Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.798-p.801. 一文ずつ改行。
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 第三節・レーニンの最後の闘い③。
 (13)レーニンの最後の覚書は、三つの主要問題にかかわっていた。—いずれの点についてもスターリンが元凶だった。
 第一はジョージア案件で、ロシアは国境民族国との間のどのような統一条約に署名すべきかという問題だった。
 スターリンは、ジョージア出自であるにかかわらず、レーニンが内戦中に大ロシア民族排外主義だと批判したボルシェヴィキたちの先頭にいた。
 党内のスターリン支持者のほとんどは、同等に帝国主義的見方をもっていた。
 彼らは、国境地帯やとくにウクライナのロシア労働者による植民地化、原地の農民集団(小ブルジョア民族主義者)の抑圧を、共産主義権力の促進と同一視した。
 民族問題担当人民委員として、スターリンは9月遅くに、それまでに存在した三つの非ロシア共和国(ウクライナ、ベラルーシ、トランスコーカサス)は自治地域をもたず、中核的権限をモスクワの連邦政府に譲って、ロシアに加わらなければならないと提案していた。
 スターリンの提案は「自律化計画」と称されるようになったが、 ツァーリ帝国の「統一した唯一のロシア」を復元させるものだっただろう。
 それは、レーニンが連邦的統合計画の策定をスターリンの仕事として割り当てたとき、彼が想定していたものでは少しもなかった。
 レーニンは、ロシアに対する非ロシア人の歴史的な不満を正当なものと見ていた。そして、広範な文化的自由と同盟から離脱する正規の権利を(どのような意味であれ)もつ、(大きな民族集団には)「主権」共和国の地位を、(小さな民族集団には)「自治」共和国の地位を認めることで、これを宥和する必要があると強調した。//
 (14)スターリンの案は、ジョージアのボルシェヴィキたちによって激しく反対された。民族的権利を譲歩して、自分たちは脆弱な政治的基盤を樹立しようとしていることになる。
 スターリンとその仲間のジョージア人、モスクワのコーカサス局長のOrdzhonikidze はすでに1922年3月に、ジョージアの指導者たちの意見とは大きく異なり、ジョージアをアルメニアとアゼルバイジャンとともにトランスコーカサス連邦へと統合させていた。
 ジョージアの指導者たちは、スターリンとその子分はジョージアを彼らの領地のごとく扱い、自分たちの気持ちを踏みにじっていると感じた。
 彼らは自律化計画を拒否し、モスクワが押し通すならば脱退すると脅かした。(+)
 (+原書注記)—その他の共和国の反対は、より慎重なものだった。ウクライナはスターリンの提案に関する意見を提出するのを拒み、べラルーシはウクライナの決定に従うつもりだと言った。//
 (15)レーニンが介入したのは、この点だった。
 彼はまず初めに、スターリンの側に立った。
 スターリンの提案は望ましいものではなかったけれども—のちに1924年に批准されてソヴィエト同盟条約となる連邦的同盟のために諦めるよう、レーニンは強く主張した—、ジョージアが最後通告を発したのは間違いだった。彼はそのように、10月21日の電話で怒って告げた。
 その翌日、ジョージア共産党の中央委員会全員は、抗議して辞職した。
 このようなことは、党の歴史上かつてなかった。
 しかしながら、11月遅くから、レーニンが概してはスターリンに反対し始めていたとき、彼の見地が変わった。
 ジョージアからの新しい証拠資料によって、レーニンは再考した。
 レーニンは、Dzerzhinsky とRykov が率いる事実解明委員会を、Tiflis に派遣した。彼はその委員会から、論議の過程でOrdzhonikidze が、傑れたジョージアのボルシェヴィキたちをひどい目に遭わせたことをことを知った(彼らはOrdzhonikidzeを「スターリン主義者のくそったれ」と呼んだ)。
 レーニンは、激怒した。
 それはスターリンが粗暴さを増しているとの彼の印象を確認するもので、ジョージア問題を異なる観点から考えるようになった。
