レフとスヴェトラーナ、No.28。
Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
試訳のつづき。p.162〜p.168。
**
第7章④。
(43) 〔1948年〕7月31日、スヴェータの母親が、三通の手紙を持って、モスクワから到着した。
スヴェータは手紙を開くとき、昂奮をほとんど抑えられなかった。
しかし、三つのうち最後の短い手紙を読んで、希望は失望に変わった。
レフはその年の出逢いの可能性を全て排除し、賢明に観察していたが、ほとんど無頓着に「たぶん1949年はより良い年でしょう」と書いていた。
スヴェータは立腹した—全てに。そして、レフにぶちまけた。
自分が必死の思いで彼を訪れようとしているのに、その一年全体を待とうとしているのが、理解できなかった。
絶望的になって、彼女は彼を叱った。何の確実さもなく、あなたと逢える
のを待ちつづけることができると考えているのか。
8月2日、スヴェータは書いた。
「レヴィ、気になる。分かっているの?
たくさんの『もしも、だけでも』がなかったならば、私にはどんなに良かったか、ということを。
あなたはこれに答えることができない。—質問ではなく、叱責です。」
8月9日になってようやく、彼女はレフに多数の言葉を使って書くことができた。
「私の気持ち(soul)が平穏で静かでなかったので(今でもそうでないけれど)、一週間、書かなかった。
ママがPereslavl' にいる私たちに会いに来て、あなたの手紙を持ってきたとき、再び、完全に、くずれ落ちました。
(これは、あなたは手紙を書くべきではなかった、と言っているのではない。)
私が早くペチョラに行かないようにする全ての分別ある大人に対して、休みをとるよう強く言うママに対して(全く正しいけれど)、腹を立てました。
でも、もちろん、ほとんどは私自身に対してです。30歳になって、自分で物事を決定しているべきなのです。
もっと早く急いであなたに逢わなかったことに、すぐに家に戻って研究所へ行って、仕事の旅行の手筈を整えなかったことに、怒りました。仕事旅行がまだ可能であればだったけど、今ではもう遅すぎます。
そして私は、煮えくり返っている。どうすべきか、分からない。」/
先の「叱責」が残酷と思われることを懸念して、スヴェータは、今はその意味を明確にした。
「前の手紙で、自分がいなければ私の人生はもっと良くなる、とあなたが決して考えないようにと、私はあなたを叱りました。
あの手紙を受け取っていない場合は、大事をとって、このことを繰り返します。」//
(44) スヴェータは、激しく、レフに逢いたかった。
彼の助言に従っていれば、さらにもう一年が、もう一度彼に逢わないままで過ぎてしまうだろう。
1949年、自分は32歳になる。
人生を開始するために、あとどのくらい長く待つことができるのか?
子どもをもつまで、どのくらい長い時間が必要なのか?
