仕事(生業)で英語を使ったことはなく、大学生時代の英語の授業は高校のときよりも簡単でつまらなかったので、実質的には日本の公立高校卒業時の英語の力を基礎にして、<試訳>をつづけている。
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Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
=O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
最終章の第16章の試訳を終え、その前の第15章へと移る。同じ章の中では、第一節→第二節→…と進む。
この書に邦訳書はない。一文ずつ改行し、段落の区切りに//と原書にはない数字番号を付す。
——
第15章・勝利の中の敗北。
第一章・共産主義への近道。
(1)Dmitry Os'kin は、内戦での危険な経験のあと、1920年の第二労働軍の指揮官を引き受けた。
この軍はDenikin の打倒のあとで第二赤軍の余剰兵団から形成され、南西部戦線の荒廃した鉄道を復旧させることを任務としていた。
兵士たちは、ライフル銃の代わりに鋤をかついだ。
Os'kin は、のちにこう書いた。
「もうこれ以上戦闘にかかわりたくないという、気落ちした感情が一般にあった。
鉄道の側での、気怠い生活だった。」
指揮官の唯一の代償は、革命と内戦という惨事の後の経済の復興には知識がきわめて重要だったが、その知識を得られることだった。
南部の諸鉄道は、北部の工業都市への穀物と油の供給という重要な役割を担っていた。
内戦で、およそ3000マイルの線路が破壊されていた。
破壊された機関車の残骸があちこちにあった。
Os'kin は、Balashov からVoronezh へと移動しながら、一般的な惨状を記した。
「駅には誰一人おらず、列車が稀に通過した。夜には照明がなく、電報局にはろうそくだけがあった。
建築物は半分破壊され、窓は壊れ、汚物とゴミが高く積み重ねられていた。」
これは、ロシアの荒廃の象徴だった。
Os'kin の兵士たちは、汚い散物を掃除し、線路と橋脚を作り直した。
軍技術者たちは、列車を修理した。
夏までに、鉄道は再び機能し始め、作戦は大成功したと宣言された。
この兵団を経済の別部門を稼働させるために使うことが、語られた。//
(2)トロツキーは、軍事化の最高の闘士だった。
彼の命令によって1920年1月に、第三赤軍の残余兵を集めた第一労働軍が組織された。
Kolchak 打倒のあと、兵士たちはそのまま戦闘部隊にとどめられ、「経済前線」へと再配置された。—鉄道の修繕の他に、食糧の手配、樹木の伐採、単純な物品の製造。
計画は、ある部分は実践的だった。
ボルシェヴィキは、経済危機の真っ最中に軍の動員解除をするのを恐れた。
かりに数百万の失業した兵士たちが都市部に集まることが、あるいは覚醒した農民たちの隊列に加わることが許されたとすれば、(1921年に起きたように)全国土的な反乱が発生し得ただろう。
さらに加えて、鉄道を復旧させるには断固たる措置を必要とすることは明瞭だった。トロツキーは鉄道を、内戦による荒廃後の国の回復の鍵だと見ていた。
彼は1920年1月、輸送人民委員になった。それは彼が積極的に望んで得た最初の地位だった。
鉄道は、慢性的な破損以外に、腐敗した役人たちによって悩まされていた。彼らは殺到する仲介者へと堰を切ったように向かい、システムに大混乱を生じさせていた。
些細な地方主義も、鉄道を麻痺させていた。
全ての離れた支線にはそれら用の委員会があり、稀少な車両を求めて相互に競争する数十の地区鉄道局があった。
それらは、「自分たちの」機関車を隣接する局に譲って失うよりも、列車をまだ管理している間に車両を切り離そうとした。そうすると、列車は数時間、ときには数日間止められ、新しい機関車は次の車庫から出られなくなるのだった。
鉄道職員は懸命に努力したにもかかわらず、トロツキー配下の上級官僚たちがOdessa からKromenchug まで300マイルを旅するのに、一週間全部を要した。(*2)//
(3)しかし、トロツキーの胸中の計画には、軍事のごとく動く社会全体についての広大な展望があった。
1920年の多数のボルシェヴィキのように、トロツキーは、参謀部が軍を指揮するのと全く同じく、国家が社会の指揮官だと見ていた。—計画に従って社会の諸資源を動員するのだ。
彼は、軍事様式の紀律と厳密さでもって稼働する経済が欲しかった。
全民衆は、労働する連隊や旅団へと徴用されなければならず、兵士たちと同様に、生産命令を達成するために(「戦い」、「作戦行動」(campaign)といった語が使われる)経済の前線へと派遣されなければならなかった。
ここには、スターリン主義の命令経済の原初的形態がある。
両者をいずれも駆り立てたのは、ロシアのような後進国では、国家による強制(coercion)を共産主義への近道として用いることができるという考えだった。したがって、市場を通じての資本蓄積のためにNEP類型の段階が長く継続する必要性は排除される。
両者がともに基礎にしていたのは、布令によって共産主義を押しつけることができるという官僚主義的な幻想だった(どちらの場合も、結果はマルクスが見出したものとは異なる封建主義にむしろよく似たものとなったけれども)。
メンシェヴィキがかつて警告したように、ピラミッドの建造に使われた方法を用いて社会主義経済への移行を完成させるのは不可能だった。//
(4)内戦勝利後のボルシェヴィキにとっては、赤軍を社会の残余部分を組織するモデルだと見なすことは、疑いなく魅力的なことだった。
<Po voennomy>—「軍隊のように」—は、ボルシェヴィキの語彙では効率性(efficiency)と同義となった。
軍事手段が白軍を打倒したのだとすれば、それを社会主義建設のために用いることが、何故できないのだろうか?
