Orlando Figes, A People's Tragedy -The Russian Revolution 1891-1924(The Bodley Head, London, 100th Anniversary Edition,2017/Jonathan Cape, London, 1996).
 試訳のつづき。p.789-p.791。一行ずつ改行。
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 第二節・征圧されない国②。
 (10)農村地帯の生活が全て暗黒だったのではない、というのは本当だ。
 NEP〔「新経済政策」〕のもとで、近代的世界の飾りつけが、ある程度は村落にも届き始めた。
 電気がやって来た。 
 Andreevskoe にすら1927年に初めて電線がつながり、Semelov の夢はついに実現した。
 レーニンは、ロシアの後進性に対する特効薬として、この新しい技術を激賞した。その有名な標語は、こうだった。
 「共産主義とは、ソヴェト権力プラス全国土の電化だ」。
 レーニンは電力を魔法の力と同一視したようだ。そして一度は、電灯は—またはその名を知られるようになった「小さなIlich灯」は—、農民小屋の聖像に取って代わるだろう、と予言した。
 ソヴィエトの情報宣伝活動では、電灯は近代化(enlightenment)のたいまつの象徴となった。暗黒が貧困と悪の暗喩であるように、電気の光は全ての良きものを喩えるものとなった。
 写真は、農民にとっては、光をもつ新しい電気の球体の、ほとんど宗教的不思議さをもつ驚愕物だった。
 レーニンが見たように、全国的な電気網は、離れた村落を都市の近代的文化へと統合するものだっただろう。
 後進国の農民ロシアは、工業の光によって暗黒から抜け出し、急速な経済成長、大衆的教育、手労働の退屈仕事からの解放、という輝かしい新しい未来を享有するだろう。
 これらの多くは、御伽噺(fantasy)だった。数世紀にわたる後進性は、たんに切り替えるだけでは克服できなかった。
 レーニンは、長い間夢想主義(utopianism)に批判的だったが、H. G. Wells が述べたように、「電気技師の夢想」の誘惑に屈して、ロシアに深く根ざして存在する社会問題を克服するために、技術を信頼した。(*23)//
 (11)1920年代には、農村地帯の文明化の別の兆候も見られた。
 病院、劇場、映画館、図書館が、田舎の地方に出現し始めた。
 NEP の時期には、広範囲で農業改良が見られ、農業革命と言えるまでに進んだ。
 地域共同体の農作を不効率にしていた狭い交雑した耕作〔帯状〕区画は、再整理されるか、または配分土地のほとんど1億ヘクタールにまで拡張された。
 西ヨーロッパで見られるような複数交替収穫が、全共同体土地のほぼ4分の1で導入された。
 化学肥料、選種、最新の道具類がますます農民に使われるようになった。
 日常の農作も近代化された。そして多くの農民が、野菜、亜麻、てん菜のような、市場向け栽培へと転換した。これらは、革命前には、もっぱら大土地所有者(gentry)の商業用農地でのみ栽培されていた。
 かつてこのような改革の先駆者だったSemenov は、地域の協同組合—都市部との商品交換用の組合と道具や家畜の購入時の信用供与目的の組合の双方—に喜んだことだろう。これらは、1920年代に、顕著に増加した。
 1927年までに、全ての農民保有土地の50パーセントが農業共同組合に帰属するものになった。
 このような改良の結果として、生産も着実に上昇した。
 1926年までに、農業生産は1913年の時点に再び達した。そしてつぎの2年間にそれを上回った。
 1920年代半ばの収穫高は、1900年代のそれよりも17パーセント多かった。ロシア農業のいわゆる「黄金時代」だ。(*24)//
 (12)教育の点でも、現実に前進があった。1900年代の傾向を再び取り戻して、1920年代にはいっそう多くの村落の学校が建設された。
 1926年までに、ソヴィエトの全人口の51パーセントは読み書きの能力があったと考えられている(1917年の43パーセント、1907年の35パーセントと比較せよ)。
 村落の中で最も向上したのは、若者たちだった。農民の息子たちはその20歳代初期に、彼らの父親の世代よりも2倍以上の人数が、読み書きできたと見られる。
 また一方で、同じ年代の若い農村女性たちは、彼女たちの母親の世代よりも5倍以上、読み書き能力があったようだ。
 こうした世代間格差の拡大は、人口動態上のものでもあり、文化的なものでもあった。
 1926年までに、農村人口の半数以上が20歳代以下になり、3分の2以上が30歳代以下になった。
 この者たちはたいてい、読み書きができた。
 彼らの多くは、兵役を通じて村落の外の世界を知った。
 長老農民たちの権威に抵抗し、稀にしか教会へ行かず、強い個人主義的感情を示した。この感情が追い求めたのは保有土地の分割で、1920年代の間に急速に進んだ。農民の息子たちが父親から離れて独立し、自分たちの土地保有を開始したのだ。
 農民の息子たちはまた、一族の長としての父親の地位を弱めて、農場の経営についての発言権をいっそう強めるようになった。(*25)
 ロシアの村落は、ボルシェヴィキが間違って考えたように、富者と貧者にさほどに分裂していたのではなかった。むしろ、父親たちとその息子たちの間に分裂があった。//
 (13)世代間の対立があったがゆえに、ボルシェヴィキは、落ち着かない若者たちの組織化を通じて、田園地帯への影響力を築くことができた。
 共産青年同盟(Komsomol)は、田園地域で、党以上に急速に拡大した。—1922年の8万人から、1925年までに優に50万人以上、地方のボルシェヴィキ党員数の3倍までに。
 共産青年同盟は、退屈した十代の村落の若者たちの社交クラブだった。
 この同盟は、教会と古い長老支配秩序に反抗する十字軍へと若者を組織した。
 その中から党に加入させることを通じて、野心的な青年たちに、自らを上昇させ、遅れた村落から離れることのできる可能性をも提供した。彼らの多くは遅れた村落を侮蔑して、都市の世界の輝く光に憧れていた。
 1920年代半ばでのVoronezh の最も農業的な地区の一つの共産青年同盟に関する調査によると、その構成員の85パーセントは農民家庭の出身だった。
 そして、わずか3パーセントだけが農業に従事したいと言った。
 1923年に、民族文化学のある学生は、Semelov がいたAndreevskoe から遠くないVolokolamsk にある村の同世代の者の考え方を、つぎのように概括した。/
 これは、若者たちが年配者に関して語ったことだ。
 「古い人々は馬鹿だ。
 彼らは働いて疲れるだけで、何も得るものがない。
 鋤で耕すこと以外に何も知らない。—これは全てを知らないということだ。…
 農場を放棄する。農作は利益を生まず、それに費やす労働に値しない。…」
 (若者たちは、)逃げ出したい。できる限り早く逃げ出したい。
 逃亡できるだけで、どこへでもよい。—工場、軍隊、大学、あるいは役人になる。—どこであっても、問題ではない。(*26)/
 Semenov とKanatchikov は、30年前に同じ考え方を記していた。
 村落がそこにいる若者たちによって拒絶されていること、これはボルシェヴィキが党員を獲得する、恒常的な源泉的基盤となったように見える。//
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 第2節②、終わり。