レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999).
 邦訳書はない。一行ずつ改行し、段落の区切りごとに原書にはない数字番号を付す。
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 <背信>の項で、著者=L・コワコフスキは自分の(国内での教育と研究発表の場を剥奪されても形式上は)「自由」意思で母国・ボーランドから離れたことをある程度は意識していると想定される(党からは一方的除名だったので、そこに「自由」はなかったと見られる)。
 この<暴力>の項の最後の部分では、自ら援助・協力したポーランドの「連帯」運動が意識されていると見られる。以上、ほとんど行なっていない、試訳者の解説・注記もどきのもの。
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 第11章・暴力について(On Violence)②。
 (7)正当化される暴力とそうでない暴力の区別は、特定の多数の事例については明確だけれども、そう簡単に見極められるものではない。
 しつけの定期的な一部である子どもへの体罰は、疑いなく不必要な暴力だ。だが、子どもたちが自分を傷つけるのを阻止するために小さな子どもに我々が課す多様な肉体的制約を、暴力だと叙述することはしない。
 洗脳(indoctrinaton)はどうなるのか?
 我々の信条を、抵抗する精神的な力をもたない我々の子どたちに課すのは暴力か?
 我々の文化について子どもたちに教えるとき、我々は洗脳をしている。
 これは避けられないことだ。
 では、洗脳には善と悪の二つの形態がある、そして後者だけが暴力だと叙述されるべきだ、と言わなければならないのか?
 しかし、我々がかりに正しい信条、原理、規範だと考えるものを基礎にして善の洗脳と悪の洗脳を区別するとすれば、我々の暴力の定義は、我々自身の世界観にもとづくことになるだろう。そしてそれは、きっと良いことではなさそうだ。//
 (8)非肉体的な強制を一般に、「道徳的暴力」だと叙述することができるか?
 脅迫は、明らかに暴力の一例だ。
 おそらくは政府に何がしかの譲歩を強いることを意図してのハンガー・ストライキは、より明瞭でない事例だ。
 それがかりに非人間的な刑務所の条件に抗議するために行われるのであれば、我々はおそらく、正当視できると考えるだろう。受刑者が行うことのできる、唯一の抗議の形態なのだから。
 しかし、民主主義的政府に政治的譲歩を強いる手段としてそれが行われるのであれば、我々はおそらく、それを暴力の一形態と呼ぶだろう。//
 (9)正当化される暴力とそうでない暴力を区別するためには、我々はそれが用いられる目的を評価することができなければならない、ということが明らかだと思われる。
 その目的が問題なく価値がある場合には、当該目的を達成する方法が他にない<とするならば>、その暴力は正当化されるものと考えることができる(つねに賢明ではないとしても)。
 例えば 専制に対しては、暴力を用いてのみ闘うことがことができる。そして、キリスト教神学者ですら、専制者を殺すのは正当化されると主張した。
 全体主義国家で、非暴力的だが成功した闘争を我々は見てきた。だが、その闘争の成功は、全体主義がすでに相当に弱体化していたときに生じた。
 全体主義が強くて、何事もなく苛酷でいることができていれば、非暴力の闘争は、成功する可能性がなかっただろう。体制側は、初期の段階での不服従の試みを鎮圧し、その試みの報せが伝搬するのを抑止する手段をもつていたのだから。//
 (10)暴力の行使を正当化することのできる目的は、明確で、十分に画定され、そして明瞭に定義されていなければならない。別の国家に従属している国の独立の獲得、暴君の殺害、犯罪者に対する制裁。 
 1960年代の青年運動の参加者たちは、「選択肢のある社会」(どのようなものかを彼らは正確には語れなかったが、彼らには関心よりも誇りの問題だった)を建設するために「革命的暴力」と称するものに訴えた。
 だが、いずこにも正当化を見出し得なかった。
 かつまた、彼らの教師たちも、とりわけサルトルやマルクーゼだが、何ら正当化されない。
 彼らはたんに、民主主義的諸制度を破壊して自分たちの専制体制を確立する、という欺瞞的な展望をもて遊んだにすぎない。
 幸いにも、彼らは成功しなかった。
 しかし、同じ時期に、共産主義諸国にいる他の者たちは、武器としての言葉だけでもって、専制体制と闘っていた。全ての暴力は、体制の側にあった。
 最後には、彼らの闘いは成功したと判った。その闘争は人々の思考方法をゆっくりと変え、人々に恐怖は克服されるということを示し、体制のウソと無法ぶりを暴露した。
 彼らの場合は、何らかの形態での暴力の行使は正当化されただろう。たぶん、効果的ではなかったけれども。//
 (11)暴力ではなく言葉を求める、と言うのは容易だ。しかし、誰もまだ、そのような世界をつくる分かり易い処方箋を見つけてはいない。
 全ての暴力を絶対的かつ無条件に非難することは、生活(life)を非難することだ。
 しかし、暴力が犯罪、隷従、侵略および専制に対してのみ向けられている世界は、これらの消失を求めるために、非合理的なものではない。そのような結末の蓋然性を疑う、多くの十分な根拠があるとしても。//
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 第11章、終わり。