彼女は、レフと結びついていることの対価(cost)を分かっていた(彼は何度もこのことについて彼女に警告していた)。つまり、子どもをもてない可能性が大きくなっていた。
そしてときたま、とても耐えられない、と感じた。//
(45) スヴェータは、二通の「叱責」の手紙で、子どもの問題を提起していた。
彼女はレフに、叔父のNikita と行った会話について書いた。その会話で叔父は、誰も「生命を生む権利」を有しない、「人々は自分たちだけのことを考えて、利己的な理由で子どもをもつ」と語っていた。
スヴェータは「新しい生命は、世界により多くの良いことを生む可能性をもたらす」と答えた。
彼女は、Nikita は気の毒だと思った。なぜなら、「彼の息子に対してより安楽でより愉快な人生を保障することができなかったのに、息子に生を与えたという、罪悪感をもっている」。
答えは一人以上の子どもをもつことだ、スヴェータはそう結論づけた。
かりにNikitaに子どもがもう一人いれば、「年下の子ども、あるいはもっと良いけど年上の子どもがいれば、今頃は彼にはすでに、何人かの孫がいたでしょう。その孫たちは彼を見守り、彼の人生に意味を与えてくれたでしょう。そうであれば、あのような考えが彼の頭に入り込みはしなかったのです。
たぶん性別(gender)が違いの理由なのでしょう。
女性にとっては、愛して子どもをもてば、人生はすでに達成されている。
全ての(またはほとんど全ての)女性にとって、それは人生の中心目標なのです。公的生活や仕事等でいかほどにたくさんの様々な利益を得るかもしれないとしても。」
(46) スヴェータは、モスクワに戻ってもう一度、ペチョラへ旅しようと決意した。—それも、夏が終わる前に。
Natalia Arkadevna は、息子のGleb に逢うため、8月18日にペチョラに向かって出発することになつていた。
Nataliaとの間にはつぎの合意があった。スヴェータは、Natalia がペチョラのすぐ後でKirov への調査旅行へ行く費用を出すよう研究所を説得する。Natalia は、スヴェータの二回めの収容所訪問ができそうか否かを彼女に知らせるために、Kirov の郵便局へと電報を打つ。
時間は経っていったが、十分な準備なしで旅行することの危険は大きかった。
8月13日、スヴェータはレフに書き送った。
「一方では、可能性は毎日少なくなっています。
他方では、必要な取り決めを行っていないで旅行するのは不可能です。—そして、この取り決めの調整がとてもむつかしい。/
それで、N. A. が到着するのを待つこと—そうすると彼女が私に電報を打つことができる—が最も賢明な選択肢のように思えます。…
彼女は18日に出発する予定です。だから、19日より以前に電報を打つことができそうにありません。従って、私は20日までにKirov に行っている必要があります。
これ以上待つのは恐ろしい。
最良の手段を見つけることはできない。
たぶん、彼女と一緒に旅行するのが良かったのでしょう。でもその場合は、切符入手の問題が生じたかもしれません。
彼女から知らされていなければ、自分で危険を冒すだろうし、その場合は22日か23日に着くことになったでしょう。
もちろん、Kirov から電報を打ちます。でも、それでは時間的に間に合ってあなたに届かないかもしれません。
こんな計画を一切しないで、いつかお互いにもう一度逢うことができれば素敵です。
新しい時刻表(今年用)によると、列車は夜にはもう着かず、午前の10時と11時の間に着きます(I(Ivan Lileev—Nikolai の父親)によるとです)。でも、たぶんひどく困難ではないでしょう。
迎えにくる人がいなければ、直接に住居に行かずに、仕事中の人(軽い鞄を持っていて、今着いたばかりという明らかな兆候のない人)を探します*。
〔*原書注記—スヴェータは名を隠した自発的労働者との接触について書いている。その人物は工業地帯内部の住居区画に彼女を泊らせることになる。実名は、Boris Arvanitopulo(木材工場の発電施設の長)とその妻のVera。〕
これが最善だと思う。—間違った動き方をしないかと神経質になっています。
私の愚かな頭で、その人(Arvanitopulo)の名前と休日中の姓を何とかして忘れました(イニシャルは憶えているけど)。そして、手紙のいずれからも必要な情報を探し出すことはできません。失くしたからです。
最も重要な詳細が書いてある手紙は、手渡すためにどこかに片付けたことを憶えている。でも、『どこか』とはどこ?
