レフとスヴェトラーナ、No.21。
Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
試訳のつづき。p.111-p.117。
——
第6章①。
(01) スヴェータは、最初の手紙ですでに、レフと逢うという考えを持ち出していた。
1946年7月12日の手紙で、こう書いていた。
「もう一度5年が過ぎる前に私たちが逢うことができるよう、全力を尽くしてくれると思います」。
レフは最初から悲観的だった。こう答えた。
「逢うことについてきみは尋ねている。…
スヴェータ、ほとんど不可能です。58-1(b)は恐ろしい数字です。」
(02) レフは正しかった。
収監者が訪問者を受ける許可を得るのは、実際に稀だった。
また、許可がなされるとしても、家族または配偶者に限られた。
出逢うことは、「良好で良心的な、かつ迅速な労働」に対する褒賞として例外的な場合にのみ許された。
訪問者があるという約束は、受刑者が好ましい振る舞いをすることの大きな誘因となった。
だが、出逢いが行われたとき、それはしばしば失望になるものだった。数分間に限られ、かつ監視員がいる場所でだったからだ。
親密な会話をし、身体的な愛情を示すことは困難だった。
北部収容所のある追想録は、妻たちの訪問が終わった後で、受刑者たちは「決まって寡黙になり、苛立っていた」と記した。
(03) 妻や親戚の訪問もすでに十分に困難だったが、スヴェータはこれらのいずれでもなかった。
彼女は友人で、大学以来の級友にすぎなかった。そして、レフと逢う許可を申請する根拠は何もなかった。
しかし、スヴェータは、延期しないと決心した。
親戚がペチョラを訪問するのは「原則として可能だ」とレフが書いていたのに勇気づけられ、彼女が書き記したように、「あなたと私が個人的に可能かどうかを調べる」ことを始めた。
おそらく収容所当局は、慣習法上(common-law)の妻として彼女に同意するだろう。
スヴェータは、1946年秋に、そのような旅をする希望をもっていると、こう書き送っていた。
「可能性があるにすぎなくとも、できるだけ早く可能になるように全てのことをするよう、お願いします。
休暇を得ることは全く期待していませんが、研究日に10日間を使うことはいつでもできるし、無給で休日を利用することもできます。
Mik. Al. (Tsydzik)は私を支援するでしょう。」
成功する機会についてもっと情報を得るまでどんな危険もスヴェータに冒してもらいたくなくて、レフは、秋になるまで思いとどまるように告げた。
こう警告した。旅をするのに2週間は必要だろう、これは予定される休日以外に仕事から離れることができる期間よりもはるかに長い、数ヶ月先に行う必要がある、と。
Glev Vasil'ev の母親は、八月に息子と逢ったあとモスクワに帰るのに2週間かかった。これはレフが知っているただ一つの訪問の例だった。但し、彼はその旅は長すぎる、と分かっていたに違いないけれども(モスクワまで2170キロメートルの旅行は通常は、列車で2日または3日を要した)。
レフは、スヴェータを遅らせようとした。
たぶん彼は、彼女が失望するのを怖れていた。あるいは、彼女がさほどに努力する意味はないと感じていた。
しかし、彼女が計画を実行したときに直面するだろう莫大な危険を恐れたことに、疑いはない。
スヴェータは「国家機密」とされた研究を行なっていた。そのときに彼女は、確信的「スパイ」と逢うために労働収容所に旅をする許可をMVD に申請しようと計画していたのだ。
このような申請をするだけでも、彼女には研究所から追放されるか、またはもっと酷いことをすらされる危険があった。
(04) スヴェータは、旅をするのにかかる期間の長さや巻き込まれ得る危険について説かれても、納得しなかった。
レフから受け取った情報に疑いをもったので、彼女はもっと知る必要があった。
10月15日に、つぎのように書き送った。
「2週間の旅行だとは思っていませんでした。
足のない手紙であれば、それほどの長い期間がかかるのだと思います。
本当だとしても(何とかして調べます)、休暇中でなら別だけど、〔秋ではなく〕冬に私が行くことを話題にしても無意味です。
でも、実行する前に、もう一度検討しています。
特別の許可が必要なのかどうか、私に尋ねていましたが、その許可はいったい誰から?
