レフとスヴェトラーナ、No.23。
Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
試訳のつづき。p.123-p.132。
——
第6章③。
(18) その間に、ペチョラの夏は終わろうとしていた。
9月4日、レフはスヴェータにあてて書いた。
「秋が近づいて来ました。
一昨日は、早朝に凍った最初でした。我々のもの以外は、野菜畑の地方ジャガイモは全部凍りました。畑の半分は夜間に霜で覆われ、あとの半分は霜の降りない乾燥機の近くにあって免れたからです。
どちらもやはり、使いものにほとんどならないでしょう。
夏は本当に短かすぎます。
夜はもう完全に本当のものになって、暗闇が9時から2時半まで続きます。」//
(19) スヴェータが予告したとおり、彼女の8月20日の手紙を、レフは9月5日に受け取った。
今や彼女が来ることが明確になったので、彼女を迎え、秘密裡に木材工場に出入りさせる計画を練る必要があつた。
9月7日までに、彼女にこう書き送るまで進んだ。
「スヴェト、きみが想定したとおり、9月5日に手紙が届いた。…
でも、きみの計画についてまだ明瞭にする必要なことがあったので、率直には返事しなかった。
この手紙は、きみが出発する前に配達されないかもしれない。
僕はまだ、何か具体的なことを書くことができない。少なくとも、今日の夕方までは。でも、きみが受け取れる可能性があるなら、今書く必要がある。
きみは、Kirov での電報で(電信局で。郵便局留め)、きみの従兄弟〔原書注記—工業地帯に彼女を隠すことに同意した自由労働者の暗号〕の正確な住所を、知るだろう。—この人とともに、きみは数日間を過ごすだろう。
きみの出発の詳細について、僕の同名者に電報を打って下さい。
さらに指示を受け、かつ余分な荷物を置いていくために、きみは彼の家に行く必要がある。
きみの最終的目標と同じく、これをずっと覚えていて下さい。
時間が近づいて、つぎに何が起きるか、我々は心配するでしょう。
書物については、自分に立腹しています。
きみに余計な困難さを生じさせたのではないかと、恐れている。—書物は小包で僕あてに送ってもらうのが最も良かった。あるいは、同名人が承知しないなら、きみが元々望んでいたように、写真用資材と一緒に彼あてに。」//
(20) この手紙を彼が書いていたその日、9月7日、モスクワはその800周年を祝っていたので、スヴェータは家にいた。
彼女はレフにあてて、自分の部屋から書き送った。//
「歓声が起きたばかりです。
ママは街を散歩しようと外出しましたが、パパと私はもう、昨日に長く歩きました。
我々の窓を通して、全部が本当によく見えます。二つの大きな、光を放つ(スターリンとレーニンの)肖像画があり、赤の広場の上の気球から吊り下げられています。市全体の上にある空は、赤く輝く旗でいっぱいです(やはり気球から下げられている)。A.とB.リング〔大通りとGarden環状道路〕に沿って投光証明があり、青色と薄紫色の影の中の巨大な網が、花火の色彩豊かな爆発と一緒に空(多くの気球)を通過しています。
歓声が大好きです。
河川の小型艦船は、…みんな飾り付けをしています。
モスクワの発電所は、完全に彩飾されています。…
パパと私は昨日、10時に外に出ました。…
詰めかけた群衆の中を戦闘のようになって通り抜けて、中心部へ行かなければなりませんでした。
野外の演奏会場がある全ての広場に、楽団がいました。120の移動用投光機、至る所に生姜焼き菓子の店がある市場。…
こんなものはどこでも、どの人もかつて見たことがないと思います。…
モスクワの全部が、路上にありました。」//
3日後の9月10日は、スヴェータの30歳の誕生日だった。
レフには、より多くの知らせはなかった。
彼は彼女の近づく旅を心配し、当惑して苛立ち、彼女の途上にある危険への遭遇から助けることのできない無力さを感じていた。