なすべきことはただ、経済前線へと行進するために軍の周りに結集することであり、そうすれば、全労働者が計画経済のための歩兵となる。
トロツキーはつねに、工場は軍隊のごとく動かされなければならないと主張した。(原注+)
〔(+)同じことは同時期に、Gastev やその他のロシアでのTaylor 運動の先駆者たちによっても表明された。〕
彼は、このとき、1920年の春、この勇敢な新しい共産主義的労働を、こう概述した。計画経済の「司令官が労働前線に対して命令を発出し、毎夕に司令部の数千の電話が鳴り響き、労働前線での征圧が報告される」。
トロツキーは、強制労働へと徴用する社会主義の能力は、資本主義に対する主要な優位点だ、と論じた。
経済発展についてロシアに欠けているものを、国家の強制力でもって補充することができる。
市場を通じて労働者を刺激するよりも、労働者を強制する方がより効率的だ。
自由な労働はストライキと混乱をもたらすが、労働市場の国家的統制は規律と秩序を生み出すだろう。
こうした議論は、トロツキーがレーニンと共有した見方にもとづくものだった。その見方とは、ロシア人は悪辣で怠惰な労働者だから、鞭でもって駆り立てなければ働こうとしない、というものだ。
ソヴィエト体制と多くの点で共通性があった農奴制のもとでの大地主層も、同じ見方をしていた。
トロツキーは、農奴労働の成果を称賛し、それを自分の経済計画を正当化するために使った。
彼は、強制労働の利用は非生産的だという批判者からの警告を聞いても困らなかっただろう。
1920年4月の労働組合大会で、こう言った。「かりにそうならば、きみたちは、社会主義を十字架に掛けることができる」。(*3)//
(5)「兵営共産主義」の奥底にあったのは、独立した、いっそう反抗的になっている勢力としての、労働者階級に対するボルシェヴィキの恐怖だった。
ボルシェヴィキはこの頃から顕著に、「労働者階級」(rabochii class)ではなく、「労働勢力」(rabochaia sila または短くrabsila)と語り始めた。
この変化は、革命の積極的主体から党・国家の受動的な客体への労働者の変化をよく示唆していた。
<rabsila>は階級ではなく、諸個人の集合体ですらなく、たんなる大衆(mass)でしかなかった。
労働者の意味のこの言葉(<rabsila>)は、語源への回帰だった。すなわち、奴隷(slave)の意味の言葉(<rab>)への。
ここに、収容所(Gulag)制度の根源があった。—建築現場や工場で強制的に働かせる(dragoon)、半ば飢えてぼろ布を着た農民たちの長い列、という意識(mentality)。
労働軍は「農民という原料」(<muzhitskoe syr'te>)で作られると語ったとき、トロツキーは、この意識を典型的に示していた。
人間の労働は、マルクスが賛えた創造的な力から全くかけ離れて、現実には、国家が「社会主義を建設する」ために使う材料にすぎなかった。
このような倒錯は、出発時点から、システムに内在していた。
Gorky は、彼が1917年に「労働者階級は、レーニンにとっては金属加工業者のための鉱石のようなものだ」と書いたとき、このことをすでに予見していた。(*4)//
(6)内戦での経験によって、ボルシェヴィキ指導者たちの労働者階級との関係についての自信が増大する、ということは全くなかった。
食糧不足のために、労働者たちは小取引者となり、一時的な農民になって、工場と農場の間を動き回った。
労働者階級は、漂泊民になっていた。
工業は、工場労働者が地方からの食糧を買いに旅行するために半分はいなくなって、混乱に陥った。
工場にいる労働者たちは、農民たちと交換取引をするための単純製品を作って時間のほとんどを費やした。
需要が大きい熟練の技術者たちは、より良い条件を求めて工場から工場へと渡り歩いた。
生産高が、革命前の水準のごく一部にまで落ち込んだ。
最重要の軍需品工場群ですら、事実上は休止状態になった。
労働者の生活水準が悪化するにつれて、ストライキや意図的遅延が常態化してきた。
1919年の春のあいだ、ストライキが全国的に勃発した。
都市のほとんどもまた、無関係ではなかった。
食糧を十分に供給できるところは全て、ストライキ実行者が要求する表の最上位を占めた。
ボルシェヴィキは、弾圧でもって答えた。多くはメンシェヴィキ支持者だと嫌疑をかけた数千の実行者を逮捕し、射殺した。(*5)//