あなたの側の当局(とあなたの行動がどう評価されているか)にだけ依っていると、私は言われてきました。でも、私が言われたことを信じない十分な根拠はあります。
私がいる地位は、もちろん、どんな特権も与えてくれません。」
(05) 第一に不確実だったのはそもそも、彼女は妻でなくともレフに逢うことが許されるか否か、だった。
レフには、信頼できる情報がなかった。
1947年2月9日に、こう書いた。
「Abez の北部ペチョラ鉄道労働収容所管理部でよりも、可能性は大きいように思えます。そこでは、原則として15分から2時間を認めています。
上級管理機関は、親戚、兄弟、妻(法律上と慣習法上のいずれも)、姉妹と従兄弟には、数日間にわたって一度に数時間を認めているようです。
不幸ながら、この情報は公式の情報源によるのではありません。
調べることができたのは、さしあたりこれだけです。」
3月1日までに、レフはより多くのことを知った。勇気づけられるものではなかったけれども。
「出逢いについてだけど、スヴェータ、きみにどう説明すればよいか分からない。でも、僕の素晴らしいスヴェータ、逢うのは、本当にとても困難で、たぶん屈辱的ですらある。そのときに僕たちが『痩せたナナカマドの木』(The Slender Rowan Tree)〔注〕を歌わないとしても。
(原書注記—あるロシア民謡(「Ton'kaya nabina」)。悲しく美しい曲で、その歌詞はレフとスヴェータの気持ちと合致していた。
「痩せたナナカマドの木よ/どうして揺れながら立っているの?/頭を下に曲げて/自分の根っこにまで。/道を横切り/広い河を越えて/やはり独りで/樫の木は高く立っているのに。/ナナカマドの木のように、どうやれば私は/樫の木に近づくことができるの?/可能ならば私は/前にかがんで腰を曲げはしないだろう。/私の細い枝で/樫の木の中へ入って落ち着き/昼も夜も囁きつづけるだろう。」〔/は改行部分—試訳者〕)
ほとんどいつも、監視員がいる監視小屋で、数分間だけ逢うことしか許されていない。…
ときには—これは最近にBoris German と彼の母親の場合に起きたことだけど—監視員が、当局がすでに許可を裁可した出逢いを、最後の瞬間になって拒否するかもしれない。…
工業地帯でたまには連続する日々に数時間ずつ逢うことが許されてきた、というのは本当だし、その中には実際には監視されないまま逢うのが認められることもある(これはGleb(Vasil'lev)と彼の母親の場合に起きた)。
でも、これらは稀なことで、58-1(b)の政治的受刑者には原則として認められません。
収容所轄機関の文化教育部門からの肯定的証明書が役立つかもしれない。それを得るのは容易ではないけれども。
しかし、それは主要な問題ではありません。…
二人が逢うことの性格を思うと、かりにそんなことが起きるとしてだけど、僕はすぐに、きみは満足するだろうか、それともあの耐え難い苦痛を再び呼び覚ますだけだろうかと、考えてしまいます。あの耐え難い苦しみは、すでによく確立された僕たち二人の新しい現在の関係に慣れたために少しは和らいでいたのです。
われわれを分かつ到達不可能な隔たりを、いま以上に強く感じてしまうのではない?
他の人々は幸せなところにいるのに、幸せであることがきみにはいま以上に困難になるのではない?」//
(06) スヴェータは思いとどまろうとしなかった。
自分にとっての危険や影響がどのようなものであっても、ペチョラまで旅をしてレフに逢うと決心していた。たとえ数分間であっても。
モスクワの収容所管轄機関が彼を訪問させようとしなければ、ペチョラの収容所当局に直接に申し込むつもりだった。
そして、拒否されるようなことがあれば、おそらくはレフを助けてきた自由労働者の協力を得て、収容所に入り込む他の方法を探すつもりだった。
手紙が秘密裡に彼に届けられるのならば、彼女はなぜできないのか?