レフは本当に彼女が来るとは、あえてほとんど希望しないようにした。//
「きみが期待するようには、何も明らかになっていない。
しばらくの間は、僕はまだ何も見出さないだろう。
I(Izrailvich)と逢うことすらできていない。
できるときに—およそ2日のうちに—電報を打つでしょう。
今日は、きみの誕生日です。
この日、僕はいつも一人でしばらくの時間を過ごすのが好きで、いま自分の仕事場に座っています。…
そして、きみのことを考えます。
僕の思いは必ずしも明瞭または幸福ではなく、ときどきは訳の分からないものです。—そう、そのはずだと想像します。
ただ一つだけは明白です。こうした思いは、僕の人生の重要な全てだということ。そうした思いを何か役立つものにしたり、行動へと変えることができないのは、好くありません。」//
(21) スヴェータには、よい誕生日だった。9月12日に、レフにこう書いたように。//
「研究所では、二つの大きな束の花を貰いました(グラジオラス、ダリアや菊科のアスター)。ママが三つ目をくれました(カーネーション)。
みんな、花は良いことの前兆だと言います。
私は実験室のフラスコに私用に若干のアスターを残し、若干はMikh.(Mikhail)Al.(Aleksandrovich)のビーカーに入れました。
残りは、家にあります。
Irina とShura は、北方旅行のためにお願いしていた特別の一点の服をくれました。
Shura は誕生日にはいませんでした。…。でもIrina はいて、研究所のLinda もいました。
ママは素敵なキャベツ・パイを焼いてくれ、われわれは二個のケーキを食べました(砂糖の代わりに配給券で入手したもの)。」//
(22) 悪い知らせは、レフにそうするつもりだと告げたようには、15日にKirov へと出立しそうでないことだった。
研究所に、遅れがあった。
スヴェータは、レフに書き送った。「私の書類カバンに仕事旅行の詳細を入れているのですが、20世紀の間はいかなる金銭も約束しようとしてくれません」。
友人たちと親戚は、スヴェータのために金を集め始めて、彼女の月額給料よりも多い約1000ルーブルに達した。
その間にスヴェータは、「賃金と支払い率の不均衡について」と題する報告書を書くことで彼女の研究所から「別に300ないし400ルーブル」を受け取った(この金は、Tsydzik が不在の間に実験室の管理を引き受けた責任を負ったことによるものだった)。この報告書は、理事長がまともに読まないで署名たけする山積みの書類の中に綴じ込められた。
かりに自分のために金を求めていれば、彼女はきっと断られていただろう(研究所は現金が不足していて、所員への未払いの言い訳をいつも探していた)。そして、研究チームの指導者に必要な公共精神が足りないと責められていただろう。
なぜスヴェータは突如として金を必要としているのか、という厄介な疑問すら生まれたかもしれなかった。
スヴェータはこのような方法で理事長を欺くのは愉快でなかった。このことは、旅をすることで負う大きな危険についての一般的にな懸念に、さらに加わったことだった。
彼女はレフにこう書いた。
「準備することについて、とても神経質になっています。
用意が出来たら完了することはない(または、完了しても悪いことが起こる)のと同じ、迷信じみた感情に落ち込んでしまいます。」//
(23) レフは、同名人物とまだ接触しておらず、スヴェータの到着についての計画を最終のものにすることができなかった。
9月5日以降はLev Izrailvich から何も聞いておらず、逢ってすらいなかった。
彼はスヴェータにこう説明した。「それで、きみの手紙が書いていたことを知らせ、前もって教え、あるいは何かを頼むことができない」。
スヴェータの訪問のためにしておくべき重要な準備がまだあった。すなわち、Izrailvich と接触すれば、Kirov にいるスヴェータに電報を打って意思疎通を図ろうと今は計画していた。