手紙類を、もう一度全部読み通さなければなりません。
同名の人(Lev Izrailevich)への希望をまだ持ちつづけています。
予定の日々と期間にはどこにも行かないことを確かめたくて、彼に手紙を書き送りました。
結局のところ、彼は私の行き方をほとんど知っていません。
運命が私に逆らうのがとても怖いので、旅行の日程と戸惑ったときの時間を誰にも言っていません。
閏年なのですが、だまし通して、こっそりと接近したいと思います。
恐くて、何かを携行して運ぼうとは全く計画していません。…
お願いが三つ。1. すぐに私に電報を打つ。2. 私の考えを理解する。3. 逢う。」
(47) 5日後、スヴェータはまだモスクワにいた。
列車の切符を入手するのに手間取ったからだ(人々が切符売場で行列を作るソヴィエト同盟では、珍しくなかった)。
8月18日に、彼女はこう書いた。
「いつ出発できるのか、神だけが知っている。
三ヶ月の間に業務旅行をする人々のための特別の売場はありませんでした。
運が好いと、事前予約所で一日以内に切符を買うことができます。または、翌日に並び順を変えないで始められるように人名が記帳されているので、二日以内に。…
でも、自分が愚かなため、もう二日も使って何も得ていません。
行列の中に私の場所をとり、Yara と一緒に仕事に出かけ、ママが私を引き継ぎましたが、ママが窓口に着くまでに切符は売り切れました。そして、ママは行列の中の位置を確保しておかなければならないことを知らずに、家に帰りました。
ママは自身に腹を立てて、翌朝早くに行列の中に立ちました。でも、私が交替しようと到着したときに判ったのは、Gorky 方面行きの列車の切符は別の窓口だと言った警察官の話をママが信用してしまっていた、ということでした。
短く言うと、ママは私がいた行列の中に立ってはいなかったのです。そして私には、もう一度最初から並び直す時間がありませんでした。研究所に行かなければならなかったので。…」/
結局、あれこれの混乱があった後、スヴェータの母親は、21日付の片道切符を何とか購入することができた。
その切符の有効期間は6日で、スヴェータがKirov の工場で仕事をし、ペチョラまで旅をするのに、際どいながら、ちょうど十分だった。
彼女はKirov へ先に寄るかそれとも帰路にするかを決めなければならなかつた。
先にKirov で降りることにした。
このことによって、郵便局へ行って、Natalia Arkadevna からの電報が着いているかを調べ、帰りを延長するTsydzik に連絡することができることとなる。
また、帰りの直通切符を買うことができることも、意味しただろう。
彼女はレフに、「Kirov で停車するのは悲しいけれど、そこが済むと不安は少なくなるでしょう」と書いた。//
(48) 8月21日、スヴェータはモスクワを出発した。
Kirov に着いて電報を打った。それをレフが受け取ったのは、その翌日だった。
しかし、彼女の指示に反して、彼は返答しなかった。彼女に届くにはもう遅すぎると考えたからだった。
その代わりに、レフは彼女が到着するのを待ち受けていた。
スヴェータを迎え、彼女が宿泊するのに同意していた彼の友人かつ上司のBoris Arvanitopulo は、23日に〔ペチョラ〕駅へ行った。
列車が到着したのを見守り、駅のホールへと通り過ぎていく乗客たちの中にお下げ髪でリュックを背負った細くて若い女性を探した。
乗客たちの中に、スヴェータはいなかった。
24日、彼はまた駅へ行ったが、彼女はその日の列車のいずれにも乗っていなかった。
そのつど、Boris はスヴェータを伴わずに収容所に帰ってきた。そしてそのたびに、レフは、心配して気が狂いそうになった。
24日付で、彼はこう書いた。
「僕の大切なスヴェータ、ここに座って考えている。来るのか、来ないのか?
