レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由・名声・ 嘘つき・背信—日常生活に関するエッセイ(1999)
 =Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999)。
 試訳のつづき。順序どおり、第四章「嘘つきついて」へと進む。
 この書に邦訳書はない。一文ごとに改行し、段落の区切りを//と原初にはない数字番号で示す。
 第8段落の中途で区切る。
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 第四章・嘘つきについて(On Lying)①。
 (1)偽りの情報の意図的な伝搬は、言ってみれば、物事の自然な状態の一部だ。
 蝶々は鳥に言う。「でも、私は本当は蝶々ではなく、枯葉にすぎない」。
 ハチは巣箱を守る蜜蜂に言う。「でも、私は本当はハチではなく、蜜蜂だ。…蜜蜂くんよ、きみは自分で見て分かる。」
 ハチは学者ふうに付け加える。「嗅覚器官の助けを借りてだ」。
 (どうやら、本当にこういうことをする多種のハチがいるらしい。)
 虚偽のこれら二つの類型の間にある違いは、ただちに明らかになる。
 我々は、食ぺられてしまいそうな捕食者から枯葉のふりをすることで自分を守ろうとしているという理由で、蝶々を称賛する。
 一方で、巣箱に入って蜜蜂の懸命の労働の成果を奪うために蜜蜂のふりをしているだけだという理由で、ハチを非難する。//
 (2)人々が語るウソについて、我々は類似の道徳的判断をする。あるものには衝撃を受け、別のものは正当だと見える。
 ある哲学者たち、とくにカントとSt. Augustine は、どんな環境条件でもウソをつくのは厳格に禁止されるという極端に道徳的な立場を擁護した。
 しかし、どんな環境条件でもウソをついてはならないとする道徳的命令は、実現されそうにないというだけではない。
 一定の環境条件のもとでは、その命令は仲間に対する親切さのような別の命令と、あるいは公共の利益と矛盾し得る。
 当然に戦争が、一つのそのような環境条件として思い浮かぶ。敵を欺くことは、交戦方法の本質的部分なのだから。外交や事業でもそうだ。
 しかし、現実の生活から採った最も単純な事例は、第二次世界大戦の間の占領期間にある。もしユダヤ人があなたの家に隠れていて、SSがその人物を探してドアを叩いたとき、あなたは、あるいは良心を一片でも持つ誰でも、ウソをついてはならないという高貴な命令に従って、そのユダヤ人を確実な死へと引き渡すか?//
 (3)政府はその国民に対して、しばしばウソをつく。直接的にか、割愛することで。
 批判を回避し、過誤や非行を隠蔽するために、しばしばそうする。
 しかしながら、純粋に国民の利益となっているために、政府のウソを正当化し得る場合がある。
 秘密が保持されなければならない国家の安全保障の諸問題は別とすると、このようなウソは経済に関係しているかもしれない。例えば、政府が通貨切り下げを意図しているとき、質問されてもそのような意図を完全に否定しなければならない。そうでなければ、簡単に獲物を得ようとしてバッタのように群がる金融投資家によって、その国は多大な損失を被るだろう。//
 (4)さらに、虚偽と、適宜の判断や思慮深さという社会的美徳の間には、しばしば微妙な差しかない。しかし、ウソがなければ社会生活は実際よりもはるかに悪くなると、我々はみんな認めるだろう。真実という清潔な空気を吸うどころか、がさつで野暮な世界で窒息するだろう。
 我々は、つねに真実を、あるいは本当であれ間違いであれ真実だと考えることを語って、正しさを主張する者たちを高く評価しはしない。そういう者たちを、無骨者と呼ぶ。//
 (5)より複雑で頻繁に論議された問題は、死期に入っている病人に対処している医師の正直さに関係する。
 患者の状態に希望がないことをその両親に告げないとすれば、その医師は、直接的であろうと省略によってであろうと、ウソをついている。
 国によって習慣は異なっており、賛成や反対の論拠を見つけるのは困難ではない。
 しかし、そのような論議は総じて、人道主義(humanitarian)の原理に対する、そして、真実それ自体の価値ではなく両親や家族の利益に対する、訴えかけを含んでいる。//
 (6)要するに、良識が我々に語るのは、ウソつきが良い動機で行われる環境条件がある、ということだ。
 問題は、我々自身の利益となる全てを包含するまでに広げることなく、「良い動機」(good cause)をどのように定義するかだ。
 我々にとって有利な全てのことが、他の誰にとっても「良い動機」であるとは限らない。かつまた、想像し得る全ての動機を含むような定義を思いつくのも困難だ。//
 (7)ウソをついてはならないという厳格な道徳的命令の擁護者たちは、好ましいと感じるときはいつでも、あるいは都合が好いと思えるときはいつでも、全ての者がウソをつくとすれば、他の人々に対する我々の信頼は完全に崩壊してしまうだろう、と主張する。信頼は、秩序ある社会での我々の共存にとって不可欠の条件なのだ。
 この擁護者たちは、こう付け加える。誰も別の誰かが言ったことの全てを信じないのだから、ウソつきはつねに、自分のウソに裏切られることになる、と。//
 (8-1)これはそれ自体は不合理な議論ではないが、ウソをついてはならないという絶対的な道徳的命令を正当化するものとしては、なおも説得力に欠ける。
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 ②へとつづく。