9月17日にスヴェータにあてて、「概して言うと、この10日間ほどは本当に何も進んでいない」と書いた。
最近に発生した主要な難事は、レフが以前よりも頻繁に営舎に閉じ込められるということだった。—第二入植地域で保安警告があったからだ。これによって、彼が工業地帯でスヴェータと出会うのはより困難になった。//
(24) 5日後の9月22日、レフはまだ同名者からの連絡を受けていなかった。
Izrailvich は病気なのに違いない、と彼は考えた。
レフは、9月5日以降のスヴェータからの手紙も、受け取っていなかった。
自由労働者の一人が、彼女はすでにモスクワを出発したと推測して、レフに代わって、Kozha のLev Izrailvich の住所にあてて郵便局留めで電報を打った。Kozha へとスヴェータは行き、そこで新しい指示を待たなければならなかった。//
(25) スヴェータの旅の詳細は、完全には明らかでない。
これについて、後年に彼女は、困惑するようになった。
彼女は9月20日直後のいつかに、モスクワを出発したように思われる。
スヴェータの父親と兄弟がYaroslvi 駅まで彼女を連れていき、Kirov 行きの列車に乗せた。彼女はそのKirov で、タイヤ工場での仕事を履行するため、少なくとも3日間を過ごしたに違いなかった。
スヴェータは計画どおり、Kirov からTsydzik (この人物も計略の中にいた)へと電報を送り、「数日遅れるだろう」と伝えた。
そして彼女は、非合法に入手していた切符を使って、Kozhva 行きの列車に乗った。その切符は父親が軍の将校から購入したもので、その人物は、Kozhva に着けば自分に返すという条件で、彼の「個人的助手」として彼女を同行させることに同意していた。
スヴェータは、寝台車の上段にいた。「未知の豪華さ」だったと、彼女は後年に振り返った。//
(26) 北方に旅をし、Kotlas で乗り換えてKozhva へと旅をし続けているとき、スヴェータは何を感じていたのか?
監視塔と鉄道線路沿いの鉄条網の塀を最初に見たとき、彼女は恐くなかったのか?
非合法に収容所地帯に入り込む企てをすることの危険性を、どう考えていたのか?
数ヶ月後に旅を思い出して、スヴェータは1948年4月に、「首尾よくいかない結末を覚悟していたし、少し感情を失っていた」ので恐くなかった、と書いた。
半分は失敗を予期して、彼女は自分の情緒の全てを成功の見込みに注ぎはしなかった。このことが、彼女の神経を安定させ続けるのに役立った。
しかし、ときが経つにつれて、彼女は自分の勇猛果敢さについて、大きな驚嘆の気持ちをもって振り返った。
70年以上の自分の台所に腰掛けながら、スヴェータは当時に自分が旅をするのは「自然(natural)」なことだったと思い出すことになる。
しかし、そのときこう付け加えた。
「いろいろな危険に巻き込まれることを想定すらしないで、どうすれば私は進むことができたのですか?
分かりません。
愚かななことをしました。
きっと悪魔が私の頭の中に入り込んでいたのです !! 」/
(27) この旅の非合法な部分のゆえにだが、逮捕される危険に陥ったことがあった。
スヴェータは友人のShura から衣服を貰っていた。Shura は自分のカーキ色をした古い軍服の綿素材で、それをこしらえていた。
のちに、スヴェータは書いた。
「この制服が、私を救った。
私は検札官を避けようと努めていた。彼らは乗客全員の切符と書類を点検しながら車両をわたって来ていた。
私は何とか頭を下に向けたままにし、制服を身につけていた。その間ずつと、検札官の視線に合わせないようにした。
しかし、彼らの一人が私の所にやって来て、切符が奇妙だ、合法のものではない、と言った。そして、尋問するために私を列車から降ろそうとした。
にせの切符について、どのように説明できるだろう?