これはきわめて勇気がある、大胆な計画だった。
かつて誰も、密かに労働収容所に入り込もうと考えなかった。//
(07) しばらくの間は、計画を立て、情報をより多く収集する時間があった。
北極圏では五月まで続く可能性のある冬の間にペチョラに旅するのは、暗闇が長くつづき、列車が動く可能性は氷結する気温で閉ざされるために、安全ではなかった。
レフは発電施設で、夜間勤務で働いていた。
彼は三月の末に、春が到来する兆しを感知した。
早朝の光の美しさに心打たれつつ、希望と幻想を性格的に慎重に見守っていた。//
「朝に発電施設を出るとき、僕のとても嫌いな黎明の影はもうありませんでした。でも日の出の輝き、暖かい太陽は、雪の吹きだまりを半分溶けた角砂糖に変えています。
客観的に悪さを持っていないものがあるというのは不思議ですが、何かの理由で、きみはそれを嫌悪するだろう。
このようにして僕は、偽りの朝焼けを感じています。…
かつて夜明けに仕事を終えて歩いて帰っていたとき、月はもう低い所にありました。
僕は尋常でない光に驚いて、突然に黙り込みました。
雪の平らな表面は、朝の光を受けて青白く、影の部分は濃い灰色でした。一方で、雪の吹き溜まりの斜面は、徐々に衰える月光を反射してまだ光っていました。
そして朝の空は、松の木の優美な影の上にあって、薄暗い灰色と灰色混じりの青緑色から柔らかいバラ色に変わりました。…
日々が春に似て素晴らしくなった瞬間に、ゆっくりと溶けていく雪の中の汚れの中で、春が姿を現しています。そして、太陽は輝くのをもう惜しみません。
きみは明るい光の中の全てを見つめるだろう。
きみは少し(僕はたまにしか好きでないけど)語りたいと思っている。—誰か好い人物について話す、または…ちょっとの間だけ馬鹿話をする…。」
(08) 暖かい天候が戻ってくるとともに、あらためて訪問についての会話が始まった。
6月の間に、Nikolai Litvinenko の両親がKiev から彼らの息子に逢いに来た。
レフは警告としてスヴェータにこう書いた。「出逢いは、愉快なものではありませんでした」。
Litvinenko が申し込んだ北部ペチョラ鉄道労働収容所管理機関は、各回2時間逢うことのできる訪問を三回許可していた。
しかし、木材工場の管理者は、監視小屋で監視員が同室してのものを、一回だけしか許さなかった。
レフはスヴェータに書いた。
「これが我々が得ることのできる最上限です。
僕の条項は、それ以上を何も保証しないでしょう。
Nikolai は、条項58-1(a)(原書注記—祖国に対する裏切りの罪。レフに対する58-1(b)(軍人による祖国に対する裏切り)と似た条文だった)の適用を受けてここにいます。」
Litvinenko 家族は「豊富な潤滑酒」にもかかわらず、それ以上の時間を得ることができなかった。この語でレフが意味させたのは賄賂だった。「莫大な総額の金が彼らにかかりました」。
レフはLitvinenko の件から、スヴェータの訪問について積極的なことを何も見出さなかった。//
「あらゆる事が、とくに調整が、彼らにとってきわめて高価なものでした。
少なくとも彼らは多額の金銭を持っていて、だからさほどに負担にはなりませんでした。
仕事をしているふりをして監視小屋へ歩いていったとき、彼らを見ました。
母親はまだ若くて、でも痩せていました。彼女はKiev には自分のようにふっくらした人々は多くはいない、太つている人を見るのは珍しい(飢饉の示唆)、と言ったけれども。
スヴェータ、外部者としてこのような出逢いを観るのは悲しい。
Anton Frantsevich (原書注記—Anton Frantsevich Gavlovskiiは1938年以来のペチョラの受刑者で、Strelkovの実験室で助手として働いていた)が昨年に彼の妻に、離れたままでいて欲しいとの頼んでいるにもかかわらず彼女が来れば、逢おうとすらしないだろう、と伝えました。これは理解できることです。
彼らに神の加護あれ。
時期がもっとよくなるまで、この問題を語るのはやめよう。」//
