Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 =O·ファイジズ・人民の悲劇—ロシア革命・1891-1924
 この書に、邦訳書はない。試訳のつづき。p.804-7。一文ずつ改行。
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 第三節・レーニンの最後の闘い⑤。
 (27)レーニンが死にかけていることを、一般国民は知らされなかった。
 プレスは最後まで、レーニンは深刻な病気から回復しつつあると報告しつづけた。—深刻な病気ならば、死を免れない人間は死んでしまうだろう。
 体制は、この「奇跡の回復」を考え出すことで、レーニン崇拝(cult)を生き続けさせようとした。体制自体の正統性意識が、ますますこれに依存してきていたのだ。
 「レーニン主義」という語が、1923年に初めて使われた。
 三頭体制は、「反レーニン主義者」であるトロツキーに対抗する真の防衛者だと自己宣伝しようとした。
 その同じ年に、正統派の聖典であるレーニン全集の初版の刊行が始まり(<Leninskii sbornik>)、レーニン研究所が設立され、レーニンに関する資料館、図書館および博物館が完成した。
 洪水のごとく聖人伝が刊行されたが、その主な目的は神話と伝説を作り出すことだった。—貧しい農民または労働者だったレーニン、動物や子どもが好きなレーニン、人民の幸福を目指した勤勉な労働者としてのレーニン。それらは、体制をより民衆的なものにするのに役立ったかもしれない。
 莫大な数のレーニンの肖像写真が公共建築物の正面に現われ始めたのも、このときからだった。
 モスクワのある公園には、花壇用草花で作られたレーニンの「生きている肖像」すらがあった。一方で、多くの工場や役所の内部には、彼の偉業を解説する公認の写真や資料が置かれた。(*48)
 人間のレーニンは死んだ。そして、神のレーニンが生まれた。
 彼の個人的生涯は国有化された。
 それは、スターリン主義体制を神聖なものにするための、聖なる装置だつた。//
 (28)1924年1月21日、レーニンは死んだ。
 午後4時に大きな脳発作があり、昏睡に入って、午後7時すぐ前に死亡した。
 家族と付添医師を除けば、レーニンの死を看取った唯一の者は、ブハーリンだった。
 彼は1937年に、自分の生命を守ろうとして、レーニンは「自分の腕の中で死んだ」と主張した。(*49)
 (29)クレムリンは翌日、開会中の第11回ソヴェト大会の代議員たちに向けて、発表した。
 会場からは叫びと嗚咽の声が聞こえた。
 おそらくは予期していなかったのが理由だが、公衆は純粋な悲しみの表情を見せた。
 劇場や店舗は、一週間閉鎖した。
 赤と黒のリボンで飾られたレーニンの肖像写真が、多数の窓に掲示された。
 農民たちが、最後の敬意を示すべくGorki の家にやって来た。
 数千の弔問者たちが、北極地方の寒さを物ともせず、レーニンの遺体が運び込まれたthe Hall of Columns まで、Paveletsky 駅からモスクワの通りを並んだ。
 つぎの三日間、50万の人々が数時間かかって、棺台の側を通りすぎた。
 数千の花輪と哀悼の飾り物が、学校や工場、連隊や軍艦、ロシアじゅうの町や村から送られてきた。
 のちに葬礼のあとの数ヶ月、レーニンの記念碑や像を建立する狂ったような動きがあった(Volgograd のそれはレーニンを巨大なネジの上に立たせた)。街路や施設が、彼にちなんで改称されたのも同様だった。
 ペテログラードは、レニングラードと改称された。
 工場全体が、入党を誓約した。—ある煽動家は、それが「逝去した指導者に対する最大の花輪だ」と言った。そして、レーニン死後の数週間で、10万人のプロレタリアートが、いわゆる「レーニン登録」に署名した。
 西側の多数の報道記者たちは、この「全国民的な服喪」は体制に対する「信頼へのpost-modern な票決」だと見た。
 別の者は、多年の苦しみの後で集団的に悲しみを吐き出して解放するものだとした。
 説明し難いことだが、人々はヒステリックに嗚咽し、数百人が気絶した。
 おそらくは、レーニン崇拝がすでに始まっていたことを示している。どれほどレーニン体制を嫌悪していても、かつて支配階級(boyars)を侮蔑しつつも「父なるツァーリ」を愛したのとちょうど同じように、「神なるレーニン」をなおも愛したのだ。//