私は、その切符が誰のものかすら知らなかった。—切符の上にはたぶん男性の名前があつた。しかし、私は女性で、しかもどこへ旅行することになっているかすら知らなかった。
もちろん、私が本当はどこへ行くのかを言うことはできなかつた。
さらに加えて、その切符を軍の将校に返すように言われていた。
しかし、そのとき、明らかに軍人と思われる別の乗客が私を彼らの仲間だと見てとって、私を守る側になって、友好的に検札官と議論し始めた。
彼らはこう言った !! 何か間違いがあるしても、彼女が原因ではない。
すると、検札官は私をそのままにして去った。」//
(28) スヴェータは、ペチョラから数キロメートルだけ離れたKozhvaまではるばると旅をした。そこで彼女は、土地に掘られたLev Izrailvichの家を見つけた。その家に彼の「ちっぽけな(tiny)部屋」があった。〔参考—次回に掲載する当時のスヴェータの写真の背後にこの家が写っている—試訳者〕
レニングラード出身の彼の父親が一緒に滞在していた。—たぶんその理由は、木材工場でレフと会ったことがないということ。それで、睡眠の仕方はとても窮屈だった。
翌日、Izrailvich とスヴェータは一緒に、木材工場へ行った。
ペチョラにある駅からソヴィエト通りの距離を歩いた。その通りは汚れた車跡のある、両側に8住戸のある木造家屋が並ぶ、そして「側道」は地上に置いた厚板で造られている大通り(avenue)だった。
二人は曲がってモスクワ通りに入り、町の最初の石製建物である、新古典派様式の構造物を過ぎた。その建物は、最近にAbez から移転してきた北部ペチョラ鉄道労働収容所管理部用に建てられたばかりだった。
建物の外側に監視員はおらず、誰もスヴェータを止めたり、書類を調べるために質問したりしなかった。彼女は見かけない人物として印象に残ったに違いないとしても。
Izrailvich とスヴェータはモスクワ通りから、第一入植地区の住居群やGarazhnaia(ガレージ)通りの自動車修理場を過ぎて、木材工場の正門へと着いた。そこで二人は監視員に、スヴェータは居住区画に住んでいる自発的労働者の妻だと告げる予定だった。//
(29) 木材工場の治安確保は、混乱した状態にあった。
およそ数百人の監視員がいて、刑務所地帯を巡視した。
監視員のほとんどは軍に従事した元農民で、戦争末期に家に帰って集団農場に行くのを避けて、監視員として就業契約をしていた。
多くのものは読み書きの能力がなく、たいていの者はひどい酒飲みだった。そして、彼らはほとんど賄賂を受け取り、受刑者から盗んだ。
彼らはまた、木材工場の店舗や、とくに産業地帯にある馬小屋、産業地帯の外の第一入植地区に近い風車で強奪した。第一入植地区では少なくとも12人の監視員がオート麦を盗み、収監者や自由労働者に売るウォトカに変造する、大きな恐喝団に関与していた。
このようにして1946年には、数トンのオート麦が所在不明になつていた。
(30) ほとんど恒常的な酔っ払いは、監視員に関する主要な問題だった。
木材工場の党資料には、懲戒のため聴取に関するものが多数ある。それには、「勤務時間での酔っ払い」、「監視小屋での仕事中の飲酒による意識不明」、「酔っ払っての数日間の消失」等々が記録されている。
党指導者たちはみな、監視員の間にある酒乱は治安確保に対する最大の危険だ、ということに同意した。
収監者たちは、酔っ払った監視員が主要監視小屋で寝ている間に収容所から歩いて外へ出ていた。
別の収監者たちは、賄賂を監視員に渡して町の女性を訪問させ、さらに賄賂を提供して、営舎地帯に帰らせ、光が消えているときは「いる」者の中に算定させた。
ペチョラの遠隔さ—他の労働収容所以外のどこからも1000キロメートル—によつて、ペチョラ自体が刑務所になった。
(31) 監視員が賄賂を受け取って、外部者が刑務所地帯に入るのを認める場合ももあった。
1947年の木材工場での党の会合は、「不審者(strangers)」が通行証なしで居住区画の自由労働者を訪問するのが許されているいくつかの事件を報告した。
工業地帯の内部では一度、侵入者が探索を逃れていた。