(7)イデオロギー上の理由で市場を拒絶していたので(原注+)、ボルシェヴィキは、その刺激なくしては、実力による脅迫以外には労働者に影響力を行使する手段をもたなかった。
〔原注+/トロツキーは1920年に、NEPに似た市場改革の暫定案を提示した。しかし、中央委員会はそれを却下した。彼はただちに軍事化政策へと立ち戻った。自由取引によるのであれ強制によるのであれ、経済の復興が必要だった。〕
ボルシェヴィキは、高い賃金という報償を与えることで生産を高めようとした。その報償はしばしば出来高と連結していて、異なる賃金支払いを排除するという革命の平等主義的約束へと戻ることになった。
しかし、労働者は紙幣で多くの物を購入することはできなかったので、これは大した誘因とはならなかった。
労働者を工場にとどめておくために、ボルシェヴィキは、現物で支払うことを強いられた。—食糧そのものか、または農民との交換に使うことのできる工場の製品のいずれかで。
地方ソヴェト、労働組合および工場委員会は、 このような方法で労働者に支払う許可を求めて、モスクワを攻めたてた。そして、自分の権限でそのように行った。
1920年までに、工場労働者の大多数は、自分たちの生産物の分け前で、部分的には支払われていた。
労働者たちは、紙幣ではなく、釘が入ったバッグ、一ヤードの布を家に持って帰り、食料と交換した。
意図されないかたちで、計画経済の中心で、初期的な市場がゆつくりと再び出現していた。
この自発的な動きが阻止されないままであったなら、中央行政は国の資源の統制権を失い、そして生産を支配する権力も失っていただろう。
1918-19年にこの動きを止めようとしたが失敗して、1920年以降は、止めるのではなく、労働者が不可欠で重要な工業に従事することが確実であるかぎりで、この自然な支払いを組織化しようとした。
これが、重工業の軍事化の土台となった。戦略上重要な工場は、戒厳令が布かれることになる。労働者は赤軍の配給を保障されることになるが、その代わりに、作業現場には軍事的紀律が導入され、「工業前線」での脱走により射殺された者がいたために常時欠勤者があった。
その年の末までには、主として軍需と鉱山の3000の企業が、このようにして軍事化された。
兵士は労働者へと変わっていき、労働者は兵士へと変わっていった。//
(8)これと結びついていたのは、一部は労働者により選出された合議制の経営委員会から、党階層により任命されるのが増えていた独任制管理者による単独経営へという、権力の一般的な移行だった。
トロツキーは、選挙される軍事司令官から任命されるそれへの変化を引き合いに出して、これを正当化した。この変化が、内戦での赤軍の勝利の根源だったのだ、と。
新しい経営者たちは、自分たちは工業軍の司令官なのだと考えた。
彼らは、労働組合の諸権利は、軍での兵士委員会がかつてそうだったのと同じく、工業の規律と効率性に対する煩わしくて不要な邪魔物だと見た。
トロツキーは、労働組合の党・国家装置への完全な従属を主張するまでにすら至った。このとき以降、「労働者の国家」には、労働者が自分たちの自立した組織をもついかなる必要も、もはやなくなった。(*6)//
——
②へとつづく。
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Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
=O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924。
最終章の第16章の試訳を終え、その前の第15章へと移る。同じ章の中では、第一節→第二節→…と進む。
この書に邦訳書はない。一文ずつ改行し、段落の区切りに//と原書にはない数字番号を付す。
——
第15章・勝利の中の敗北。
第一章・共産主義への近道。
(1)Dmitry Os'kin は、内戦での危険な経験のあと、1920年の第二労働軍の指揮官を引き受けた。
この軍はDenikin の打倒のあとで第二赤軍の余剰兵団から形成され、南西部戦線の荒廃した鉄道を復旧させることを任務としていた。
兵士たちは、ライフル銃の代わりに鋤をかついだ。
Os'kin は、のちにこう書いた。
「もうこれ以上戦闘にかかわりたくないという、気落ちした感情が一般にあった。
鉄道の側での、気怠い生活だった。」
指揮官の唯一の代償は、革命と内戦という惨事の後の経済の復興には知識がきわめて重要だったが、その知識を得られることだった。