レフは、自分を訪れるというスヴェータの計画に気落ちし、勇気が出なかったので、ほとんど彼女と逢うのを怖れているように見えた。
たぶん彼は、逢っても満足を与えず、離れている苦痛をもっとひどくするのではないかと彼女に尋ねたとき、自分の心の声を伝えていたのだ。//
(09) Litvinenko の経験でレフは意気消沈したとしても、スヴェータは、ペチョラへの別の訪問者によって励まされていた。
Glev Vasil'ev の母親のNatalia Arkadevna は、息子に逢うため6月半ばにペチョラへの二度めの旅をしようとしていた。
レフはスヴェータへの5月1日の手紙で、1946年の最初の旅行で彼の母親はは息子と聴取されない時間を何とか過ごすとができた、と語っていた。
Natalia Arkadevna には、その成功を繰り返す自信があった。
彼女はペチョラに出発する前に、レフの叔母のOlga に会いに行った。Olga は彼女と一緒に旅をしようと思ってきていたが、それは、レフが安心したことだが、彼女が医師に思いとどめられるまでだった(Olga はスヴェータがレフと通信して欲しくなかったということ)。
数週の間、Olga はスヴェータに旅行計画について話していた。
Olga が旅行をやり遂げると考えるのはどうかしている、という点で、スヴェータはレフに同意した。—地下鉄でモスクワを縦断するにも大騒ぎをしていた女性だった。Olga は、賢明にもNatalia Arkadevna のような「経験のある旅行者」にくっつこうとしたのだけれども。
その頃までにGlev の母親は出発する準備が出来ていたが、スヴェータは、Olga が提案した旅行についてたくさん聞かされていたので、自分も昂奮する気分になった。—かりに間接的にでも—スヴェータを知った者は、彼女はまもなくレフと逢うのだろうと思ったに違いない。
——
第6章①、終わり。
Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
試訳のつづき。p.111-p.117。
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第6章①。
(01) スヴェータは、最初の手紙ですでに、レフと逢うという考えを持ち出していた。
1946年7月12日の手紙で、こう書いていた。
「もう一度5年が過ぎる前に私たちが逢うことができるよう、全力を尽くしてくれると思います」。
レフは最初から悲観的だった。こう答えた。
「逢うことについてきみは尋ねている。…
スヴェータ、ほとんど不可能です。58-1(b)は恐ろしい数字です。」
(02) レフは正しかった。
収監者が訪問者を受ける許可を得るのは、実際に稀だった。
また、許可がなされるとしても、家族または配偶者に限られた。
出逢うことは、「良好で良心的な、かつ迅速な労働」に対する褒賞として例外的な場合にのみ許された。
訪問者があるという約束は、受刑者が好ましい振る舞いをすることの大きな誘因となった。
だが、出逢いが行われたとき、それはしばしば失望になるものだった。数分間に限られ、かつ監視員がいる場所でだったからだ。
親密な会話をし、身体的な愛情を示すことは困難だった。
北部収容所のある追想録は、妻たちの訪問が終わった後で、受刑者たちは「決まって寡黙になり、苛立っていた」と記した。
(03) 妻や親戚の訪問もすでに十分に困難だったが、スヴェータはこれらのいずれでもなかった。
彼女は友人で、大学以来の級友にすぎなかった。そして、レフと逢う許可を申請する根拠は何もなかった。
しかし、スヴェータは、延期しないと決心した。
親戚がペチョラを訪問するのは「原則として可能だ」とレフが書いていたのに勇気づけられ、彼女が書き記したように、「あなたと私が個人的に可能かどうかを調べる」ことを始めた。
おそらく収容所当局は、慣習法上(common-law)の妻として彼女に同意するだろう。
スヴェータは、1946年秋に、そのような旅をする希望をもっていると、こう書き送っていた。