小さな街路照明灯しかなかったこと—およそ7台の電灯—は、治安確保よりも生産目的を優先することを意味した。
探索照明灯のある8つの監視塔が鉄条網の塀の周りにあったが、そのうち3塔の照明灯は電球を失くしていた。//
(32) Lev Izrailvich とスヴェータは、邪魔されることなく木材工場の正門に到達した。
正門は今にも壊れそうな代物だった。両側にある木と鉄条網でできている塀よりもほんの僅かだけ強固で、宣伝標語(propaganda slogan)が描かれた四角い枠のベニヤ板が付いていて、最上部には労働収容所の槌・鎌の標識があった。
通路の右に監視小屋があった。木材工場を出入りする者は全員がそこで、執務中の武装監視員に通行証を呈示することが意図されていた。
受刑者用の移送車も、出入りが数えられた。//
——
第6章③、終わり。
Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
試訳のつづき。p.123-p.132。
——
第6章③。
(18) その間に、ペチョラの夏は終わろうとしていた。
9月4日、レフはスヴェータにあてて書いた。
「秋が近づいて来ました。
一昨日は、早朝に凍った最初でした。我々のもの以外は、野菜畑の地方ジャガイモは全部凍りました。畑の半分は夜間に霜で覆われ、あとの半分は霜の降りない乾燥機の近くにあって免れたからです。
どちらもやはり、使いものにほとんどならないでしょう。
夏は本当に短かすぎます。
夜はもう完全に本当のものになって、暗闇が9時から2時半まで続きます。」//
(19) スヴェータが予告したとおり、彼女の8月20日の手紙を、レフは9月5日に受け取った。
今や彼女が来ることが明確になったので、彼女を迎え、秘密裡に木材工場に出入りさせる計画を練る必要があつた。
9月7日までに、彼女にこう書き送るまで進んだ。
「スヴェト、きみが想定したとおり、9月5日に手紙が届いた。…
でも、きみの計画についてまだ明瞭にする必要なことがあったので、率直には返事しなかった。
この手紙は、きみが出発する前に配達されないかもしれない。
僕はまだ、何か具体的なことを書くことができない。少なくとも、今日の夕方までは。でも、きみが受け取れる可能性があるなら、今書く必要がある。
きみは、Kirov での電報で(電信局で。郵便局留め)、きみの従兄弟〔原書注記—工業地帯に彼女を隠すことに同意した自由労働者の暗号〕の正確な住所を、知るだろう。—この人とともに、きみは数日間を過ごすだろう。
きみの出発の詳細について、僕の同名者に電報を打って下さい。
さらに指示を受け、かつ余分な荷物を置いていくために、きみは彼の家に行く必要がある。
きみの最終的目標と同じく、これをずっと覚えていて下さい。
時間が近づいて、つぎに何が起きるか、我々は心配するでしょう。
書物については、自分に立腹しています。
きみに余計な困難さを生じさせたのではないかと、恐れている。—書物は小包で僕あてに送ってもらうのが最も良かった。あるいは、同名人が承知しないなら、きみが元々望んでいたように、写真用資材と一緒に彼あてに。」//
(20) この手紙を彼が書いていたその日、9月7日、モスクワはその800周年を祝っていたので、スヴェータは家にいた。
彼女はレフにあてて、自分の部屋から書き送った。//
「歓声が起きたばかりです。
ママは街を散歩しようと外出しましたが、パパと私はもう、昨日に長く歩きました。
我々の窓を通して、全部が本当によく見えます。二つの大きな、光を放つ(スターリンとレーニンの)肖像画があり、赤の広場の上の気球から吊り下げられています。市全体の上にある空は、赤く輝く旗でいっぱいです(やはり気球から下げられている)。A.とB.リング〔大通りとGarden環状道路〕に沿って投光証明があり、青色と薄紫色の影の中の巨大な網が、花火の色彩豊かな爆発と一緒に空(多くの気球)を通過しています。
歓声が大好きです。
河川の小型艦船は、…みんな飾り付けをしています。
モスクワの発電所は、完全に彩飾されています。…
パパと私は昨日、10時に外に出ました。…
詰めかけた群衆の中を戦闘のようになって通り抜けて、中心部へ行かなければなりませんでした。