南部の諸鉄道は、北部の工業都市への穀物と油の供給という重要な役割を担っていた。
内戦で、およそ3000マイルの線路が破壊されていた。
破壊された機関車の残骸があちこちにあった。
Os'kin は、Balashov からVoronezh へと移動しながら、一般的な惨状を記した。
「駅には誰一人おらず、列車が稀に通過した。夜には照明がなく、電報局にはろうそくだけがあった。
建築物は半分破壊され、窓は壊れ、汚物とゴミが高く積み重ねられていた。」
これは、ロシアの荒廃の象徴だった。
Os'kin の兵士たちは、汚い散物を掃除し、線路と橋脚を作り直した。
軍技術者たちは、列車を修理した。
夏までに、鉄道は再び機能し始め、作戦は大成功したと宣言された。
この兵団を経済の別部門を稼働させるために使うことが、語られた。//
(2)トロツキーは、軍事化の最高の闘士だった。
彼の命令によって1920年1月に、第三赤軍の残余兵を集めた第一労働軍が組織された。
Kolchak 打倒のあと、兵士たちはそのまま戦闘部隊にとどめられ、「経済前線」へと再配置された。—鉄道の修繕の他に、食糧の手配、樹木の伐採、単純な物品の製造。
計画は、ある部分は実践的だった。
ボルシェヴィキは、経済危機の真っ最中に軍の動員解除をするのを恐れた。
かりに数百万の失業した兵士たちが都市部に集まることが、あるいは覚醒した農民たちの隊列に加わることが許されたとすれば、(1921年に起きたように)全国土的な反乱が発生し得ただろう。
さらに加えて、鉄道を復旧させるには断固たる措置を必要とすることは明瞭だった。トロツキーは鉄道を、内戦による荒廃後の国の回復の鍵だと見ていた。
彼は1920年1月、輸送人民委員になった。それは彼が積極的に望んで得た最初の地位だった。
鉄道は、慢性的な破損以外に、腐敗した役人たちによって悩まされていた。彼らは殺到する仲介者へと堰を切ったように向かい、システムに大混乱を生じさせていた。
些細な地方主義も、鉄道を麻痺させていた。
全ての離れた支線にはそれら用の委員会があり、稀少な車両を求めて相互に競争する数十の地区鉄道局があった。
それらは、「自分たちの」機関車を隣接する局に譲って失うよりも、列車をまだ管理している間に車両を切り離そうとした。そうすると、列車は数時間、ときには数日間止められ、新しい機関車は次の車庫から出られなくなるのだった。
鉄道職員は懸命に努力したにもかかわらず、トロツキー配下の上級官僚たちがOdessa からKromenchug まで300マイルを旅するのに、一週間全部を要した。(*2)//
(3)しかし、トロツキーの胸中の計画には、軍事のごとく動く社会全体についての広大な展望があった。
1920年の多数のボルシェヴィキのように、トロツキーは、参謀部が軍を指揮するのと全く同じく、国家が社会の指揮官だと見ていた。—計画に従って社会の諸資源を動員するのだ。
彼は、軍事様式の紀律と厳密さでもって稼働する経済が欲しかった。
全民衆は、労働する連隊や旅団へと徴用されなければならず、兵士たちと同様に、生産命令を達成するために(「戦い」、「作戦行動」(campaign)といった語が使われる)経済の前線へと派遣されなければならなかった。
ここには、スターリン主義の命令経済の原初的形態がある。
両者をいずれも駆り立てたのは、ロシアのような後進国では、国家による強制(coercion)を共産主義への近道として用いることができるという考えだった。したがって、市場を通じての資本蓄積のためにNEP類型の段階が長く継続する必要性は排除される。
両者がともに基礎にしていたのは、布令によって共産主義を押しつけることができるという官僚主義的な幻想だった(どちらの場合も、結果はマルクスが見出したものとは異なる封建主義にむしろよく似たものとなったけれども)。
メンシェヴィキがかつて警告したように、ピラミッドの建造に使われた方法を用いて社会主義経済への移行を完成させるのは不可能だった。//
(4)内戦勝利後のボルシェヴィキにとっては、赤軍を社会の残余部分を組織するモデルだと見なすことは、疑いなく魅力的なことだった。
<Po voennomy>—「軍隊のように」—は、ボルシェヴィキの語彙では効率性(efficiency)と同義となった。
軍事手段が白軍を打倒したのだとすれば、それを社会主義建設のために用いることが、何故できないのだろうか?
