形成(1918-1924)…第12章〜第16章。
第15章/勝利の中の敗北。
第2節・人間の精神の技師⑤。
(18)革命の「夢想家たち」(dreamers)は、新しい芸術形式とともに、社会生活の新しい形態についても実験をしようとしていた。
これもまた人類(mankind)の本性を変えるために利用できる、と想定されていた。いや、正確に書けば、女性人類(womankind)のそれも。//
(19)女性解放は、新しい集団的生活の重要な側面だった。党の指導的なフェミニストたち—Kollontai、Armand、Balabanoff—が予想したように。
地域共同の食事室、洗濯場、保育室は退屈な家事労働から女性たちを解放し、革命での積極的な役割を与えることができるだろう。
あるソヴィエトのポスターには、「ロシアの女性たち、鍋を投げ棄てよ!」と書かれていた。
婚姻、離婚、堕胎に関する法制のリベラルな改革によって「ブルジョア的」家族は次第に解体され、女性たちを夫たちの専制から解放する、と想定された。
1919年に設置された党中央委員会書記局女性部(Zhenotdel)は、女性たちを地方の政治的業務に動員して教育的情報宣伝をすることで、「女性を再様式化 (refashion)」することを任務とした。
1920年のArmand の死によって書記局女性部長になっていたKollontai もまた、女性を解放するために性の革命を主張した。
彼女は、二人の対等な仲間としての男女間の「自由恋愛」や「エロティックな友情」を説き、女性たちを「婚姻という隷従」から、両性を一夫一婦制の重みから、解放しようとした。
これは、長く継続した夫や愛人たちとともに彼女自身が実践してきた哲学だった。夫や愛人の中には、1917年に結婚した17歳年長のボルシェヴィキ軍人のDybenko がおり、とりわけ、1930年代に在Stockholmの(最初かつ女性唯一の)ソヴィエト大使として彼女を採用したスウェーデン国王がいた。//
(20)Kollontai は、社会福祉人民委員として、この新しい性的関係の条件づくりをしようとした。
売春を撲滅し、子ども手当を増大させる試みがなされたが、どちらの分野でも、内戦中はほとんど進展がなかった。
不幸なことに、いくつかの地方人民委員部は、Kollontai の仕事を導入する意味を理解することができなかった。
例えばSaratow では、地方福祉部署は「女性の国有化に関する布令」を発した。これは婚姻を廃止して、公認の売春宿で性的要求を充たす権利を男たちに与えるものだった。
Kollontai の部下たちはVladimir に「自由恋愛事務局」を設置し、18歳から50歳までの全ての未婚の女性たちに彼女たちの性的交際相手を選択して登録することを義務づける布告を発した。
この布告は、18歳以上の全ての女性は「国有財産」であり、男たちに「事態の利益」に応じた生殖行為のために、彼女たちの同意がなくても登録した女性を選択する権利を与えた。(25)//
(21)Kollontai の仕事のほとんどは、現実には理解されなかった。
性的革命という彼女の展望は多くの点できわめて理想主義的だったが、一方で現実には、1917年以降のロシアじゅうを風靡した乱れた性的関係と道徳的アナーキーを促進しているものと広く受けとめられた。
レーニンはこのような問題に時間を割く余裕がなかった。そして、彼自身は上品ぶる人物で、Kollontai によるものとされた性的問題に関する「一杯の水」論—共産主義社会では、人の性的欲求の充足は一杯の水を飲むことのように率直で正直なものでなければならない—を「完全に非マルクス主義的」だと非難した。
レーニンはこう書いた。「確かに、渇きは癒されなければならない。しかし、ふつうの人間が排水溝で横たわってその水溜まりで水を飲もうとするだろうか?」
地方のボルシェヴィキたちは「女仕事」を軽侮していて、
Zhenotdel(党書記局女性部)のことを(農民の妻の意味の「baba」から)「babotdel」と呼んだ。
女性たち自身も、とくに男性優位的考えが依然としてあった農村部では、性的解放という理想に懐疑的だった。
多くの女性たちは、地域の共同保育室は自分たちの子どもを奪い去って国家の孤児にしてしまうのでないか、と怖れた。
彼女たちは、1918年の離婚自由化法は男性が彼らの妻や子どもたちに対する責任から免れるのを容易にしただけだ、と不満を言った。
統計も彼女たちを支持していた。
1920年代初頭までに、ロシアの離婚率はヨーロッパで抜群の高さに達した。ーブルジョア的ヨーロッパの26倍になった。
労働者階級の女性たちは、Kollontai が説いた自由な性的関係に強く反対し、男たちが自分たちを粗末に扱う公認書を与えるようなものだと見なした。
彼女たちがより大きな価値を置いたのは農民家庭の家計に根ざした旧様式の結婚観念であり、その家計とは家庭を維持するための労働を両性で分け合う共同経営だった。(26)
(22)レーニンが同意しなかったのは性的問題だけではなかった。
彼は芸術問題について、19世紀のブルジョアと全く同様に保守的だった。
レーニンには、アヴァンギャルドのための時間はなかった。
彼はその前衛芸術の革命上の地位は社会主義の伝統を<嘲って歪曲するもの〉だと考えていた。
四頭の象の上に立つマルクス像建立が企画されたとき、レーニンは激怒した。また、mayakovsky の有名な詩の「15億人」を「とても無意味で愚かな馬鹿さかげんと自惚れ」だとして却下した(多数の読者は同意するかもしれない)。
