Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial(Chicago Uni. Press,1990)
 試訳をつづける。邦訳書はないと見られる。
 この前に試訳していた1999年の著でも、L・コワコフスキは、人の「好奇心」はヒト・人間という生物種の本性ではないか旨書いていた。以下にも似たようなことに触れている箇所がある。いずれにせよ、L・コワコフスキは我々が生物・動物の一種であるヒト・人間であることをつねに忘れてはいない(そしてマルクス主義に関する大著ではアインシュタインにも量子力学にも、哲学者としてのマッハにも論及する)・
 自然科学は「敵」だと明言し(西尾幹二)、あるいは「殺伐たる」自然科学(岩田温)としか評せられない日本の一部の<文学畑社会評論家>の視野狭窄、<観念肥大>・<現実無視>ぶりは相当にひどいもので、日本の現況には本当にげんなりする。一端に触れただけの、余計な前ふりだった。
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 第一部/Modernity、野蛮さと知識人について。
 第一章・限りなく審判されるModernity②。
 (3)それでもなお、変化し続け、その変化にはふつうは十分な数の狂熱的な支持者がいる。
 古いものと新しいものの間の衝突はおそらく永く継続し続け、我々はそれから逃れようとはしない。構成物と進化の間の自然な緊張関係が示しているように。この緊張関係には生物学的な根源があるように思われる。
 我々は、この緊張関係は生(life)の本質的な特徴だと、考えてよいかもしれない。
 明らかに、いかなる社会も持続と変化の両方の力を経験することが必要だ。 
 既存のいかなる社会にもこれら二つの対立する力があるが、いずれかの相対的な強さを判断することのできる信頼するに足る手段を、何らかの理論が提供しているか否かは、疑わしい。そういう理論があれば、方向量(vector)のごとくそれらに加えたり減じたりして、それを基礎にして、予見する力をもつ発展の一般的図式を描くことができるだろうけれども。
 いったい何が一定の科学者たちに挫けることのない急速な発展を取り込む能力を与えるのか、何がその他の科学者たちをきわめて緩やかな発展の速度で満足させるのか、そして厳密にはいかなる条件のもとで発展または沈滞が暴力的危機または自己破壊を生むのか、について、我々はただ推測することができるだけだ。//
 (4)好奇心、つまり世界を危険や生理的な不快さに影響を受けることなく虚心坦懐に探査したいという別の衝動は、進化に関する学生たちによると、我々の種に特有の発生形態学的特質に根源をもつ。そして、そのゆえに、我々の種がその同一性を維持するかぎりは、我々の心性(minds)からそれを抹消することができない。
 パンドラの最も悲痛な事故と我々の祖先の楽園への冒険がいずれも証拠立てているように、好奇心という罪悪こそが、人類が遭遇した全ての厄災と不運の主要な原因だった。そしてそれは、疑問とする余地なく、人類の全ての偉業の根源でもあった。//
 (5)探査の衝動は、世界の文明の間に同じように配分されてはこなかった。
 何世代もの学者たちは、ギリシャ、ラテン、ユダヤ教、そしてキリスト教の淵源が組み合わさって出現した文明はなぜ、科学、技術、芸術、および社会秩序の変化を促進し、急速に伝搬し、加速させるのに独自に成功したのか?、と問うてきた。数世紀にわたってほとんど発展せず、稀にしか感知されない変化にのみ影響された多くの文化が残存したり、創造性の短期間の激発のあとで無活動の状態に陥ったりしたのだったとしても。//
 (6)満足し得る回答はない。
 どの文明も、多様な社会、人口統計、気候、言語、心理にかかわる環境が偶然に凝集したもので、その文明の出現や衰亡の一つの究極的原因を追求しても、成功する見込みはないように思える。
 つぎのような研究成果を示されても、その有効性には強い疑問を抱かざるをえない。
 例えば、ローマ帝国は上流階級の者たちの脳に毒を入れて損傷する鉛の鉢が普及したがゆえに崩壊した。宗教改革はヨーロッパでの梅毒の蔓延で説明することができる。
 他方で、「原因」を探そうとする誘惑に打ち克つのは困難だ。相互に無関係の説明できない要因で文明は勃興したり破滅したりする、と思ったとしても。同じことは、新種の動物や植物の出現について、都市の歴史的配置について、地球の表面上の山岳の配分について、あるいは特定の民族的言語の形成についても言える、と考えたとしても。
 自分たちの文明を見究めるために、我々は、我々自身を認識して、独特の集団的自己意識(ego)を把握しようとする。その集団的自己意識は、知覚するために必要であり、それが存在しないことは私自身の不存在が私にとってそうであるように耐え難いものだ。
 したがって、「我々の文明はなぜ現在のようであるのか」という疑問には答えが存在しないとしても、この疑問を我々の心から完全に排除することはできそうにない。//
 (7)Modernity それ自体は、modern でない。しかし、若干の文明では他の文明よりも modernityに関する衝突が明らかに顕著で、現在が最も深刻になってきている。
 Iamblichos は4世紀の最初に、ギリシャ人はその本性からして新奇さ(novelty)を好み、—野蛮人と対照的に—伝統を無視する、と述べた。
 彼はしかし、それを理由としてギリシャ人を褒めたのではなく、その反対だった。
 新奇さを好むという点で、我々は依然としてギリシャ人の後継者なのか?