来ないのなら、全てが、N. A. に耳を傾けて**、K.(Kirov)へ電報を打たなかった僕の過ちだろう。
他に何も考えることができない。
たぶん、きみに何かが起きたのだ。」
〔**原書注記—Natalia Arkadevna はレフに電報を発しないよう助言したに違いない。〕/
(49) スヴェータは実際に、苦しい状態にあった。
Kirov とKotlas の間の線路上で、列車の後方の客車のいくつかが切り離された。検査官がそれらの車両に欠陥を見つけたからだった。
前方の車両に座席を確保しようとする乗客が、前へと激しく突進した。
スヴェータは持ち物をさっと掴んで、列車が動き始めるまでに、やっと前方の端の車両に座席を見つけた。
さほど早くなかった他の乗客たちはどうなったのか、彼女には分からなかつた。
もっと大きい危険が、やって来ることになった。
彼女は、Kotlas 駅の庭でリュックの上に座っていた。ペチョラ行きの列車を待ち、かつ注目を避けることを期待したからだった。
そのとき、一人の警察官が近づいてきた。
彼女は、最初の旅の際に助けとなったカーキ色の礼服ではなく民間人の衣装だったので、おそらくは駅のホールの中で待たないのが良いと考えていた。
警察官は彼女に書類を見せるように求め、どこへ旅行しているのかと尋ねることができただろう。
しかし、その警察官は友好的であることが判った。ただ彼女の安全を気に掛けたのだった。
彼は、この辺りには泥棒が徘徊している、列車を待つのならホールの中の方が安全だ、と告げた。//
(50) 〔1948年8月〕25日、スヴェータはついにペチョラに着いた。
Arvanitopulo は駅で彼女を迎え、木材工場を周る塀のすぐ外にある自分の家へ連れていった。
Arvanitopulo 家には電話があった。
Boris は発電施設での火災に備えていつも電話での呼び出しに応じる状態にあった。発電施設にも電話があり、レフが交替執務中は利用することができた。
スヴェータは、レフに電話をかけた。
その呼び出しは、電話交換所のMaria Aleksandrovskaya を経た。この女性は、前年に二人を自分の家に泊らせた人だ。
レフはスヴェータに、非合法に労働収容所に入る彼女の計画を監視員に知らせた者がいる、「彼らは彼女を逮捕する機会を躍起になって待っている」と言った。
しかしながら、全ての監視員が敵対的ではなかったように見える。彼らの一人が、その危険性をレフに警告していたのだから。
レフは、発電施設の地下にある貯蔵室を「密議(conspiratorial)の部屋」に改造していた。首尾よくやって来れば、スヴェータはそこで彼と一緒に過ごすことができる。//
**
第7章⑤へとつづく。
Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
試訳のつづき。p.162〜p.168。
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第7章④。
(43) 〔1948年〕7月31日、スヴェータの母親が、三通の手紙を持って、モスクワから到着した。
スヴェータは手紙を開くとき、昂奮をほとんど抑えられなかった。
しかし、三つのうち最後の短い手紙を読んで、希望は失望に変わった。
レフはその年の出逢いの可能性を全て排除し、賢明に観察していたが、ほとんど無頓着に「たぶん1949年はより良い年でしょう」と書いていた。
スヴェータは立腹した—全てに。そして、レフにぶちまけた。
自分が必死の思いで彼を訪れようとしているのに、その一年全体を待とうとしているのが、理解できなかった。
絶望的になって、彼女は彼を叱った。何の確実さもなく、あなたと逢える
のを待ちつづけることができると考えているのか。
8月2日、スヴェータは書いた。
「レヴィ、気になる。分かっているの?
たくさんの『もしも、だけでも』がなかったならば、私にはどんなに良かったか、ということを。
あなたはこれに答えることができない。—質問ではなく、叱責です。」
8月9日になってようやく、彼女はレフに多数の言葉を使って書くことができた。
「私の気持ち(soul)が平穏で静かでなかったので(今でもそうでないけれど)、一週間、書かなかった。
ママがPereslavl' にいる私たちに会いに来て、あなたの手紙を持ってきたとき、再び、完全に、くずれ落ちました。
(これは、あなたは手紙を書くべきではなかった、と言っているのではない。)
私が早くペチョラに行かないようにする全ての分別ある大人に対して、休みをとるよう強く言うママに対して(全く正しいけれど)、腹を立てました。
でも、もちろん、ほとんどは私自身に対してです。30歳になって、自分で物事を決定しているべきなのです。
もっと早く急いであなたに逢わなかったことに、すぐに家に戻って研究所へ行って、仕事の旅行の手筈を整えなかったことに、怒りました。仕事旅行がまだ可能であればだったけど、今ではもう遅すぎます。
そして私は、煮えくり返っている。どうすべきか、分からない。」/
先の「叱責」が残酷と思われることを懸念して、スヴェータは、今はその意味を明確にした。
「前の手紙で、自分がいなければ私の人生はもっと良くなる、とあなたが決して考えないようにと、私はあなたを叱りました。
あの手紙を受け取っていない場合は、大事をとって、このことを繰り返します。」//
(44) スヴェータは、激しく、レフに逢いたかった。
彼の助言に従っていれば、さらにもう一年が、もう一度彼に逢わないままで過ぎてしまうだろう。
1949年、自分は32歳になる。
人生を開始するために、あとどのくらい長く待つことができるのか?
