レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 第12章の後半。原書、p.88〜p.93。この書に邦訳書はない。
 ——
 第12章・退屈について(On Boredom)②。
 (7)毎日の決まり事と単調さは、実際に退屈だったように見ることもできる。
 マス・メディアが好んで印刷したり放映する報道はいつも悪いことで、旱魃や飢饉、戦争や危機、殺人や大虐殺と全く同じようだと、我々はしばしば不満をこぼす。
 人々は、全くしばしば、悪いニュースだけがニュースなのだから、とその理由を答えるだろう。 
 スミス氏が通りで殺されれば、ニュースになる。
 だが、スミス氏が起床し、朝食を摂り、仕事に出かけて、また家に戻っても、ニュースにならない。つまり、これらは退屈なのだ。
 ジョーンズ氏が離婚すれば、ニュースだ(少なくとも彼の友人には)。だが、彼が妻と幸せに仲睦まじく生活していれば、ニュースではなく、退屈させるものだ。
 ニュースは、蓋然性がなく、予見し難いことで出来ている。そして、予見し難いことは、我々には、好ましくないことの方が多い。
 我々が世界の混乱から利益を得ることはない。
 人間の歴史は、予見不可能性や偶然との長い闘いだ。
 しかし、かりに偶然が全体として我々に好ましいものならば、我々の生活への偶然の影響を少なくしたいと思う何の理由もないだろう。
 スミス氏が宝くじに当たることもニュースだ。良いニュースだけれども。
 スミス氏にだけ良いニュースで、券を買って負けて、スミス氏が勝つのを許す残りの我々には、そうではない。
 そして、スミス氏にとってすら、宝くじに当たることは全体としては結局は悪いニュースだったことが判明する。//
 (8)例えばだが、人生の大部分を読書に費やす、我々のうちの好運な者たちは、総じて、関心を掻き立てる事物がなくて困るということはない、という意味で、退屈しはしない。 
 その者たちには、そのような事物はつねに、手の届く範囲内にある。
 実際のところ、ラジオ、テレビ、音楽その他の形態の娯楽をつねに利用できる世界で、いったい誰が退屈することがあるだろうかと、思うかもしれない。この世界では確かに、興味を抱かせる何かを見つけるのは十分に容易だ。
 だがなおも、我々はいつも、暴力をふるう若者の一団がいて世界中の都市で略奪し回り、通り道で何かまたは誰かを理由もなく破壊したり襲ったりしていると、聞いたり読んだりしている。そして、彼らは退屈しているのだと言って、彼らの振る舞いの理由を説明している。
 興奮させる映画を観る理由は、観ているのがフィクションであることを忘れることができない、あるいは行動に現実に参加していると感じることのできない、そのような消極的な気分で観ていることではおそらくない。
 テレビの英雄たちの最も刺激的な冒険ですら、じつに、一種の刺激物に対する我々の退屈や空腹感を増加させる。そして、不公平だとの感情すら生じさせる。「エリザベス・テイラーほどの金を、なぜ自分は持てないのか? 公正じゃない。」
 食べる物も着る物もあるが、豊かさはなく、映画スターなら持つだろうと想像する現実のまたは虚構上の冒険をすることのできない、貧しい若い人々がいる。このような人々に対して、我々はどうすればよいのか?
 我々は彼らの好奇心や刺激を求める気持ちを「建設的な」方向へと流し込む必要がある、と言うのは容易だ。そのようになれば、彼らは理由もない破壊行為や無意味の演奏会と喧しい騒音での集団的恍惚状態でもって自己を表現しはしないだろう、と。
 しかし、どうやって?//
 (9)好奇性は、退屈さと同様に、人間に独特の性質で、<とくに秀でた>人間の性質だ。
 肉体的必要を充足させて、脅威となる危険はないことが確実になった後ですら、世界を探検に向かわせる衝動を与えるのが、好奇性だ。
 言い換えると、我々を動物の状態を超える場所へと導くのが、とりわけこの性質だ。
 退屈さと退屈するという特性と同様に、好奇性と関心をもつという特性、つまり好奇の客体は、その客体についての我々の経験と客体それ自体のそれぞれの属性であり得るものだ。
 一方は、もう一方なくしては存在することができない。
 そして、「好奇性」と「関心をもつ」や「退屈さ」と「退屈している」はそれぞれ反意語かつ補完語であるがゆえに、退屈さは好奇性を求めて我々が払う代償だ。すなわち、我々が少しも退屈していなければ、我々はきっと好奇心を持たないだろう。
 言い換えると、我々のもつ退屈するという能力は、我々の人間性の不可欠の一部なのだ。
 我々は、退屈することができるがゆえに、人間だ。//
 (10)退屈だとの感情は、我々が当然に逃れることを望むものだ。そして逃れようとするには、破壊的形態と建設的形態のいずれも必要になり得る。
 破壊的形態は、しかしながら、より容易だ。
 例えば、戦争は、恐ろしいものだが、退屈させはしない。
 闘争心と戦いの中で生まれる本能は、退屈を防止する良い手段だ。そしてこれらは、多くの戦争の原因の中にあったに違いない。
 さらに加えて、退屈はしばしば反復によって生まれるがゆえに、我々の存在の根源にある興味が薬依存者のように尽きてしまい、多くのかつより強い刺激を絶対的に必要とするようなもの以上に、多く発生し得る。
 このような状況が何をもたらすかについて、語る必要はないだろう。//
 (11)我々が考察してきた現象のうち一つの個別の事例は、「退屈させる人」だ。
 退屈させる人というのは、叙述するのがきわめて困難だ。
 この人の退屈さは、彼の学歴やその欠如、あるいは彼の性格に関係はない。
 彼には、常時同じことを反復させる誰かが必要なのではない。
 退屈させる人は、重要なものとそうでないものを識別することのできない人物である可能性が高い。
 この人に関する逸話は、不必要で煩わしい些細なことでいっぱいだ。
 彼は、ユーモアと皮肉のいずれにも縁がない。
 彼は、他の全員が興味を失ったあとでも、長く一つの主題を奏でつづけるだろう。
 要するに、彼には人間の相互関係の通常のメカニズムが欠けているように見える。
 たぶんこのことの理由は、正確には、人間の意思疎通に必要な対照関係(contrast)を作り出すことができない、ということにある。
 そうだとすると、この人物は、私が概述してきた退屈という一般的概念には適応しないだろう。//
 (12)対立やストレスのない完全な充足の状態は、これを我々はユートピアと呼ぶが、かりに万が一生じるとしても、人間性の終わりを意味するだろう。
 なぜなら、人間性のうちにある好奇(curiosity)を求める我々の本能もまた消滅するだろうからだ。
 これが、我々の種(species)が現実にそうであるのとは異なり、ユートピアが決して建設され得ないことの理由だ。
 しかし、最近にFrancis Fukuyama が予言したように、「歴史の終わり」を、すなわち現存する政治諸制度に対していかなる別の選択肢も想定できず、戦争も貧困も、芸術も文学もない世界—要するに、全面的でかつ永続的な退屈の世界—を想像することができないのか?
 その見込みは果てしなくなさそうなので、深刻に悩む必要は全くない。だが、もしもあるとすれば、我々はこうするだろう。すなわち、絶望的になってまさに街中の略奪集団が選ぶような解決方法—それ自体が目的の破壊衝動—を探さないで、我々自身の退屈な生活をすぐには諦めない。
 これこそが、普遍的な人間の現象全てと同じく、退屈は利益にもなるし危険にもなり得る、ということの理由だ。//
 ——
 以上、第12章、終わり。
 下は、原書の表紙。
 IMG_0217