野外の演奏会場がある全ての広場に、楽団がいました。120の移動用投光機、至る所に生姜焼き菓子の店がある市場。…
こんなものはどこでも、どの人もかつて見たことがないと思います。…
モスクワの全部が、路上にありました。」//
3日後の9月10日は、スヴェータの30歳の誕生日だった。
レフには、より多くの知らせはなかった。
彼は彼女の近づく旅を心配し、当惑して苛立ち、彼女の途上にある危険への遭遇から助けることのできない無力さを感じていた。
レフは本当に彼女が来るとは、あえてほとんど希望しないようにした。//
「きみが期待するようには、何も明らかになっていない。
しばらくの間は、僕はまだ何も見出さないだろう。
I(Izrailvich)と逢うことすらできていない。
できるときに—およそ2日のうちに—電報を打つでしょう。
今日は、きみの誕生日です。
この日、僕はいつも一人でしばらくの時間を過ごすのが好きで、いま自分の仕事場に座っています。…
そして、きみのことを考えます。
僕の思いは必ずしも明瞭または幸福ではなく、ときどきは訳の分からないものです。—そう、そのはずだと想像します。
ただ一つだけは明白です。こうした思いは、僕の人生の重要な全てだということ。そうした思いを何か役立つものにしたり、行動へと変えることができないのは、好くありません。」//
(21) スヴェータには、よい誕生日だった。9月12日に、レフにこう書いたように。//
「研究所では、二つの大きな束の花を貰いました(グラジオラス、ダリアや菊科のアスター)。ママが三つ目をくれました(カーネーション)。
みんな、花は良いことの前兆だと言います。
私は実験室のフラスコに私用に若干のアスターを残し、若干はMikh.(Mikhail)Al.(Aleksandrovich)のビーカーに入れました。
残りは、家にあります。
Irina とShura は、北方旅行のためにお願いしていた特別の一点の服をくれました。
Shura は誕生日にはいませんでした。…。でもIrina はいて、研究所のLinda もいました。
ママは素敵なキャベツ・パイを焼いてくれ、われわれは二個のケーキを食べました(砂糖の代わりに配給券で入手したもの)。」//
(22) 悪い知らせは、レフにそうするつもりだと告げたようには、15日にKirov へと出立しそうでないことだった。
研究所に、遅れがあった。
スヴェータは、レフに書き送った。「私の書類カバンに仕事旅行の詳細を入れているのですが、20世紀の間はいかなる金銭も約束しようとしてくれません」。
友人たちと親戚は、スヴェータのために金を集め始めて、彼女の月額給料よりも多い約1000ルーブルに達した。
その間にスヴェータは、「賃金と支払い率の不均衡について」と題する報告書を書くことで彼女の研究所から「別に300ないし400ルーブル」を受け取った(この金は、Tsydzik が不在の間に実験室の管理を引き受けた責任を負ったことによるものだった)。この報告書は、理事長がまともに読まないで署名たけする山積みの書類の中に綴じ込められた。
かりに自分のために金を求めていれば、彼女はきっと断られていただろう(研究所は現金が不足していて、所員への未払いの言い訳をいつも探していた)。そして、研究チームの指導者に必要な公共精神が足りないと責められていただろう。
なぜスヴェータは突如として金を必要としているのか、という厄介な疑問すら生まれたかもしれなかった。
スヴェータはこのような方法で理事長を欺くのは愉快でなかった。このことは、旅をすることで負う大きな危険についての一般的にな懸念に、さらに加わったことだった。
彼女はレフにこう書いた。
「準備することについて、とても神経質になっています。
用意が出来たら完了することはない(または、完了しても悪いことが起こる)のと同じ、迷信じみた感情に落ち込んでしまいます。」//
(23) レフは、同名人物とまだ接触しておらず、スヴェータの到着についての計画を最終のものにすることができなかった。
9月5日以降はLev Izrailvich から何も聞いておらず、逢ってすらいなかった。