「可能性があるにすぎなくとも、できるだけ早く可能になるように全てのことをするよう、お願いします。
休暇を得ることは全く期待していませんが、研究日に10日間を使うことはいつでもできるし、無給で休日を利用することもできます。
Mik. Al. (Tsydzik)は私を支援するでしょう。」
成功する機会についてもっと情報を得るまでどんな危険もスヴェータに冒してもらいたくなくて、レフは、秋になるまで思いとどまるように告げた。
こう警告した。旅をするのに2週間は必要だろう、これは予定される休日以外に仕事から離れることができる期間よりもはるかに長い、数ヶ月先に行う必要がある、と。
Glev Vasil'ev の母親は、八月に息子と逢ったあとモスクワに帰るのに2週間かかった。これはレフが知っているただ一つの訪問の例だった。但し、彼はその旅は長すぎる、と分かっていたに違いないけれども(モスクワまで2170キロメートルの旅行は通常は、列車で2日または3日を要した)。
レフは、スヴェータを遅らせようとした。
たぶん彼は、彼女が失望するのを怖れていた。あるいは、彼女がさほどに努力する意味はないと感じていた。
しかし、彼女が計画を実行したときに直面するだろう莫大な危険を恐れたことに、疑いはない。
スヴェータは「国家機密」とされた研究を行なっていた。そのときに彼女は、確信的「スパイ」と逢うために労働収容所に旅をする許可をMVD に申請しようと計画していたのだ。
このような申請をするだけでも、彼女には研究所から追放されるか、またはもっと酷いことをすらされる危険があった。
(04) スヴェータは、旅をするのにかかる期間の長さや巻き込まれ得る危険について説かれても、納得しなかった。
レフから受け取った情報に疑いをもったので、彼女はもっと知る必要があった。
10月15日に、つぎのように書き送った。
「2週間の旅行だとは思っていませんでした。
足のない手紙であれば、それほどの長い期間がかかるのだと思います。
本当だとしても(何とかして調べます)、休暇中でなら別だけど、〔秋ではなく〕冬に私が行くことを話題にしても無意味です。
でも、実行する前に、もう一度検討しています。
特別の許可が必要なのかどうか、私に尋ねていましたが、その許可はいったい誰から?
あなたの側の当局(とあなたの行動がどう評価されているか)にだけ依っていると、私は言われてきました。でも、私が言われたことを信じない十分な根拠はあります。
私がいる地位は、もちろん、どんな特権も与えてくれません。」
(05) 第一に不確実だったのはそもそも、彼女は妻でなくともレフに逢うことが許されるか否か、だった。
レフには、信頼できる情報がなかった。
1947年2月9日に、こう書いた。
「Abez の北部ペチョラ鉄道労働収容所管理部でよりも、可能性は大きいように思えます。そこでは、原則として15分から2時間を認めています。
上級管理機関は、親戚、兄弟、妻(法律上と慣習法上のいずれも)、姉妹と従兄弟には、数日間にわたって一度に数時間を認めているようです。
不幸ながら、この情報は公式の情報源によるのではありません。
調べることができたのは、さしあたりこれだけです。」
3月1日までに、レフはより多くのことを知った。勇気づけられるものではなかったけれども。
「出逢いについてだけど、スヴェータ、きみにどう説明すればよいか分からない。でも、僕の素晴らしいスヴェータ、逢うのは、本当にとても困難で、たぶん屈辱的ですらある。そのときに僕たちが『痩せたナナカマドの木』(The Slender Rowan Tree)〔注〕を歌わないとしても。
(原書注記—あるロシア民謡(「Ton'kaya nabina」)。悲しく美しい曲で、その歌詞はレフとスヴェータの気持ちと合致していた。
「痩せたナナカマドの木よ/どうして揺れながら立っているの?/頭を下に曲げて/自分の根っこにまで。/道を横切り/広い河を越えて/やはり独りで/樫の木は高く立っているのに。/ナナカマドの木のように、どうやれば私は/樫の木に近づくことができるの?/可能ならば私は/前にかがんで腰を曲げはしないだろう。/私の細い枝で/樫の木の中へ入って落ち着き/昼も夜も囁きつづけるだろう。」〔/は改行部分—試訳者〕)
