レフとスヴェトラーナ、No.17。
 Orlando Figes, Just Send Me Word - A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012).
 試訳のつづき。
 ——
 第4章⑤。
 (35) レフの別の営舎仲間のモスクワっ子、Lyosha Anisimov は、Gleb Vasil'ev とともに、Strelkov のサークルの一人だった。
 Gleb Vasil'ev は、23 歳の機械屋で、モスクワではスヴェトラーナと同じ学校にいた。
 レフはスヴェータに、こう書き送った。
 「Gleb は数学がよくできる。自分の詩があり、その詩を朗読する才能もある。それはここでは大切にされている。
 自分では宣伝しないけれど、『内部消費』のために保っている。その点も好きだ。」
 レフはGleb とモスクワについて語り合うのを楽しんだ。Gleb の妻と息子は彼女の母親と一緒にモスクワに住んでいた。
 レフは友人たちに、Gleb は彼らの全てについて知るようになったと詳細に叙述した。
 彼はGleb に、スヴェータの手紙から得たモスクワについての報せを告げることになる。
 しかし、スヴェータについてはほとんど何も言わなかった。
 レフはスヴェータにこう説明した。
 「きみについて、誰とも分かち合うことはできない。きみは僕のものだ」。
 (36) 22歳のOleg Popov は、半分はリトヴィア人、半分はロシア人で、グループのもう一人の仲間だった。
 レフは、スヴェータにこう語った。
 「Oleg はかすかな訛りをつけてロシア語を話し、いくつかの言葉をを知らない。でも、新しい言葉を学んでいる彼から話を聞くのは、本当に楽しい。
 レフは、「ときどきは英語での、大した量ではないがそれでもなお意味のあるOleg との日常会話」から、不思議な満足を得た。
 彼はOleg の「ナイーヴな聡明さ」を好み、Oleg は「(最良の意味での)独創的な(original)」人物だと思った。
 (37)  Strelkov の実験室に集まったグループには、最後に、「二人のNikolais 」がいた。Litvinenko(「若Nikolais」)は21歳で、キエフ出身の政治的受刑者だった。もう一人のLileev(「老Nikolais」)は24歳、レニングラード出身で、この人物がレフをChikin に推薦した。
 Lileevは、レフのように、1945年にSMERSHに逮捕され、祖国に対する裏切りの罪で10年の判決を受けていた。
 彼は翻訳者の、次いで集中収容所のドイツ人たちの監督者の仕事を強いられた。
 フランクフルトからペチョラへの護送車の中で知り合って、二人のNikolais はとくに親しかった。
 レフはスヴェータにこう書き送った。
 「彼(Lileev)は、若Nikolais よりも穏健で率直だ。…。若い方は生活についてより実際的な考え方をもち、自分の有利になるように変える才能がある。その結果として、彼はときどきは不真面目に見える。きみが知っているように、僕が好きではない性格だ。」
 Lileev は、「より単純で、直接的で、ときどきは機転がきかない」。これをレフは最初は気にかけなかつたが、ときが経つにつれて煩わしくなってきていた。
 (38) 11月18日に、Gogol を意訳して、レフはスヴェータにこう書いた。「こんなうんざりする世界、こんな善良な領主はない」。
 〔原書注記—「Iwanovich は Ivan Nikiforovich とどう喧嘩したか」より。〕
 Strelkov の仲間と彼の他の友人たちには、ペチョラ労働収容所のような神に見捨てられた場所であっても、愉快な時間があった。
 レフはスヴェータに書いた。「総じて言って、暮らしは悪すぎるということは少しもありません」。
 「仕事の後で、ラジオから流れる<Oprichnik>〔原書注、チャイコフスキーのオペラ〕の放送を聴きながら実験室でStrelkov とともに過ごしました。
 これは最大の愉しみです。…
 7時に『家』に向かって発ち、数分間、黙って夕食を摂りました。
 そして、—まるでほとんど家庭にいるかのように—蒸し風呂に行こうと決めました。
 書くのが下手で、許して。
 樺の木は世界の我々がいる場所ではとても多くはないけれども、緑色のカンバの枝は豊富にありました。そして、Lyosha Anisimov が、モスクワの蒸し風呂の習慣のためにその枝を捧げることを僕に迫りました。
 良いお茶が、良い蒸し風呂の後で必要です。でもNikolai(Lileev)は、我々はそんな時代遅れの習慣を放棄すると強く主張しました。
 それで、暗い青の薄い絹地(crêpe-de-Chine)の付いた150ワットのランプの覆いの下で、我々は一緒にモッカ・コーヒーを飲みました。
 (これは、彼らの営舎でのことです。
 我々は不運にも、20メートル離れた、電球は40ワットしかない別の場所で生活しています。
 この40ワット電球が、内部での慰労用に使える標準です。)
 ここにはいかほどのご馳走があるか分かるでしょう。—我々はコーヒーのお代わりなしで我慢するつもりはないのです。
 そして、マグ・カップ缶から出てくる熱帯的香りを嗅いでいる間、我々は好んで、モスクワ、レニングラード、そしてノヴォシビルスクについて話しました。
 このあと、地方標準ではとっくに遅かったけれども(9時)、我々は外に出て、寒い中で息をし、星を見上げました。
 でも星は雲で隠れていて、月はほとんど見えませんでした。
 我々は松並木と営舎の間の小道をぶらつきました。営舎は最近に漂白され、田園地帯ふうの漆喰塗りをされていました。煙突から煙がきていて、内部の光は窓を通して黄色く見えました。