 レーニンは、12月30-31日の党大会に対する文書で、スターリンを旧式のロシア民族排外主義者、「ごろつきの暴君」に喩えた。そのような者は、ジョージアのような小さい民族を苛めて従属させることができるだけで、ロシアの支配者に必要なのは「奥深い慎重さ、感受性」であり、かつ正当な民族的要求に対して「譲歩をする心づもり」だ。
 レーニンはさらに、社会主義連邦では、「現実にはある不平等を埋め合わせる」ためには、ジョージアのような「被抑圧民族」の諸権利は「抑圧者たる民族」(すなわちロシア)のそれよりも大きくなければならない、とすら主張した。
 1月8日の、彼の生涯の最後になる手紙で、レーニンはジョージアの反対派たちに、「私の全ての心を込めて」彼らの主張を支持するだろう、と約束した。(*38)//
 (16)その遺書でのレーニンの第二の主要な関心は、今ではスターリンの統制下にある党の指導機関の権力増大を阻止することにあった。
 彼自身の命令が至高のものだった2年前、レーニンは、党内での一層の民主主義と<glasnost>〔情報公開〕を求める民主主義的中央派の提案を非難していた。
 しかし、スターリンが大きな独裁者となった今では、レーニンが類似の案を提出した。
 彼は、党の下部機関にいる一般の労働者や農民から募った50名ないし100名を加えて、中央委員会を民主化することを提案した。
 レーニンはまた、政治局に説明責任を負わせるため、中央委員会はすべての政治局会合に出席し、それらの文書を調査する権利をもつ必要がある、と提案した。
 さらには、中央統制委員会は、Rabkrin と統合し、300名ないし400名の意識ある労働者の組織へと簡素化して、政治局の権力を調査する権利をもたなければならない、とも。
 このような提案は、時機に遅れた努力だった(多くの点でGorbachev の<perestroika>と似ていた)。党幹部と一般党員の間の広がる溝を架橋しようとし、社会に対する党の全面的な支配力を失うことなく、指導部をより民主主義的に、より公開的でより効率的にしようするものだったが。//
 (17)レーニンの最後の文書の最後の論点は—そしてはるかにかつ最も爆弾を投じたような効果があったのは—、後継者の問題だった。
 レーニンは、12月24日の覚書で、トロツキーとスターリンの対立への懸念を漏らしていた。中央委員会の規模を拡大しようと提案していた理由の一つは、ここにあった。—そして、まるで集団的指導制の擁護を覆すかのごとく、多数の党指導者たちの欠陥を指摘し始めた。
 カーメネフとジノヴィエフは、十月にレーニンに反対の立場をとったことで、批判された。
 ブハーリンは、「全党のお気に入りだ。しかし、その理論的見地は、留保付きでのみマルクス主義者だと分類することができる」。
 トロツキーについては、彼は「現在の中央委員会の中では、個人的には最も有能な人間だ。しかし、過剰な自信を示してきており、仕事の純粋に管理的な側面に過剰に没頭してきている」。
 だが、レーニンの最も破壊的な批判が用意されていたのは、スターリンについてだった。
 書記長になって、彼は「無制限の権力を手中に積み重ねてきた。だが、私には、彼が十分に慎重にこの権力を用いる仕方をいつも分かっているのかどうか、確信がない」。
 1月4日にレーニンは、つぎの覚書を付け足した。/
 「スターリンは粗暴すぎる。そしてこの欠点は、我々の間では我慢することができ、共産主義者の中では何とかあしらうことができるけれども、書記長としては耐え難いものになる。
 この理由で、私は、同志諸君がスターリンをその地位から排除して、つぎのような別の者と交替させることを考えるよう、提案する。その者は、同志スターリンよりもただ一つでも優れた点を、すなわち、寛容さ、忠誠さ、丁重さ、同志諸君への配慮をもつ、そして気紛れではないこと、等。」(*39)/
 レーニンは、スターリンは去らなければなないことを明瞭にしていた。//
 (18)レーニンの決意は、3月の最初にさらに強くなった。彼には秘密のままにされていたが、その頃、数週間前にスターリンとKrupskaya の間で起きたことを知ったからだ。