子どもをもつまで、どのくらい長い時間が必要なのか?
彼女は、レフと結びついていることの対価(cost)を分かっていた(彼は何度もこのことについて彼女に警告していた)。つまり、子どもをもてない可能性が大きくなっていた。
そしてときたま、とても耐えられない、と感じた。//
(45) スヴェータは、二通の「叱責」の手紙で、子どもの問題を提起していた。
彼女はレフに、叔父のNikita と行った会話について書いた。その会話で叔父は、誰も「生命を生む権利」を有しない、「人々は自分たちだけのことを考えて、利己的な理由で子どもをもつ」と語っていた。
スヴェータは「新しい生命は、世界により多くの良いことを生む可能性をもたらす」と答えた。
彼女は、Nikita は気の毒だと思った。なぜなら、「彼の息子に対してより安楽でより愉快な人生を保障することができなかったのに、息子に生を与えたという、罪悪感をもっている」。
答えは一人以上の子どもをもつことだ、スヴェータはそう結論づけた。
かりにNikitaに子どもがもう一人いれば、「年下の子ども、あるいはもっと良いけど年上の子どもがいれば、今頃は彼にはすでに、何人かの孫がいたでしょう。その孫たちは彼を見守り、彼の人生に意味を与えてくれたでしょう。そうであれば、あのような考えが彼の頭に入り込みはしなかったのです。
たぶん性別(gender)が違いの理由なのでしょう。
女性にとっては、愛して子どもをもてば、人生はすでに達成されている。
全ての(またはほとんど全ての)女性にとって、それは人生の中心目標なのです。公的生活や仕事等でいかほどにたくさんの様々な利益を得るかもしれないとしても。」
(46) スヴェータは、モスクワに戻ってもう一度、ペチョラへ旅しようと決意した。—それも、夏が終わる前に。
Natalia Arkadevna は、息子のGleb に逢うため、8月18日にペチョラに向かって出発することになつていた。
Nataliaとの間にはつぎの合意があった。スヴェータは、Natalia がペチョラのすぐ後でKirov への調査旅行へ行く費用を出すよう研究所を説得する。Natalia は、スヴェータの二回めの収容所訪問ができそうか否かを彼女に知らせるために、Kirov の郵便局へと電報を打つ。
時間は経っていったが、十分な準備なしで旅行することの危険は大きかった。
8月13日、スヴェータはレフに書き送った。
「一方では、可能性は毎日少なくなっています。
他方では、必要な取り決めを行っていないで旅行するのは不可能です。—そして、この取り決めの調整がとてもむつかしい。/
それで、N. A. が到着するのを待つこと—そうすると彼女が私に電報を打つことができる—が最も賢明な選択肢のように思えます。…
彼女は18日に出発する予定です。だから、19日より以前に電報を打つことができそうにありません。従って、私は20日までにKirov に行っている必要があります。
これ以上待つのは恐ろしい。
最良の手段を見つけることはできない。
たぶん、彼女と一緒に旅行するのが良かったのでしょう。でもその場合は、切符入手の問題が生じたかもしれません。
彼女から知らされていなければ、自分で危険を冒すだろうし、その場合は22日か23日に着くことになったでしょう。
もちろん、Kirov から電報を打ちます。でも、それでは時間的に間に合ってあなたに届かないかもしれません。
こんな計画を一切しないで、いつかお互いにもう一度逢うことができれば素敵です。
新しい時刻表(今年用)によると、列車は夜にはもう着かず、午前の10時と11時の間に着きます(I(Ivan Lileev—Nikolai の父親)によるとです)。でも、たぶんひどく困難ではないでしょう。