彼はスヴェータにこう説明した。「それで、きみの手紙が書いていたことを知らせ、前もって教え、あるいは何かを頼むことができない」。
スヴェータの訪問のためにしておくべき重要な準備がまだあった。すなわち、Izrailvich と接触すれば、Kirov にいるスヴェータに電報を打って意思疎通を図ろうと今は計画していた。
9月17日にスヴェータにあてて、「概して言うと、この10日間ほどは本当に何も進んでいない」と書いた。
最近に発生した主要な難事は、レフが以前よりも頻繁に営舎に閉じ込められるということだった。—第二入植地域で保安警告があったからだ。これによって、彼が工業地帯でスヴェータと出会うのはより困難になった。//
(24) 5日後の9月22日、レフはまだ同名者からの連絡を受けていなかった。
Izrailvich は病気なのに違いない、と彼は考えた。
レフは、9月5日以降のスヴェータからの手紙も、受け取っていなかった。
自由労働者の一人が、彼女はすでにモスクワを出発したと推測して、レフに代わって、Kozha のLev Izrailvich の住所にあてて郵便局留めで電報を打った。Kozha へとスヴェータは行き、そこで新しい指示を待たなければならなかった。//
(25) スヴェータの旅の詳細は、完全には明らかでない。
これについて、後年に彼女は、困惑するようになった。
彼女は9月20日直後のいつかに、モスクワを出発したように思われる。
スヴェータの父親と兄弟がYaroslvi 駅まで彼女を連れていき、Kirov 行きの列車に乗せた。彼女はそのKirov で、タイヤ工場での仕事を履行するため、少なくとも3日間を過ごしたに違いなかった。
スヴェータは計画どおり、Kirov からTsydzik (この人物も計略の中にいた)へと電報を送り、「数日遅れるだろう」と伝えた。
そして彼女は、非合法に入手していた切符を使って、Kozhva 行きの列車に乗った。その切符は父親が軍の将校から購入したもので、その人物は、Kozhva に着けば自分に返すという条件で、彼の「個人的助手」として彼女を同行させることに同意していた。
スヴェータは、寝台車の上段にいた。「未知の豪華さ」だったと、彼女は後年に振り返った。//
(26) 北方に旅をし、Kotlas で乗り換えてKozhva へと旅をし続けているとき、スヴェータは何を感じていたのか?
監視塔と鉄道線路沿いの鉄条網の塀を最初に見たとき、彼女は恐くなかったのか?
非合法に収容所地帯に入り込む企てをすることの危険性を、どう考えていたのか?
数ヶ月後に旅を思い出して、スヴェータは1948年4月に、「首尾よくいかない結末を覚悟していたし、少し感情を失っていた」ので恐くなかった、と書いた。
半分は失敗を予期して、彼女は自分の情緒の全てを成功の見込みに注ぎはしなかった。このことが、彼女の神経を安定させ続けるのに役立った。
しかし、ときが経つにつれて、彼女は自分の勇猛果敢さについて、大きな驚嘆の気持ちをもって振り返った。
70年以上の自分の台所に腰掛けながら、スヴェータは当時に自分が旅をするのは「自然(natural)」なことだったと思い出すことになる。
しかし、そのときこう付け加えた。
「いろいろな危険に巻き込まれることを想定すらしないで、どうすれば私は進むことができたのですか?
分かりません。
愚かななことをしました。
きっと悪魔が私の頭の中に入り込んでいたのです !! 」/
(27) この旅の非合法な部分のゆえにだが、逮捕される危険に陥ったことがあった。
スヴェータは友人のShura から衣服を貰っていた。Shura は自分のカーキ色をした古い軍服の綿素材で、それをこしらえていた。
のちに、スヴェータは書いた。
「この制服が、私を救った。
私は検札官を避けようと努めていた。彼らは乗客全員の切符と書類を点検しながら車両をわたって来ていた。
私は何とか頭を下に向けたままにし、制服を身につけていた。その間ずつと、検札官の視線に合わせないようにした。
しかし、彼らの一人が私の所にやって来て、切符が奇妙だ、合法のものではない、と言った。そして、尋問するために私を列車から降ろそうとした。
にせの切符について、どのように説明できるだろう?