ほとんどいつも、監視員がいる監視小屋で、数分間だけ逢うことしか許されていない。…
ときには—これは最近にBoris German と彼の母親の場合に起きたことだけど—監視員が、当局がすでに許可を裁可した出逢いを、最後の瞬間になって拒否するかもしれない。…
工業地帯でたまには連続する日々に数時間ずつ逢うことが許されてきた、というのは本当だし、その中には実際には監視されないまま逢うのが認められることもある(これはGleb(Vasil'lev)と彼の母親の場合に起きた)。
でも、これらは稀なことで、58-1(b)の政治的受刑者には原則として認められません。
収容所轄機関の文化教育部門からの肯定的証明書が役立つかもしれない。それを得るのは容易ではないけれども。
しかし、それは主要な問題ではありません。…
二人が逢うことの性格を思うと、かりにそんなことが起きるとしてだけど、僕はすぐに、きみは満足するだろうか、それともあの耐え難い苦痛を再び呼び覚ますだけだろうかと、考えてしまいます。あの耐え難い苦しみは、すでによく確立された僕たち二人の新しい現在の関係に慣れたために少しは和らいでいたのです。
われわれを分かつ到達不可能な隔たりを、いま以上に強く感じてしまうのではない?
他の人々は幸せなところにいるのに、幸せであることがきみにはいま以上に困難になるのではない?」//
(06) スヴェータは思いとどまろうとしなかった。
自分にとっての危険や影響がどのようなものであっても、ペチョラまで旅をしてレフに逢うと決心していた。たとえ数分間であっても。
モスクワの収容所管轄機関が彼を訪問させようとしなければ、ペチョラの収容所当局に直接に申し込むつもりだった。
そして、拒否されるようなことがあれば、おそらくはレフを助けてきた自由労働者の協力を得て、収容所に入り込む他の方法を探すつもりだった。
手紙が秘密裡に彼に届けられるのならば、彼女はなぜできないのか?
これはきわめて勇気がある、大胆な計画だった。
かつて誰も、密かに労働収容所に入り込もうと考えなかった。//
(07) しばらくの間は、計画を立て、情報をより多く収集する時間があった。
北極圏では五月まで続く可能性のある冬の間にペチョラに旅するのは、暗闇が長くつづき、列車が動く可能性は氷結する気温で閉ざされるために、安全ではなかった。
レフは発電施設で、夜間勤務で働いていた。
彼は三月の末に、春が到来する兆しを感知した。
早朝の光の美しさに心打たれつつ、希望と幻想を性格的に慎重に見守っていた。//
「朝に発電施設を出るとき、僕のとても嫌いな黎明の影はもうありませんでした。でも日の出の輝き、暖かい太陽は、雪の吹きだまりを半分溶けた角砂糖に変えています。
客観的に悪さを持っていないものがあるというのは不思議ですが、何かの理由で、きみはそれを嫌悪するだろう。
このようにして僕は、偽りの朝焼けを感じています。…
かつて夜明けに仕事を終えて歩いて帰っていたとき、月はもう低い所にありました。
僕は尋常でない光に驚いて、突然に黙り込みました。
雪の平らな表面は、朝の光を受けて青白く、影の部分は濃い灰色でした。一方で、雪の吹き溜まりの斜面は、徐々に衰える月光を反射してまだ光っていました。
そして朝の空は、松の木の優美な影の上にあって、薄暗い灰色と灰色混じりの青緑色から柔らかいバラ色に変わりました。…
日々が春に似て素晴らしくなった瞬間に、ゆっくりと溶けていく雪の中の汚れの中で、春が姿を現しています。そして、太陽は輝くのをもう惜しみません。
きみは明るい光の中の全てを見つめるだろう。
きみは少し(僕はたまにしか好きでないけど)語りたいと思っている。—誰か好い人物について話す、または…ちょっとの間だけ馬鹿話をする…。」
(08) 暖かい天候が戻ってくるとともに、あらためて訪問についての会話が始まった。