迎えにくる人がいなければ、直接に住居に行かずに、仕事中の人(軽い鞄を持っていて、今着いたばかりという明らかな兆候のない人)を探します*。
〔*原書注記—スヴェータは名を隠した自発的労働者との接触について書いている。その人物は工業地帯内部の住居区画に彼女を泊らせることになる。実名は、Boris Arvanitopulo(木材工場の発電施設の長)とその妻のVera。〕
これが最善だと思う。—間違った動き方をしないかと神経質になっています。
私の愚かな頭で、その人(Arvanitopulo)の名前と休日中の姓を何とかして忘れました(イニシャルは憶えているけど)。そして、手紙のいずれからも必要な情報を探し出すことはできません。失くしたからです。
最も重要な詳細が書いてある手紙は、手渡すためにどこかに片付けたことを憶えている。でも、『どこか』とはどこ?
手紙類を、もう一度全部読み通さなければなりません。
同名の人(Lev Izrailevich)への希望をまだ持ちつづけています。
予定の日々と期間にはどこにも行かないことを確かめたくて、彼に手紙を書き送りました。
結局のところ、彼は私の行き方をほとんど知っていません。
運命が私に逆らうのがとても怖いので、旅行の日程と戸惑ったときの時間を誰にも言っていません。
閏年なのですが、だまし通して、こっそりと接近したいと思います。
恐くて、何かを携行して運ぼうとは全く計画していません。…
お願いが三つ。1. すぐに私に電報を打つ。2. 私の考えを理解する。3. 逢う。」
(47) 5日後、スヴェータはまだモスクワにいた。
列車の切符を入手するのに手間取ったからだ(人々が切符売場で行列を作るソヴィエト同盟では、珍しくなかった)。
8月18日に、彼女はこう書いた。
「いつ出発できるのか、神だけが知っている。
三ヶ月の間に業務旅行をする人々のための特別の売場はありませんでした。
運が好いと、事前予約所で一日以内に切符を買うことができます。または、翌日に並び順を変えないで始められるように人名が記帳されているので、二日以内に。…
でも、自分が愚かなため、もう二日も使って何も得ていません。
行列の中に私の場所をとり、Yara と一緒に仕事に出かけ、ママが私を引き継ぎましたが、ママが窓口に着くまでに切符は売り切れました。そして、ママは行列の中の位置を確保しておかなければならないことを知らずに、家に帰りました。
ママは自身に腹を立てて、翌朝早くに行列の中に立ちました。でも、私が交替しようと到着したときに判ったのは、Gorky 方面行きの列車の切符は別の窓口だと言った警察官の話をママが信用してしまっていた、ということでした。
短く言うと、ママは私がいた行列の中に立ってはいなかったのです。そして私には、もう一度最初から並び直す時間がありませんでした。研究所に行かなければならなかったので。…」/
結局、あれこれの混乱があった後、スヴェータの母親は、21日付の片道切符を何とか購入することができた。
その切符の有効期間は6日で、スヴェータがKirov の工場で仕事をし、ペチョラまで旅をするのに、際どいながら、ちょうど十分だった。
彼女はKirov へ先に寄るかそれとも帰路にするかを決めなければならなかつた。
先にKirov で降りることにした。
このことによって、郵便局へ行って、Natalia Arkadevna からの電報が着いているかを調べ、帰りを延長するTsydzik に連絡することができることとなる。
また、帰りの直通切符を買うことができることも、意味しただろう。
彼女はレフに、「Kirov で停車するのは悲しいけれど、そこが済むと不安は少なくなるでしょう」と書いた。//
(48) 8月21日、スヴェータはモスクワを出発した。
Kirov に着いて電報を打った。それをレフが受け取ったのは、その翌日だった。
