前回(No.2265)に茂木健一郎がYouTube上の「別の回」にも述べていて、と書いた「別の回」とは(日付不明になった)一週間ほど前の<「一つの意識」仮説>というタイトルの語りのことだ。私がすでに言及した内容では分かりにくいという反応があったためか、「一つの意識」仮説(One Conciousnss Hypothesis)をあらためて明瞭にしようとしている。
但し、さほどに明確になっているわけでもなく、すでに「私には、茂木の言いたい趣旨は分かるような気がする」と記した(No.2264)域を出るものにはほとんどなっていない。その、私の理解する趣旨を以下に書こうと思うが、概念・言葉の整理・確認しておこう。
上にたんに「意識」という場合の「意識」とはそれ一般ではなくおそらく「自己意識」のことだ。そして、この「自己意識」について茂木が self-conciousness という語を使い、<「この「私」が「私」であるという意識>等と言い換えているように、「自己意識」=「私(わたし)」と理解しておいて、ほぼ間違いないだろう。だからこそこの欄で「わたし」に関係させて言及している。
第三。茂木の前提は、<情報の同一性・類似性は自己・「私」の同一性>を担保せず、根拠にならない>、ということだ。脳内をコピーした別の物体?は、かりに有する情報が同一・類似であっても「私」ではない。自己に関する記憶を有していることも、根拠にならない。なぜなら、記憶は消滅し、変遷し、日々「作られて」いる。
上の二点に異論はない。朝目覚めて「自分」だと感じるとしても、就寝前と同一の「私」ではない。茂木が言うように、寝ている間に(レム睡眠の間に)「神経結合」はたぶん変化している(Synapse Connect という語も茂木は使ったようだ)。
しかし、上のことからロボット人間や就寝前の自分が「私」だと言えるなら、<他人>の自己意識とも同一だ、という結論は簡単には出てこない(説明不足だろう)。但し、結論的には、そのとおりだと思える。
これを長々と叙述するのはむつかしいが、第一に、特定の「私」=自分自身の子ども・孫・曾孫に「私」が一部にせよ継承されているなら、特定の「私」もまた、父親や母親の「私」が変化・発展する可能性があった無限数の中の一つにすぎず、同じことは、祖父母、曽祖父母、…の「私」にいついても言える。つまり、遠く遡る先祖と「私」は共通性がある。とすると、現在の<他人>についても同じことが言え、結局のところ、今の<他人>とも共通する「一つの意識」を今の自分は持っていることになる。
こういう「血」・遺伝子レベルでの「私」の継続は、ふつうは「家系」とか「一族」とか、広げても「日本人」程度の範囲でしか語られないだろうが、理屈は、日本人・日本民族以外の人間についても当てはまる。
第二に、「血」・遺伝子に着目しなくとも、つぎのようなことが言えるだろう。
数百億以上にのぼるだろう過去のヒト・人間は個々の個体・個人がそれぞれおそらく数千万回の可能性の中で、数千万回の選択をして(意識的か否かは別として)生涯を終えてきた。適当に数を挙げたが、かりにこれを前提とすると、今生きている我々個人のそれぞれが、数百億以上✖️数千万の可能性と何らかの選択の結果として存在している。地球上のヒト・人間の全ての、無限と言ってよい変化可能性の結果として、現在のヒト・人間も存在している。「一つの意識」のもとに我々もあるのだ。
こんなことを茂木は考えているのではなかろうか。しかし、当たり前のようなことでもあり、凡人の拙い理解なのかもしれない。
茂木健一郎は、ヒト・人間を超えた、つまり<種の境界・壁>(specie border )を超えた<一つの意識>を語り、犬・猫どころか、「単細胞のアメーバ」もまた<自己意識>をもちうる旨を(仮説として)語る。
長くなったので、別の回にしよう。
但し、さほどに明確になっているわけでもなく、すでに「私には、茂木の言いたい趣旨は分かるような気がする」と記した(No.2264)域を出るものにはほとんどなっていない。その、私の理解する趣旨を以下に書こうと思うが、概念・言葉の整理・確認しておこう。
上にたんに「意識」という場合の「意識」とはそれ一般ではなくおそらく「自己意識」のことだ。そして、この「自己意識」について茂木が self-conciousness という語を使い、<「この「私」が「私」であるという意識>等と言い換えているように、「自己意識」=「私(わたし)」と理解しておいて、ほぼ間違いないだろう。だからこそこの欄で「わたし」に関係させて言及している。
第三。茂木の前提は、<情報の同一性・類似性は自己・「私」の同一性>を担保せず、根拠にならない>、ということだ。脳内をコピーした別の物体?は、かりに有する情報が同一・類似であっても「私」ではない。自己に関する記憶を有していることも、根拠にならない。なぜなら、記憶は消滅し、変遷し、日々「作られて」いる。
上の二点に異論はない。朝目覚めて「自分」だと感じるとしても、就寝前と同一の「私」ではない。茂木が言うように、寝ている間に(レム睡眠の間に)「神経結合」はたぶん変化している(Synapse Connect という語も茂木は使ったようだ)。
しかし、上のことからロボット人間や就寝前の自分が「私」だと言えるなら、<他人>の自己意識とも同一だ、という結論は簡単には出てこない(説明不足だろう)。但し、結論的には、そのとおりだと思える。
これを長々と叙述するのはむつかしいが、第一に、特定の「私」=自分自身の子ども・孫・曾孫に「私」が一部にせよ継承されているなら、特定の「私」もまた、父親や母親の「私」が変化・発展する可能性があった無限数の中の一つにすぎず、同じことは、祖父母、曽祖父母、…の「私」にいついても言える。つまり、遠く遡る先祖と「私」は共通性がある。とすると、現在の<他人>についても同じことが言え、結局のところ、今の<他人>とも共通する「一つの意識」を今の自分は持っていることになる。
こういう「血」・遺伝子レベルでの「私」の継続は、ふつうは「家系」とか「一族」とか、広げても「日本人」程度の範囲でしか語られないだろうが、理屈は、日本人・日本民族以外の人間についても当てはまる。
第二に、「血」・遺伝子に着目しなくとも、つぎのようなことが言えるだろう。
数百億以上にのぼるだろう過去のヒト・人間は個々の個体・個人がそれぞれおそらく数千万回の可能性の中で、数千万回の選択をして(意識的か否かは別として)生涯を終えてきた。適当に数を挙げたが、かりにこれを前提とすると、今生きている我々個人のそれぞれが、数百億以上✖️数千万の可能性と何らかの選択の結果として存在している。地球上のヒト・人間の全ての、無限と言ってよい変化可能性の結果として、現在のヒト・人間も存在している。「一つの意識」のもとに我々もあるのだ。
こんなことを茂木は考えているのではなかろうか。しかし、当たり前のようなことでもあり、凡人の拙い理解なのかもしれない。
茂木健一郎は、ヒト・人間を超えた、つまり<種の境界・壁>(specie border )を超えた<一つの意識>を語り、犬・猫どころか、「単細胞のアメーバ」もまた<自己意識>をもちうる旨を(仮説として)語る。
長くなったので、別の回にしよう。