6月の間に、Nikolai Litvinenko の両親がKiev から彼らの息子に逢いに来た。
レフは警告としてスヴェータにこう書いた。「出逢いは、愉快なものではありませんでした」。
Litvinenko が申し込んだ北部ペチョラ鉄道労働収容所管理機関は、各回2時間逢うことのできる訪問を三回許可していた。
しかし、木材工場の管理者は、監視小屋で監視員が同室してのものを、一回だけしか許さなかった。
レフはスヴェータに書いた。
「これが我々が得ることのできる最上限です。
僕の条項は、それ以上を何も保証しないでしょう。
Nikolai は、条項58-1(a)(原書注記—祖国に対する裏切りの罪。レフに対する58-1(b)(軍人による祖国に対する裏切り)と似た条文だった)の適用を受けてここにいます。」
Litvinenko 家族は「豊富な潤滑酒」にもかかわらず、それ以上の時間を得ることができなかった。この語でレフが意味させたのは賄賂だった。「莫大な総額の金が彼らにかかりました」。
レフはLitvinenko の件から、スヴェータの訪問について積極的なことを何も見出さなかった。//
「あらゆる事が、とくに調整が、彼らにとってきわめて高価なものでした。
少なくとも彼らは多額の金銭を持っていて、だからさほどに負担にはなりませんでした。
仕事をしているふりをして監視小屋へ歩いていったとき、彼らを見ました。
母親はまだ若くて、でも痩せていました。彼女はKiev には自分のようにふっくらした人々は多くはいない、太つている人を見るのは珍しい(飢饉の示唆)、と言ったけれども。
スヴェータ、外部者としてこのような出逢いを観るのは悲しい。
Anton Frantsevich (原書注記—Anton Frantsevich Gavlovskiiは1938年以来のペチョラの受刑者で、Strelkovの実験室で助手として働いていた)が昨年に彼の妻に、離れたままでいて欲しいとの頼んでいるにもかかわらず彼女が来れば、逢おうとすらしないだろう、と伝えました。これは理解できることです。
彼らに神の加護あれ。
時期がもっとよくなるまで、この問題を語るのはやめよう。」//
レフは、自分を訪れるというスヴェータの計画に気落ちし、勇気が出なかったので、ほとんど彼女と逢うのを怖れているように見えた。
たぶん彼は、逢っても満足を与えず、離れている苦痛をもっとひどくするのではないかと彼女に尋ねたとき、自分の心の声を伝えていたのだ。//
(09) Litvinenko の経験でレフは意気消沈したとしても、スヴェータは、ペチョラへの別の訪問者によって励まされていた。
Glev Vasil'ev の母親のNatalia Arkadevna は、息子に逢うため6月半ばにペチョラへの二度めの旅をしようとしていた。
レフはスヴェータへの5月1日の手紙で、1946年の最初の旅行で彼の母親はは息子と聴取されない時間を何とか過ごすとができた、と語っていた。
Natalia Arkadevna には、その成功を繰り返す自信があった。
彼女はペチョラに出発する前に、レフの叔母のOlga に会いに行った。Olga は彼女と一緒に旅をしようと思ってきていたが、それは、レフが安心したことだが、彼女が医師に思いとどめられるまでだった(Olga はスヴェータがレフと通信して欲しくなかったということ)。
数週の間、Olga はスヴェータに旅行計画について話していた。
Olga が旅行をやり遂げると考えるのはどうかしている、という点で、スヴェータはレフに同意した。—地下鉄でモスクワを縦断するにも大騒ぎをしていた女性だった。Olga は、賢明にもNatalia Arkadevna のような「経験のある旅行者」にくっつこうとしたのだけれども。
その頃までにGlev の母親は出発する準備が出来ていたが、スヴェータは、Olga が提案した旅行についてたくさん聞かされていたので、自分も昂奮する気分になった。—かりに間接的にでも—スヴェータを知った者は、彼女はまもなくレフと逢うのだろうと思ったに違いない。
——
第6章①、終わり。