なすべきことはただ、経済前線へと行進するために軍の周りに結集することであり、そうすれば、全労働者が計画経済のための歩兵となる。
トロツキーはつねに、工場は軍隊のごとく動かされなければならないと主張した。(原注+)
〔(+)同じことは同時期に、Gastev やその他のロシアでのTaylor 運動の先駆者たちによっても表明された。〕
彼は、このとき、1920年の春、この勇敢な新しい共産主義的労働を、こう概述した。計画経済の「司令官が労働前線に対して命令を発出し、毎夕に司令部の数千の電話が鳴り響き、労働前線での征圧が報告される」。
トロツキーは、強制労働へと徴用する社会主義の能力は、資本主義に対する主要な優位点だ、と論じた。
経済発展についてロシアに欠けているものを、国家の強制力でもって補充することができる。
市場を通じて労働者を刺激するよりも、労働者を強制する方がより効率的だ。
自由な労働はストライキと混乱をもたらすが、労働市場の国家的統制は規律と秩序を生み出すだろう。
こうした議論は、トロツキーがレーニンと共有した見方にもとづくものだった。その見方とは、ロシア人は悪辣で怠惰な労働者だから、鞭でもって駆り立てなければ働こうとしない、というものだ。
ソヴィエト体制と多くの点で共通性があった農奴制のもとでの大地主層も、同じ見方をしていた。
トロツキーは、農奴労働の成果を称賛し、それを自分の経済計画を正当化するために使った。
彼は、強制労働の利用は非生産的だという批判者からの警告を聞いても困らなかっただろう。
1920年4月の労働組合大会で、こう言った。「かりにそうならば、きみたちは、社会主義を十字架に掛けることができる」。(*3)//
(5)「兵営共産主義」の奥底にあったのは、独立した、いっそう反抗的になっている勢力としての、労働者階級に対するボルシェヴィキの恐怖だった。
ボルシェヴィキはこの頃から顕著に、「労働者階級」(rabochii class)ではなく、「労働勢力」(rabochaia sila または短くrabsila)と語り始めた。
この変化は、革命の積極的主体から党・国家の受動的な客体への労働者の変化をよく示唆していた。
<rabsila>は階級ではなく、諸個人の集合体ですらなく、たんなる大衆(mass)でしかなかった。
労働者の意味のこの言葉(<rabsila>)は、語源への回帰だった。すなわち、奴隷(slave)の意味の言葉(<rab>)への。
ここに、収容所(Gulag)制度の根源があった。—建築現場や工場で強制的に働かせる(dragoon)、半ば飢えてぼろ布を着た農民たちの長い列、という意識(mentality)。
労働軍は「農民という原料」(<muzhitskoe syr'te>)で作られると語ったとき、トロツキーは、この意識を典型的に示していた。
人間の労働は、マルクスが賛えた創造的な力から全くかけ離れて、現実には、国家が「社会主義を建設する」ために使う材料にすぎなかった。
このような倒錯は、出発時点から、システムに内在していた。
Gorky は、彼が1917年に「労働者階級は、レーニンにとっては金属加工業者のための鉱石のようなものだ」と書いたとき、このことをすでに予見していた。(*4)//
(6)内戦での経験によって、ボルシェヴィキ指導者たちの労働者階級との関係についての自信が増大する、ということは全くなかった。
食糧不足のために、労働者たちは小取引者となり、一時的な農民になって、工場と農場の間を動き回った。
労働者階級は、漂泊民になっていた。
工業は、工場労働者が地方からの食糧を買いに旅行するために半分はいなくなって、混乱に陥った。
工場にいる労働者たちは、農民たちと交換取引をするための単純製品を作って時間のほとんどを費やした。
需要が大きい熟練の技術者たちは、より良い条件を求めて工場から工場へと渡り歩いた。