 11時の(営舎の消灯の)知らせがあつてようやく、時間を思い出しました。
 5分以内に我々は、モスクワのMaly 劇場を想像させる屋根の下から、自分たちの営舎の下へと潜り込みました。
 このように、我々は生活しています。」
 (39) 1946年、冬は早くやってきた。
 木材製造工場には、準備がなかった。
 収監者用のブーツ、帽子、手袋、綿入りのジャケットは不十分で、建物の多くが改修中だった。
 川が初めに凍結するということは、労働収容所や木材製造工場と繋がった居留地から揚げ下げした材木を浮かばせることがもはや不可能になるので、木材が不足することを意味した。
 (40) 12月半ば、気温がマイナス35度へと下がったので、手紙の配達も実質的に停止した。
 レフは1946年最終の手紙を、12月25日に出した。
 スヴェータの手紙を2週間と半週間受け取っておらず、彼女は高熱を伴う病気だったので、とてもひどく心配した。
 「スヴェータ、僕は絶望の海の中で溺れていて、海面にまで泳ぎ上がることができない。—手紙が届いていない。」
 12月9日にレフは、新しい年までにスヴェータに届く最後の手紙になるだろうと思う、と書いた。
 それは、彼の24番めの手紙だった。
 自分の望みと彼女の回復を同等視して、「何をきみのために—我々のために—望んでいるのか」と書いた。
 「僕にとって、欲しいのは手紙だけだ。…。他に何かを望めるならば、きみが健康を回復して、良い精神状態で、何があっても安心して、友人たちとともに、新しい年を始めることができることだ」。
 レフは、新年の夜をStrelkov と一緒にお茶を飲んで過ごそうと計画していた。彼は腸の病気でやつれたように見え、二回手術を受けたが健康を回復しなかった。
 スヴェータに12月25日の手紙でこう書いた。
 「彼〔Strelkov〕は病気について平静を装っているけれど、その自己統制の気持ちに騙されているのは、彼をよく知らない者たちだけです。
 スヴェータ、僕は彼の表情に、腸の痛みを和らげようとする努力を見てとることができる。」
 他人を助けようと思い、自分のためには何も求めないのは、レフによく見られることだった。
 (41) スヴェータは、その間に、絶望感を増幅させていた。
 新年の夜に、レフにあてて手紙を書いた。彼女は、レフの12月9日の手紙をまだ受け取っていなかった。
 レフと連絡を取りたくて、彼女はその日は家にとどまり、外出しないで手紙を書くことに決めていた。
 彼女はこう書いた。「あなたが居ないままで休日を過ごすことに飽きました」。
 「どこにいても楽しくはありません。Irina 以外は誰も、本当にはこのことに気づいていないと、あなたは信じられるでしょう。
 ともあれ、私はAlik(スヴェータの甥)を楽しませました。—クリスマス・ツリーに灯をともし、テーブルで祭りの茶を飲みました。…
 ほとんど真夜中になって、彼はようやく眠りました。
 彼はまだ、寝に行くのを恐がっています。… 
 クリスマス・ツリーは綺麗です。—大きくて、緑色が天井にまで届きそうです。
 枝はまだ一本も、枯れていません。
 Yara が六本の枝の先に小さな銀色のくるみを吊るし、その先端には赤い星が(もちろん)あります。
 レニングラードの古いアパートから持ってきた、飾りがまだあります。かなりの量のものは、他の人々にあげてしまったけれど。 
 クリスマス・ツリーは大人たちに愉しみを運んでいるように見えます(過去の思い出につながるから)。 
 Alik はお婆ちゃんの眼鏡に映る光にますます興味を持っています(「光はどこから来るの?」)。プレゼントに貰ったABCの本にも。…
 私たちは言葉ゲームで一緒に遊びました(女性詞か男性詞か? どの種の文字か?)。…
 あなたに手紙を書いていたから、私も幸せです。
 これが新年の最初の手紙になるでしょう。—時計がもう鳴りました。
 そしてすぐに、次の手紙に『2』と書くつもりです。
 明日は、店へ本漁りに出かけるつもりです。
 送る予定の本をたくさん買っていますが、一度に多数の書籍を送らないように気に掛けています。また今のところは、それらを一つにして入れる小さな箱か何かを持っていません。箱なしでは、多数の書籍は受け付けてもらえないでしょう。…
 憶えていないのだけど、労働者の子ども用に編まれた<古典詩>と呼ばれるとても可愛いコレクションを購入したと、もう書きましたか?
 お別れに、その本から、アレクセイ・トルストイ〔Aleksei Tolstoy〕の詩を差し上げます。
 『何故かと問うな、疑問をもつな。
  理屈で判断するな。
  どれほどあなたを愛しているか? なぜあなたを愛しているのか?
  何のためにあなたを愛しているか? そしてそれはどの程度続くのか?
  何故かと問うな、疑問をもつな。
  あなたは私の妹か? それとも若い妻なのか?
  あるいは、小さな子どもか?
  私は知らないし、理解しもしない。
  あなたを何と呼ぶべきか、どのように呼ぶべきか。
  広い野原にはたくさんの花がある。
  空にはたくさんの星がある。
  でも、私には名前を付けることができない。
  それらの全てを見分けることもできない !!
  どのようにしてあなたを愛するようになったのか、私は問わなかった。
  私は理屈で判断しなかったし、疑問も持たなかった。
  私は、ただあなたへの愛に落ちただけだ。
  自らの賢明な心に、ただ従っただけだ !!』
 そう、レヴィ、これが今あなたに伝えたいことの全てです。
 新しい年がやって来て、床に就く時間です。
 ごきげんよう。
  スヴェート 1947年1月1日」
 ——
 第4章⑤、終わり。第5章へとつづく。