レシェク・コワコフスキ/Leszek Kolakowski・自由、名声、 嘘つき、背信—日常生活に関するエッセイ(1999)。
=Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999)。
試訳のつづき。この書に邦訳書はない。一文ごとに改行し、段落の区切りを//と原書にはない数字番号で示す。
——
第三章・平等について(On Equality)②。
(9)私が述べた意味で我々が平等だということから、法の下での不平等は人間の尊厳とはじつに反対のものだ、ということが導かれる。
しかしながら、財物の平等な配分という意味での平等を要求する権利を我々はもつ、ということを導くことはできない。
このような平等は、もちろんしばしば公然と主張されている。先ずは中世のある宗派によって、のちにフランス革命期のジャコバン左翼(the Jacobin left)によって。そして、19世紀以降は、社会主義運動の多様な集団によって。
この理由づけは、簡単だ。すなわち、人間は平等だから、全員が地上の全ての財物を分かち合うのがふさわしい。
じつに、いくつかの平等主義(egalitarianism)では、平等には最高の価値があるがゆえに、最も貧しい者も含む全員がより悪くなる場合であっても、目標地点が残りつづけなければならない、と想定されていた。
最も貧しい者ですら以前よりもさらに貧しくなる、といったことを気にしてはならない。誰もが他の誰よりも良くなってはならないというのが、ここでの主要な関心事なのだ。
しかし、この理由づけは、間違っている。
このようなイデオロギーは、人間の運命を良くすることには関心がなく、たんにある者の運命が他の誰かよりも良くはならないことを確実にすることにのみ、関心がある。
公正という意識にではなく、嫉妬心に刺激(inspire)されているのだ。
神がロシアの農民にこう言ったという逸話がある。「おまえが欲しい何でも与えよう。だが望んで受け取ったものが何であっても、おまえの隣人はその二倍のものを得るだろう」。
そうすると、その農民は答える。「神よお願いだから、私の眼を一つ引き抜いて下さい」。
ここに、本当の平等主義がある。//
(10)しかしながら、この平等という理想は、実現するのが不可能だ。
かりに実践に移されるとすれば、経済全体が全体主義的統制に服従しなければならないだろう。
全てが、国家によって計画化されなければならないだろう。
もはや誰にも、国家の命令に従う場合を除いて、いかなる種類の活動を企てることも許されないだろう。
そしてやがて、強制されないかぎりは、自ら努力するいかなる理由もなくなってしまうだろう。
その結果、経済全体が崩壊するだろう。だが、そこに平等がなおもあるのではない。
我々が経験上知っているのは、全体主義体制では不平等は不可避だ、ということだ。なぜなら、統治する者たちは、かりにいかなる社会的統制にも服していないとしても、つねに物質的な財物についてのライオンの取り分を自分のものにしておくだろうから。
彼らはまた、非物質的であって、より重要でないとしても、同等である情報への接近や統治への参加のような、その他のものの統制を行うだろう。
これらは、大多数の民衆が到達し得ないものになるだろう。
かくして、最終的な結末は、窮乏と抑圧の両方だ。//
(11)もちろん、財物の配分に際しての平等を、修道院やキブツ(kibbutz)で行われているように、自発的な制度によつて達成することができないかどうかを、問題にすることはできる。
答えは、簡単だ。そのような制度が物理学や化学のいかなる法則をも破らないという意味では、可能だろう。
しかし、不幸なことに、そのような制度は、我々が人間の行動について、少なくともその典型的様相について知っている全てに矛盾するだろう。//
(12)しかしながら、こう言うことは、財物の配分に際しての不平等は、とくに大規模の恐ろしい貧困があるところでは、深刻で憂慮しなければならない問題ではない、と示唆しているのではない。
進歩的な税制はこの不平等さを緩和する最も有効な方法だとこれまでに判ってきた。しかし、ある点を超えると、その税制も、富者にとってと同様に貧者にとっても不利になって、経済に対してきわめて悪い効果をもつ。
したがって、我々は、経済生活に関する一定のルールを安易になくしてしまうことはできない、ということを認めなければならない。
もちろん、文化的(decent)な生活と称するものの基本的部分を我々が享受することが可能であるべきなのは、きわめて重要だ。例えば、食料、着る衣類、家、医療の利用、子どもの教育。
文明諸国家では、こうした原理的考え方は、完全には実現されていないとしても、一般に承認されている。
しかし、財物の配分の完全な平等を達成しようとする全ての試みは、災難を生む処方箋だ。—全ての人々にとって。
市場は公正でないかもしれないが、それを廃棄することは、困窮と抑圧につながる。
他方で、人間の尊厳のうちの平等は、そしてそれから生じる権利と義務の平等は、我々が野蛮状態へと堕落してはならないとすれば、本質的に重要な必要物だ。
それがなければ、例えば、異なる人種や民族を何事もなく根絶することができると、決することができるだろう。同じく、女性に男性と同じ公民的権利を認めるのは理由がないとか、社会のために役に立たない老人や身体的弱者はさっさと殺してしまえばよいとか、等々と。
平等に対する我々のこの考え方は、我々の文明を守るだけではない。これは、我々を人間(human being)にするものだ。
——
第三章、終わり。