 12月21日にレーニンはKrupskaya に、外国通商独占に関するスターリンとの闘いでの戦術が勝利したことを祝うトロツキーへの手紙を、口述した。
 スターリンの情報提供者が、この手紙について知らせた。スターリンは、この手紙は自分に対抗するレーニンとトロツキーの「連合」の証拠だ、と捉えた。
 その翌日、スターリンはKrupskaya に電話をした、そして、彼女自身が述べるところでは、彼女に向かってレーニンの健康に関する党規則を破ったと主張し、中央統制委員会で彼女の取調べを始めると脅かして、「嵐のような粗野な雑言」を浴びせた(医師たちは彼女が口述聴取をするのを認めていたけれども)。
 受話器を置いたとき、Krupskaya の顔は蒼白になっていた。異様に興奮して泣きじゃくりながら、部屋を歩き回った。
 スターリンによるテロルの支配が始まっていた。
 3月5日にレーニンがこの事件についてやっと知らされたとき、彼はスターリンに対して、「粗暴さ」を詫びよ、さもないと「我々の関係は壊れる」危険がある、と要求する手紙を書き送った。
 権力をもって完全に傲慢になっていたスターリンは、無礼な返書で、死にゆくレーニンに対する軽蔑の気持ちをほとんど隠そうとしなかった。(+)
 〔(+原書注記)—1989年まで公表されなかった。〕
 スターリンはレーニンに思い起こさせた。Krupskaya は「あなたの妻であるだけではなく、私の古くからの同志だ」。
 二人の「会話」の間、自分は「粗暴」ではなかった、事件の全体が「愚かな誤解にすぎない。…」
 「しかしながら、あなたが『関係』の留保について考えると言うなら、私は上の言葉を『撤回』する。
 この全体がどのように想定されているのか、あるいはどこに私の『落ち度』があるのか、いったい何が正確には私に求められているのか、を理解することができないけれども、私は撤回することができる。」(*40)//
 (19)レーニンは、この事件で打ちのめされた。
 彼は一夜で病気になった。
 医師の一人は3月6日に、状態をこう記した。
 「Vladimir Ilich は、狼狽し、怯えた表情を顔に浮かべて横たわっている。目は悲しげで尋ねる眼差しがあり、涙が顔をつたって落ちている。 
 Vladimir Ilich は、取り乱し、話そうとするが、言葉が出てこない。
 そして、『しまった、畜生。昔の病気がぶり返した』とだけ言う。」
 3日後、レーニンは3回めの大きな脳発作を起こした。
 話す力を奪われ、そして政治のために働く力も奪われた。
 10ヶ月後に死ぬまで、一音節を発することができるだけだった。—<vot-vot>(「ここ、ここ」)、<s'ezd-s'ezd>(「大会、大会」)。(*41)//
 (20)レーニンは5月に、Gorki に移された。そこには医師団が、彼の世話をするために配置された。
 晴れた日には、レーニンは外に座っていたものだ。
 ある日、甥の一人が彼を見た。
 レーニンは「開襟の白い夏シャツを着て車椅子に座っていた。
 かなり古い帽子を頭にかぶり、右腕はいくぶん不自然に膝の上に置かれていた。
 私は空地の真ん中にはっきりと立っていたけれども、そうしてすら彼はほとんど気づかなかった。」 
 Krupskaya は彼に読んで聞かせた。—Gorky とTolstoy が最も慰めとなった。そして虚しくも、彼に話し方を教えようと頑張った。
 9月までには、杖と整形外科用の靴の助けを借りて、彼は再び歩くことができた。
 彼はときどき、車椅子を自分で押して地上を回った。
 モスクワから送られる新聞を読み始め、Krupskaya の助けで、左手を使って少しだけ書くことを学んだ。
 ブハーリンは秋に、レーニンを訪問した。のちに彼がBoris Nikolaevsky に語ったところによると、レーニンは、自分の後継者は誰かと、執筆できなかった論文を深く気にかけていた。
 しかし、彼が政治の世界に戻ってくるかは、問題ではなかった。
 政治家としてのレーニンは、すでに死んでいた。(*42)//
 ——
 ④へとつづく