 (30)レーニンの葬儀は、つぎの日曜日に、摂氏零下35度の寒さの中で行われた。
 スターリンが、the Hall of Column から赤の広場まで、開いた棺を運ぶ儀礼兵たちを引き連れた。赤の広場にある木製の基台の上に、それは置かれることになつていた。
 ボリショイ劇場楽団がショパンの葬送行進曲を演奏し、古い革命歌の「You Fell Victim」とインターナショナルが続いた。
 そして、6時間のあいだ次から次への隊列が、約50万人とされる人々の中を、陰鬱な静けさの中で、幕を下げながら、棺とともに分列行進をした。
 午後4時ちょうど、棺が保管室へとゆっくりと下されたとき、サイレン、工場の時笛、機関砲、銃砲がロシアじゅうに鳴り響いた。それはまるで、巨大な国家的悲嘆を放出させるがごとくだった。
 ラジオではただ一つのメッセージだけが読み上げられた。「同志たちよ、起立せよ。Ilich が墓所へと下されている」。
 そして、静寂があり、全てが止まった。—列車、船、工場。ラジオが、「レーニンは死んだ。しかし、レーニン主義は生きている」ともう一度伝えるまで。//
 (31)レーニンはその遺書で、ペテログラードの母親の側に埋葬してほしいと表明していた。
 それは彼の家族の望みでもあった。
 しかし、スターリンは、レーニンの遺体を保存したかった。
 彼がレーニン崇拝を存続させつづけるべきだとすれば、「レーニン主義は生きている」ことを証明しなければならないとすれば、レーニンの遺体は展示されなければならなかった。聖人たちの遺物のように、腐敗することのないよう処理された遺体が。
 スターリンは、トロツキー、ブハーリン、カーメネフの反対を押し切って、その案を政治局が承認するよう強いた。
 保存という考えが浮かんだ契機の一つは、1922年のツタンカーメンの墓の発見だった。
 <Izvestiia>で、レーニンの葬礼は、「古代の偉大な国家の創設者」のそれに喩えられた。
 しかし、おそらくは、ロシア正教の典礼についての、スターリンによるByzantine 式の解釈によるところが大きいだろう。
 スターリンの計画に恐れ慄いたトロツキーは、それを中世の宗教的狂信に喩えた。
 「中世には、Sergius of Radonezh やSeraphim of Sarov の聖跡があった。今は、これらをVladimir Ilicch の遺体に代えようとしている。」
 最初は、凍結の方法でレーニンの遺体を保存しようとした。
 だが、遺体はすぐに腐食し始めることが判った。
 2月26日、レーニンの死から5週間のちに、科学者の特別チーム(「不朽化委員会」として知られる)が任命された。その任務は、防腐用液体を見出すことだった。
 数週間を働きつづけて、科学者はついに、グリセリン、アルコールおよび他の化学物質を含むとされる解決方式にたどり着いた(正確な構造はいまもなお秘密のままにされている)。
 レーニンの塩漬けの遺体は、赤の広場のクレムリンの壁近くのクレムリン木造地下室に置かれた。—のちに、今日も現存する御影石の廟に移された。
 それが一般に公開されたのは、1924年8月だった。//
 (32)レーニンの脳は遺体から取り除かれ、レーニン研究所へと移された。
 その脳は、「天才の実体」を発見する責務を負った研究者たちの研究に供された。
 彼らは、レーニンの脳は「人間の進化の高い段階」を表現していることを示すことになっていた。
 3万の切片へと薄切りされて、慎重に検査できる状態でガラス板の間に保管された。そして、将来の世代の科学者たちは、それらを研究して本質的秘密を発見することになるだろう。
 その他の「明白な天才たち」—Kirov、Kalinin、Gorky、Mayakovsky、Einstein およびスターリン自身—の脳は、のちにこの大脳収集物の中に加えられた。
 これらが、今日もなおモスクワにある脳研究所を形成した。
 1994年に、レーニンについての最終的な検査結果が発表された。それは、レーニンの脳は完全に平均的な脳だ、というものだった。(*51)
 この結果は、ふつうの脳でもときには尋常でない行動を掻き立てることがある、ということを示していることになる。//
 (33)レーニンが死んでいなかったら、どうなっただろうか?
