L. Engelstein, Russia in Flames -War, Revolution, Civil War, 1914-1921(2018)。
 上の書の以下だけを、すでに試訳した。
 ・第6部・勝利と後退/第2章・革命は自分に向かう。・結語。原書、p.606-p.632.
 上の直前の第1章に戻って、試訳を再開する。p.585以下。
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 第1章・プロレタリア独裁におけるプロレタリアート。
 第一節。
 (1)驚くかもしれないが、内戦の混乱と暴虐があったことを考えると、不安定なボルシェヴィキ体制は非資本主義経済の基礎を何とか築こうとしていた。
 ボルシェヴィキは、先行体制からいくつかの問題、戦略、諸制度を継承した。第一には穀物の徴発と戦争関連産業の結集だったが、引き継いだ国家装置は崩壊の途上にあり、ボルシェヴィキの政策はその解体をさらに押し進めた。
 それにもかかわらず、ボルシェヴィキの目標は、堅固な基盤の上に国家装置を再建することだった。
 (2)戦争は、いかなる政治体制のもとでも、国家による統制と計画化の強化を必要とする。
 だがしかし、社会主義のモデルは互いに矛盾し合う要素を含んでおり、社会主義者たちには多様な色合いがあった。
 ボルシェヴィキ党の内部ですら、違いがあった。
 ボルシェヴィキ指導者たちの指針は、明らかに、マルクス主義の基礎的な諸命題だった。すなわち、社会主義は私有財産を廃して国家所有の国有財産に換え、自律的な市場を中央計画に換え、富の不公平を経済的平等に換えなければならない。
 しかしながら、党内で、これらの命題をいかにして実際に適用するかに関する激しい論議が生じた。
 内戦の過程で採用された特別の措置は、十分に練られた予定にもとづいておらず、戦争の圧力と経済の崩壊が生んだ諸問題に対応するものにすぎなかった。
 それらは全てが一度に導入されたものではなく、1917年と1920年の間の三年間に切れ切れにとられた措置だった。(1)
 国家統制は中央の権力を想定していたが、−まだ十分な国家でなかった−ボルシェヴィキ国家は、この時点では、競合して無秩序な諸機関で構成されていた。
 どの分野についても、中央権力と地方の党幹部、イデオロギーと必要性、大きな展望と当面の危機管理との間に、緊張関係があった。
 (3)歴史家の Silvana Malleは、イデオロギーは「受容し得る選択可能な措置を選ぶためのフィルターとして働いた」が、特定の措置を指示するものではなかった、と観察する。(2)
 戦時共産主義(War Communism)という術語は、最初に、1920年4月にレーニンによって遡及的に用いられた。レーニンは、「この特有の戦争は共産主義だ。…極端な欠乏と破滅が我々に戦争を強いている。戦争はプロレタリアートの経済的任務にふさわしい政策ではないし、そうであってはならない」と強く主張した。(3)
 だが、その基礎的な構成要素は、まさしく精確に、想像された未来の共産主義のそれだった。(4)
 その諸要素は、階級戦争(階級闘争)の武器でもあった。
 教育人民委員のAnatolii Lunacharskii はこう言った。「我々はブルジョアジーを殺戮し、彼らの手にある全ての財産を破壊しなければならない。なぜなら彼らは、それを我々に対する武器として利用しているからだ」。
 「搾取者どもを搾取せよ」、「略奪されたものを略奪せよ」−これらは、加えて、十月のクー直後から続いた、大衆による強奪の波に承認印を与えるスローガンだった。(5)
 ボルシェヴィキを強奪者だと告発することは、非難ではなかった。大衆はボルシェヴィキがしていることを知っていた。
 (4)内戦中のソヴィエト政府を駆動させたのは、かくして、国家の計画と統制を通じて(産業、都市化、教育、生産性の)近代化の達成を目指す経済関係の構築を最優先する、という党の政策だった。だが、その目指す経済関係とは実際には、急場凌ぎのものでもあった。
 いつものようにレーニンは、イデオローグとプラグマティストのいずれでもあった。
 赤軍を結成して維持した経験をもつトロツキーは、社会主義的情緒主義(sentimentalism)とは無関係だった。
 この両人はやがて敵に変わって、各自のゲームでいかにして相手に対する勝利を達成するかに関するモデルを提示することになる。