=Freedom, Fame, Lying and Betrayal -Essays on Everyday Life-(Westview Press, 1999)。
試訳のつづき。この書に邦訳書はない。一文ごとに改行し、段落の区切りを//と原書にはない数字番号で示す。
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第三章・平等について(On Equality)②。
(9)私が述べた意味で我々が平等だということから、法の下での不平等は人間の尊厳とはじつに反対のものだ、ということが導かれる。
しかしながら、財物の平等な配分という意味での平等を要求する権利を我々はもつ、ということを導くことはできない。
このような平等は、もちろんしばしば公然と主張されている。先ずは中世のある宗派によって、のちにフランス革命期のジャコバン左翼(the Jacobin left)によって。そして、19世紀以降は、社会主義運動の多様な集団によって。
この理由づけは、簡単だ。すなわち、人間は平等だから、全員が地上の全ての財物を分かち合うのがふさわしい。
じつに、いくつかの平等主義(egalitarianism)では、平等には最高の価値があるがゆえに、最も貧しい者も含む全員がより悪くなる場合であっても、目標地点が残りつづけなければならない、と想定されていた。
最も貧しい者ですら以前よりもさらに貧しくなる、といったことを気にしてはならない。誰もが他の誰よりも良くなってはならないというのが、ここでの主要な関心事なのだ。
しかし、この理由づけは、間違っている。
このようなイデオロギーは、人間の運命を良くすることには関心がなく、たんにある者の運命が他の誰かよりも良くはならないことを確実にすることにのみ、関心がある。
公正という意識にではなく、嫉妬心に刺激(inspire)されているのだ。
神がロシアの農民にこう言ったという逸話がある。「おまえが欲しい何でも与えよう。だが望んで受け取ったものが何であっても、おまえの隣人はその二倍のものを得るだろう」。
そうすると、その農民は答える。「神よお願いだから、私の眼を一つ引き抜いて下さい」。
ここに、本当の平等主義がある。//
(10)しかしながら、この平等という理想は、実現するのが不可能だ。
かりに実践に移されるとすれば、経済全体が全体主義的統制に服従しなければならないだろう。
全てが、国家によって計画化されなければならないだろう。
もはや誰にも、国家の命令に従う場合を除いて、いかなる種類の活動を企てることも許されないだろう。
そしてやがて、強制されないかぎりは、自ら努力するいかなる理由もなくなってしまうだろう。
その結果、経済全体が崩壊するだろう。だが、そこに平等がなおもあるのではない。
我々が経験上知っているのは、全体主義体制では不平等は不可避だ、ということだ。なぜなら、統治する者たちは、かりにいかなる社会的統制にも服していないとしても、つねに物質的な財物についてのライオンの取り分を自分のものにしておくだろうから。
彼らはまた、非物質的であって、より重要でないとしても、同等である情報への接近や統治への参加のような、その他のものの統制を行うだろう。
これらは、大多数の民衆が到達し得ないものになるだろう。
かくして、最終的な結末は、窮乏と抑圧の両方だ。//
(11)もちろん、財物の配分に際しての平等を、修道院やキブツ(kibbutz)で行われているように、自発的な制度によつて達成することができないかどうかを、問題にすることはできる。
答えは、簡単だ。そのような制度が物理学や化学のいかなる法則をも破らないという意味では、可能だろう。
しかし、不幸なことに、そのような制度は、我々が人間の行動について、少なくともその典型的様相について知っている全てに矛盾するだろう。//
(12)しかしながら、こう言うことは、財物の配分に際しての不平等は、とくに大規模の恐ろしい貧困があるところでは、深刻で憂慮しなければならない問題ではない、と示唆しているのではない。
進歩的な税制はこの不平等さを緩和する最も有効な方法だとこれまでに判ってきた。しかし、ある点を超えると、その税制も、富者にとってと同様に貧者にとっても不利になって、経済に対してきわめて悪い効果をもつ。
したがって、我々は、経済生活に関する一定のルールを安易になくしてしまうことはできない、ということを認めなければならない。
もちろん、文化的(decent)な生活と称するものの基本的部分を我々が享受することが可能であるべきなのは、きわめて重要だ。例えば、食料、着る衣類、家、医療の利用、子どもの教育。
文明諸国家では、こうした原理的考え方は、完全には実現されていないとしても、一般に承認されている。
しかし、財物の配分の完全な平等を達成しようとする全ての試みは、災難を生む処方箋だ。—全ての人々にとって。
市場は公正でないかもしれないが、それを廃棄することは、困窮と抑圧につながる。
他方で、人間の尊厳のうちの平等は、そしてそれから生じる権利と義務の平等は、我々が野蛮状態へと堕落してはならないとすれば、本質的に重要な必要物だ。
それがなければ、例えば、異なる人種や民族を何事もなく根絶することができると、決することができるだろう。同じく、女性に男性と同じ公民的権利を認めるのは理由がないとか、社会のために役に立たない老人や身体的弱者はさっさと殺してしまえばよいとか、等々と。
平等に対する我々のこの考え方は、我々の文明を守るだけではない。これは、我々を人間(human being)にするものだ。
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第三章、終わり。