 NEP やレーニンの最後の文書は、異なる発展方向を提示しただろうか?
 歴史家は、まともには仮定の問題を扱うべきではない。ましてや、起こっただろうと(またはこの場合は、起こらなかっただろうと)予想してはならない。
 しかし、レーニンの後継者問題の帰結については、おそらく若干の考察を試みることが十分に許容されるだろう。
 結局のところ、革命の歴史のかなりの部分はスターリンのロシアで起きたことから遡って書かれてきたので、現実にはどのような選択肢があったのかとを問題にしてよい。//
 (34)第一に、スターリン主義体制の基本的な要素—一党国家、テロルのシステム、個人崇拝—は、すでに1924年までに全て存在した。
 党の諸機構は、その大部分が、スターリンの手中にある従順な道具だった。
 地方の幹部たちの大部分は、内戦中に組織局の長であるスターリンが任命していた。
 彼らは専門家や知識人に対する卑俗な嫌悪感を共有し、プロレタリアの連帯とロシア・ナショナリズムを説くスターリンのレトリックの影響を受けた。そして、イデオロギー上のほとんどの問題について、自分たちの偉大な指導者に従うつもりだった。
 結局、彼らはかつてのツァーリの臣民だったのであり、党の「民主主義的」改革を目指すレーニンの最後の闘いは、この基礎的な文化を変えることができそうになかった。
 彼が提起した改革は全く官僚制的なもので、独裁制の内部構造の改革にだけ関係があった。そして、そのようなものだったので、NEPの本当の問題に向かうことができなかった。つまり、体制と社会、とくに征圧されていない農村地帯、の間の緊張した関係。
 真の民主主義化がなく、ボルシェヴィキの支配する姿勢の根本的な変化がなく、NEP は必ずや失敗する運命にあった。
 経済的自由と独裁制は、長期的に見れば併立し難いものだ。//
 (35)第二に、他方で、レーニンの体制とスターリンのそれとの間には基礎的な違いがあった。
 初期の頃は、党員が殺戮されることはほとんどなかった。
 そして、分派が禁止されたにもかかわらず、党にはまだ同志的な論議をする余地があった。
 トロツキーとブハーリンは、NEP の戦略を情熱的に議論し合った。—前者のトロツキーは、市場システムの破綻が工業化の減速をもたらす畏れがある場合の農民からの食糧の搾取につねに賛成したが、後者のブハーリンは、市場を基礎にした農民との関係を維持するために工業化が減速するのを認める方を好んだ。
 しかし、これはまだ知識人的な論議であり、二人ともに、NEP の支持者だった。そして、このような違いがあっても、二人ともに、こうした議論を互いに殺戮し合い、論敵をシベリアへと追放するための口実に用いるなどとは、夢にも考えなかっただろう。
 スターリンだけが、これをすることができた。
 彼だけは、トロツキーとブハーリンが政治的な論議と対立に夢中になっているので、自分は片方を使ってもう片方を破壊することができる、と見た。//
 (36)この意味で、スターリンの役割は、それ自体がきわめて重大(crucial)だった。—彼がいなければ、レーニンの役割がそうだったように。
 もしも、レーニンが最後の脳発作で1923年の党大会で発言することができなくなる、ということがなかったなら、今日ではスターリンの名前は、ロシアの歴史書の、脚注にだけ現われていただろう。
 しかし、「もしも(if)」は、かりにお望みならば、神の摂理(providence)のうちにある。この書は歴史であって、神学ではない。//
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 第三節⑤、終わり。第16章(最終章)も、終わり。