レーニンは、内戦が終わると、Proletkult の活動を立ち入って検討した。ーそして、閉鎖することに決定した。
1920年の秋に、それに対する財政援助が劇的に削減された。
Bogdanov は指導部から解任され、レーニンはその原理的考え方に対する攻撃を始めた。
ボルシェヴィキ党指導者は、Proletkult の因襲打破的偏見に苛立ち、過去の文化的成果を基礎にして形成していく必要を強調した。また、それがもつ自立性によって政治的脅威は大きくなると判断した。
彼が見たのは、Proletkult はBogdanov 一派だ、ということだった。
確かにProletkult は労働者反対派と多くの点で共通しており、「ブルジョア専門家」の雇用によりまだ示されているようなブルジョアジーの文化的主導性を打倒する必要を強調した。そしてじつに、NEP の直後でもそうしていた。
この意味では、Proletkult の反ブルジョア感情とスターリン自身の「文化革命」との間には直接の連結関係があった。
レーニンの目からすると、Proletkult の閉鎖はNEP への移行のための不可欠の要素だった。
NEP は経済分野でのテルミドールだったが、「ブルジョア芸術」に対する闘争のこの中断は、文化分野でのそれだった。
どちらの由来も、ロシアのような後進国では古い文化の成果は維持されなければならず、その基礎の上に社会主義社会は建設される、という認識にあった。
共産主義への近道などは存在しないのだ。//
(23〉レーニンはこの時期に、「文化革命」の必要性について何度も執筆した。
彼は、労働者国家を生むだけでは十分でない、と論じた。社会主義への長い移行のための文化的条件もまた、生み出さなければならない。
文化革命という概念で彼が強調したのは、プロレタリアの文学や芸術ではなく、プロレタリアの科学と技術だった。
Proletkult は芸術を人間の解放の手段として位置づけたのに対して、レーニンは、科学こそを人間の変革の手段だと見た。人間の変革とは、人々を国家の「歯車」に変えることだ。(*)
〈 (*)原書注記ースターリンはしばしば、人々は国家という巨大な機械の「歯車」(vintiki)だと述べた。〉
レーニンは、「悪質で」「識字能力のない」労働者たちが「資本主義の文化で教育される」ことを—そして技能をもち紀律のある労働者となって子供を技術学校へ通わせることを—望んだ。そうすれば、社会主義への移行に際してこの国の後進性を克服できるだろう(27)。
ボルシェヴィズムとは、近代化のための戦略でないとすれば、何物でもなかった。//
(24)レーニンが入念な科学的訓練の必要を強調したことは、1920-21年の間の教育政策の変化を反映していた。
ボルシェヴィキは、教育を人間の変革の主要な道筋だと見なした。学校や子供たちと青年のための共産主義同盟(Pioneer とKommsomol〉を通じて、次の世代へと新しい集団的生活様式が教え込まれるだろう。
ソヴィエトの教育の率先者の一人だったLitina Zinoviev が、1918年の公教育大会で、こう宣言したとおりだ。/
「我々は、若い世代を共産主義の世代へと作り込まなければならない。
子どもたちは柔らかい蝋のごとくきわめて柔軟かつ従順であって、良い共産主義者へと鋳造されるに違いない。……
我々は、家庭生活の有害な影響から子どもたちを救わなければならない。……
我々は、彼らを国有化(natinalize)しなければならない。
小さな生命の最も早い時期から、共産主義の学校の愛情溢れた影響のもとにいることを知らなければならない。
彼らは、共産主義のABCを学習するだろう。……
母親に子どもをソヴィエト国家に捧げることを義務づけること—これが我々の任務だ。」//
(25)ソヴィエト式学校の基本的モデルは、1918年に設立された統合労働学校(Unified Labour School)だった。
この学校は、子どもたち全員に対して14歳になるまで自由な普通教育を与えることを意図していた。
しかしながら、内戦による実際的な困難があったため、その目的は現実にはごく僅かの学校で達成されたにすぎなかった。
1920年に多数のボルシェヴィキ党員と労働組合指導者たちは、幼年期から職業訓練を行う限定された制度づくりを主張し始めた。
彼らは、トロツキーの軍事化計画の影響を受けて、教育制度を経済的需要に従属させる必要を強調した。ロシアには熟達した技術者が必要であり、それを生み出すのは学校の仕事だ、と。
Lunachartsky はこれに反対し、この主張は自分がVpered 主義者だった時代から追求してきた革命の人間中心主義的目標を放棄する誘因となる、と見なした。
彼はこう主張した。
労働者の名のもとで権力を奪取したボルシェヴィキは、「産業の支配人」になれる知識人のレベルにまで引き上げる子どもたちの教育を強いられている。だが、見習う前に読み書きの仕方を教えるだけでは十分ではない。
そうすれば、資本主義の階級分化、知識をもつという力により分離される支配人と男たちの文化を再生産してしまうだろう。
Lunachartsky の力により、1918年の科学技術の考え方は基本的には維持された。
しかし、実際には、狭い職業訓練教育の考え方が増大した。それによって子どもたちは、とくに孤児たちは、9歳か10歳の早い時期から工場の実習生になることを強いられた。//
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⑥へとつづく。