しかし、彼女の指示に反して、彼は返答しなかった。彼女に届くにはもう遅すぎると考えたからだった。
その代わりに、レフは彼女が到着するのを待ち受けていた。
スヴェータを迎え、彼女が宿泊するのに同意していた彼の友人かつ上司のBoris Arvanitopulo は、23日に〔ペチョラ〕駅へ行った。
列車が到着したのを見守り、駅のホールへと通り過ぎていく乗客たちの中にお下げ髪でリュックを背負った細くて若い女性を探した。
乗客たちの中に、スヴェータはいなかった。
24日、彼はまた駅へ行ったが、彼女はその日の列車のいずれにも乗っていなかった。
そのつど、Boris はスヴェータを伴わずに収容所に帰ってきた。そしてそのたびに、レフは、心配して気が狂いそうになった。
24日付で、彼はこう書いた。
「僕の大切なスヴェータ、ここに座って考えている。来るのか、来ないのか?
来ないのなら、全てが、N. A. に耳を傾けて**、K.(Kirov)へ電報を打たなかった僕の過ちだろう。
他に何も考えることができない。
たぶん、きみに何かが起きたのだ。」
〔**原書注記—Natalia Arkadevna はレフに電報を発しないよう助言したに違いない。〕/
(49) スヴェータは実際に、苦しい状態にあった。
Kirov とKotlas の間の線路上で、列車の後方の客車のいくつかが切り離された。検査官がそれらの車両に欠陥を見つけたからだった。
前方の車両に座席を確保しようとする乗客が、前へと激しく突進した。
スヴェータは持ち物をさっと掴んで、列車が動き始めるまでに、やっと前方の端の車両に座席を見つけた。
さほど早くなかった他の乗客たちはどうなったのか、彼女には分からなかつた。
もっと大きい危険が、やって来ることになった。
彼女は、Kotlas 駅の庭でリュックの上に座っていた。ペチョラ行きの列車を待ち、かつ注目を避けることを期待したからだった。
そのとき、一人の警察官が近づいてきた。
彼女は、最初の旅の際に助けとなったカーキ色の礼服ではなく民間人の衣装だったので、おそらくは駅のホールの中で待たないのが良いと考えていた。
警察官は彼女に書類を見せるように求め、どこへ旅行しているのかと尋ねることができただろう。
しかし、その警察官は友好的であることが判った。ただ彼女の安全を気に掛けたのだった。
彼は、この辺りには泥棒が徘徊している、列車を待つのならホールの中の方が安全だ、と告げた。//
(50) 〔1948年8月〕25日、スヴェータはついにペチョラに着いた。
Arvanitopulo は駅で彼女を迎え、木材工場を周る塀のすぐ外にある自分の家へ連れていった。
Arvanitopulo 家には電話があった。
Boris は発電施設での火災に備えていつも電話での呼び出しに応じる状態にあった。発電施設にも電話があり、レフが交替執務中は利用することができた。
スヴェータは、レフに電話をかけた。
その呼び出しは、電話交換所のMaria Aleksandrovskaya を経た。この女性は、前年に二人を自分の家に泊らせた人だ。
レフはスヴェータに、非合法に労働収容所に入る彼女の計画を監視員に知らせた者がいる、「彼らは彼女を逮捕する機会を躍起になって待っている」と言った。
しかしながら、全ての監視員が敵対的ではなかったように見える。彼らの一人が、その危険性をレフに警告していたのだから。
レフは、発電施設の地下にある貯蔵室を「密議(conspiratorial)の部屋」に改造していた。首尾よくやって来れば、スヴェータはそこで彼と一緒に過ごすことができる。//
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第7章⑤へとつづく。