 我々の文明は、<新しい>ものはその定義からして良いものだという(多言をもって表明されていないが確かにある)信念に、もとづいているのか?
 これは、我々の「絶対的な前提条件」なのか?
 こうした問題は、<反動的(reactionary)>という形容詞とふつう結びついた価値判断を、想起させるかもしれない。
 この言葉は明らかに非難の意を含んでおり、自分自身を叙述するためにこの形容詞を用いようとする人々はほとんどいない。
 だが、「反動的」であることは、いかに二次的であってもある側面のいくつかでは、過去は現在よりも良かったということを意味しているにすぎない。
 反動的であることは自動的に間違い(wrong)だということを意味しているとすれば、この形容詞はほとんどつねにそうした前提を伴って用いられることになる。—過去はどんな点についても今より良かったかもしれないと考えるのは間違いだ、ということになるように思える。これは、何であってもより新しいものはより良い、と言うことと同じだ。
 さらには、このような大胆な言い方では、我々の「進歩主義(progressism)をほとんど何も叙述していない。
 まさに<modern>という言葉にも、同じ曖昧さがつきまとっている。
 ドイツ語では、この言葉は「新しい(modern)」と「流行している(fashionable)」の二つとも意味する。だが、英語やその他のヨーロッパ言語はこれら二つを区別しない。
 ドイツ人は適切(right)なのかもしれない。
 だが、少なくとも二つの形容詞を使うことのできる文脈では、この区別がどのように境界づけされるのかは明瞭でない。
 確かに、ある場合には、これらの言葉は交換可能ではない。
 <moderm 技術>、<modern 科学>、そして<modern 産業経営>。これらの場合に、<流行している(fashionabe)>は当てはまらないだろう。
 しかし、<modern 思想>と<流行している(fashionable)思想>の違いを説明するのはむつかしい。同じことは、<modern 絵画>と<流行している(fashionable)絵画>の違い、<modern 服装>と<流行している(fashionable)服装>の違いについて言える。//
 (8)多くの場合には、<modern>という語は価値から自由で、中立的であるように見える。<流行している(fashionable)>という語と同じだ。すなわち、<modern>とは我々の時代を覆っているものだ。そして実際に、この言葉は、しぱしば皮肉たっぷりに使われている(チャップリンの<モダン・タイムズ>のように)。
 他方で、<modern 科学>や<modern 技術>という表現は、少なくとも通常の用語法では、<modern>なものはそれを理由をしてより良い、ということを強く示唆している。
 こうした意味の曖昧さはおそらく、すぐ前に述べたように、変化に対する我々の態度につきまとう曖昧さを反映している。変化は、歓迎されることもあるし、怖れられることもある。望ましくもあれば、呪詛されもする。
 多くの企業はその製品を、両方の姿勢を示唆する語句を用いて宣伝する。例えば、「良い、古い様式の(old-fashioned)家具」あるいは「おばあちゃんが昔作ったようなスープ」が、「全く新しいスープ」あるいは「洗剤産業界のわくわくさせる新製品(novelty)」とともに用いられる。
 二種の妙技が働いているようだ。
 おそらく宣伝広告の社会学は、どのようにして、どこで、なぜこうした矛盾する宣伝文句が成功したのかに関する分析を提供したのだ。//
 (9)<modernity>とは何かが明確ではないので、我々は近年は、<postmodernity>(いくぶん古い表現の<ポスト産業社会>、<ポスト資本主義>等を拡大したものか模倣だ)について語ることで問題を回避しようとしている。
 私はpostmodernism とは何でpremodern とどう違うのかを知らないし、知るべきだとも感じていない。 
 postmodern の後には何が来るのだろうか。
 ポストpostmodern、ネオpostmodern、ネオ・反modern か?
 名前の問題はさて措き、本当の疑問が残っている。
 すなわち、なぜ、modernity の経験と結びついた不快感がこうも広く感じられているのか? そして、この不快感をとくに大きくしている一定のmodernity の淵源はどこにあるのか? //
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 ③へとつづく。