私は、その切符が誰のものかすら知らなかった。—切符の上にはたぶん男性の名前があつた。しかし、私は女性で、しかもどこへ旅行することになっているかすら知らなかった。
もちろん、私が本当はどこへ行くのかを言うことはできなかつた。
さらに加えて、その切符を軍の将校に返すように言われていた。
しかし、そのとき、明らかに軍人と思われる別の乗客が私を彼らの仲間だと見てとって、私を守る側になって、友好的に検札官と議論し始めた。
彼らはこう言った !! 何か間違いがあるしても、彼女が原因ではない。
すると、検札官は私をそのままにして去った。」//
(28) スヴェータは、ペチョラから数キロメートルだけ離れたKozhvaまではるばると旅をした。そこで彼女は、土地に掘られたLev Izrailvichの家を見つけた。その家に彼の「ちっぽけな(tiny)部屋」があった。〔参考—次回に掲載する当時のスヴェータの写真の背後にこの家が写っている—試訳者〕
レニングラード出身の彼の父親が一緒に滞在していた。—たぶんその理由は、木材工場でレフと会ったことがないということ。それで、睡眠の仕方はとても窮屈だった。
翌日、Izrailvich とスヴェータは一緒に、木材工場へ行った。
ペチョラにある駅からソヴィエト通りの距離を歩いた。その通りは汚れた車跡のある、両側に8住戸のある木造家屋が並ぶ、そして「側道」は地上に置いた厚板で造られている大通り(avenue)だった。
二人は曲がってモスクワ通りに入り、町の最初の石製建物である、新古典派様式の構造物を過ぎた。その建物は、最近にAbez から移転してきた北部ペチョラ鉄道労働収容所管理部用に建てられたばかりだった。
建物の外側に監視員はおらず、誰もスヴェータを止めたり、書類を調べるために質問したりしなかった。彼女は見かけない人物として印象に残ったに違いないとしても。
Izrailvich とスヴェータはモスクワ通りから、第一入植地区の住居群やGarazhnaia(ガレージ)通りの自動車修理場を過ぎて、木材工場の正門へと着いた。そこで二人は監視員に、スヴェータは居住区画に住んでいる自発的労働者の妻だと告げる予定だった。//
(29) 木材工場の治安確保は、混乱した状態にあった。
およそ数百人の監視員がいて、刑務所地帯を巡視した。
監視員のほとんどは軍に従事した元農民で、戦争末期に家に帰って集団農場に行くのを避けて、監視員として就業契約をしていた。
多くのものは読み書きの能力がなく、たいていの者はひどい酒飲みだった。そして、彼らはほとんど賄賂を受け取り、受刑者から盗んだ。
彼らはまた、木材工場の店舗や、とくに産業地帯にある馬小屋、産業地帯の外の第一入植地区に近い風車で強奪した。第一入植地区では少なくとも12人の監視員がオート麦を盗み、収監者や自由労働者に売るウォトカに変造する、大きな恐喝団に関与していた。
このようにして1946年には、数トンのオート麦が所在不明になつていた。
(30) ほとんど恒常的な酔っ払いは、監視員に関する主要な問題だった。
木材工場の党資料には、懲戒のため聴取に関するものが多数ある。それには、「勤務時間での酔っ払い」、「監視小屋での仕事中の飲酒による意識不明」、「酔っ払っての数日間の消失」等々が記録されている。
党指導者たちはみな、監視員の間にある酒乱は治安確保に対する最大の危険だ、ということに同意した。
収監者たちは、酔っ払った監視員が主要監視小屋で寝ている間に収容所から歩いて外へ出ていた。
別の収監者たちは、賄賂を監視員に渡して町の女性を訪問させ、さらに賄賂を提供して、営舎地帯に帰らせ、光が消えているときは「いる」者の中に算定させた。
ペチョラの遠隔さ—他の労働収容所以外のどこからも1000キロメートル—によつて、ペチョラ自体が刑務所になった。
(31) 監視員が賄賂を受け取って、外部者が刑務所地帯に入るのを認める場合ももあった。
1947年の木材工場での党の会合は、「不審者(strangers)」が通行証なしで居住区画の自由労働者を訪問するのが許されているいくつかの事件を報告した。
工業地帯の内部では一度、侵入者が探索を逃れていた。
小さな街路照明灯しかなかったこと—およそ7台の電灯—は、治安確保よりも生産目的を優先することを意味した。
探索照明灯のある8つの監視塔が鉄条網の塀の周りにあったが、そのうち3塔の照明灯は電球を失くしていた。//
(32) Lev Izrailvich とスヴェータは、邪魔されることなく木材工場の正門に到達した。
正門は今にも壊れそうな代物だった。両側にある木と鉄条網でできている塀よりもほんの僅かだけ強固で、宣伝標語(propaganda slogan)が描かれた四角い枠のベニヤ板が付いていて、最上部には労働収容所の槌・鎌の標識があった。
通路の右に監視小屋があった。木材工場を出入りする者は全員がそこで、執務中の武装監視員に通行証を呈示することが意図されていた。
受刑者用の移送車も、出入りが数えられた。//
——
第6章③、終わり。