生産高が、革命前の水準のごく一部にまで落ち込んだ。
最重要の軍需品工場群ですら、事実上は休止状態になった。
労働者の生活水準が悪化するにつれて、ストライキや意図的遅延が常態化してきた。
1919年の春のあいだ、ストライキが全国的に勃発した。
都市のほとんどもまた、無関係ではなかった。
食糧を十分に供給できるところは全て、ストライキ実行者が要求する表の最上位を占めた。
ボルシェヴィキは、弾圧でもって答えた。多くはメンシェヴィキ支持者だと嫌疑をかけた数千の実行者を逮捕し、射殺した。(*5)//
(7)イデオロギー上の理由で市場を拒絶していたので(原注+)、ボルシェヴィキは、その刺激なくしては、実力による脅迫以外には労働者に影響力を行使する手段をもたなかった。
〔原注+/トロツキーは1920年に、NEPに似た市場改革の暫定案を提示した。しかし、中央委員会はそれを却下した。彼はただちに軍事化政策へと立ち戻った。自由取引によるのであれ強制によるのであれ、経済の復興が必要だった。〕
ボルシェヴィキは、高い賃金という報償を与えることで生産を高めようとした。その報償はしばしば出来高と連結していて、異なる賃金支払いを排除するという革命の平等主義的約束へと戻ることになった。
しかし、労働者は紙幣で多くの物を購入することはできなかったので、これは大した誘因とはならなかった。
労働者を工場にとどめておくために、ボルシェヴィキは、現物で支払うことを強いられた。—食糧そのものか、または農民との交換に使うことのできる工場の製品のいずれかで。
地方ソヴェト、労働組合および工場委員会は、 このような方法で労働者に支払う許可を求めて、モスクワを攻めたてた。そして、自分の権限でそのように行った。
1920年までに、工場労働者の大多数は、自分たちの生産物の分け前で、部分的には支払われていた。
労働者たちは、紙幣ではなく、釘が入ったバッグ、一ヤードの布を家に持って帰り、食料と交換した。
意図されないかたちで、計画経済の中心で、初期的な市場がゆつくりと再び出現していた。
この自発的な動きが阻止されないままであったなら、中央行政は国の資源の統制権を失い、そして生産を支配する権力も失っていただろう。
1918-19年にこの動きを止めようとしたが失敗して、1920年以降は、止めるのではなく、労働者が不可欠で重要な工業に従事することが確実であるかぎりで、この自然な支払いを組織化しようとした。
これが、重工業の軍事化の土台となった。戦略上重要な工場は、戒厳令が布かれることになる。労働者は赤軍の配給を保障されることになるが、その代わりに、作業現場には軍事的紀律が導入され、「工業前線」での脱走により射殺された者がいたために常時欠勤者があった。
その年の末までには、主として軍需と鉱山の3000の企業が、このようにして軍事化された。
兵士は労働者へと変わっていき、労働者は兵士へと変わっていった。//
(8)これと結びついていたのは、一部は労働者により選出された合議制の経営委員会から、党階層により任命されるのが増えていた独任制管理者による単独経営へという、権力の一般的な移行だった。
トロツキーは、選挙される軍事司令官から任命されるそれへの変化を引き合いに出して、これを正当化した。この変化が、内戦での赤軍の勝利の根源だったのだ、と。
新しい経営者たちは、自分たちは工業軍の司令官なのだと考えた。
彼らは、労働組合の諸権利は、軍での兵士委員会がかつてそうだったのと同じく、工業の規律と効率性に対する煩わしくて不要な邪魔物だと見た。
トロツキーは、労働組合の党・国家装置への完全な従属を主張するまでにすら至った。このとき以降、「労働者の国家」には、労働者が自分たちの自立した組織をもついかなる必要も、もはやなくなった。(*6)//
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②へとつづく。