 トロツキーにとっては、隊員と中央司令部をもつ軍隊だった。レーニンにとっては、巨大な企業と技術的専門知識をもつ資本主義だった。資本主義では国家の役割は戦時中という緊急事態の際に拡大する。
 ドイツの「国家資本主義」は、レーニンの手本(prototype)であり、彼は、いかなる手段によってしても、「いかに独裁的であっても」、「野蛮な中世的ロシアに」課されるべきものだ、と言った。−「野蛮主義と戦うにあたって野蛮な手段」を用いるのを躊躇してはならない。(6)
 これは異端説ではなかった。
 マルクス主義者は、独占資本主義と共産主義の間の構造的類似性を知って(recognize)いた。−産業発展の高度の次元での生産手段と労働の大衆化(massifuication)。先ずは私人の手に、次いで国家による統制のもとに。
 (5)権力政治上の目標(ソヴィエト体制が生き延びて、支配しようとする国を再建すること)を追求しつつ、人民委員たちは一方では、社会主義理論が正しく強調するように社会の生産力を構成する一般民衆の追従に頼らなければならなかった。
 大衆なくして経済はない。経済がなくして、意欲する大衆もいない。
 田園地方から穀物を挑発する切実な必要が農民の抵抗に対してどれほどに行われてきたか、交渉がどれほどに加減されなければななかったか、どれほどに多様な戦略が試みられ、失敗し、修正されてきたか、を我々は知っている。
 とどのつまりは、実力による強制と飢饉が生産者たちを整列させた。
 「飢えという骨ばった手」。
 (6)製品生産部門との関係では、政治的統制の行使とともに生産性の維持を必要とした。
 二つの重要な論点が関係していた。所有制と規制。
 1917年11月14日の労働者の支配に関する布令は、自分たち自身が管理権を奪取しようとの草の根の工場委員会の要求を称賛していた。
 しかしながら、その布令に表現された考え方は、労働者に生産に対する権力を付与するものではなかった。 「支配」(control)とは、資格のある技術者と行政官が諸活動を監視(monitor)する権利を意味した。言ってみれば、それらはすでに存在したのだ。
 さらに加えて、経済を統治する政策決定は、個々の工場施設や地方当局の次元によってなされるのではなく、権力の中央に、したがって、国家経済最高会議(VSNKh)という12月初めの設立物(establishment)にあった。
 (7)最初はまるで、国家所有制と労働者は協力して歩むがごとく見えた。
 店頭への権力行使の民主化を補完するものは、私有資産の奪取だった。
 工場委員会は、もっと大きな役割をすら望んで、迅速な変革に向かって圧力をかけた。
 しばしば個々の工場、鉱山または地方ソヴィエトは、主導権を握って、従前の所有者たちを排除した。
 対照的に、ソヴナルコム(Sovnarkom、人民委員会議)とVSNKhは、生産を維持することを懸念して、そのような進展を中止させるか遅延させようとしたが、それにもかかわらず、略奪の多くを称賛し、彼らが阻止することのできないものに公式の是認を与えた。
 さらに、VSNKhは1918年早くに、最大の冶金工業施設群の所有者と、没収および継続する諸機能について交渉を続けていた。(8)
 (8)ブレスト-リトフスクは、このような方向へと向かう強い誘因を与えた。
 この条約は、1918年7月1日以前に国家が掌握した企業を除いて、ドイツ所有の財産の返還を求めていた。除外財産については、正確な補償だけが要求された。
 かくして、1918年6月28日、多くはドイツ所有の共同出資会社が、突然に奪い取られた。
 全般的な国有化は、1920年11月までは行われなかった。その11月の時点で、全ての大企業とたいていの中規模企業を含んでおり、併せて工場労働者のほとんど90パーセントを占めていた。(9)
 労働者国家による生産手段の所有は、しかしながら、労働者たちが主人になることを意味しなかった。
 労働組合と委員会は、既存の経営者にしばしば抵抗し、賃上げと生産目標設定への関与の拡大を要求した。しかし、レーニンの関心は、全体としての経済の行く末にあった。
 レーニンは、こう宣告した。社会主義は、先ずは、政治権力の中央からの規整を受ける「国家資本主義」の段階を通ってのみ達成することができる。(10)
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 第一節①、終わり。