リチャード・パイプス・ロシア革命 1899-1919。
=Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
第12章・一党国家の建設。
----
第6節・立憲会議〔憲法制定会議〕選挙②。
(11)選挙結果を厳密に正しく確定することはできない。多くの地方で、諸政党やその分派が、ときには複雑な仕方で、連立を組んでいたからだ。ペトログラードだけでも、19政党が競い合った。
さらに問題を大きくしているのは、選挙を所管する共産党当局〔政府・ボルシェヴィキ〕が生のデータを持っていて、諸政党や別々の候補者名簿上のグループを「ブルジョア」や「プチ・ブル」という範疇で一括りにしたことだ。
可能なかぎりで最も正確には、選挙の最終結果(1000票単位)は、つぎのように決定することができる(この頁の表を参照)。(83)
(12)全く予期しなかったというわけではないが、結果は、レーニンを失望させた。
社会革命党〔エスエル〕の土地政策を採用して味方につけることを期待した農民たちは、ボルシェヴィキに投票しなかった。のみならず、左翼エスエルにも投票しなかった。
選挙の有効性を疑問視するためにボルシェヴィキが使った論拠の一つは、社会革命党の分裂が遅すぎたので左翼エスエルに分離した別の投票が行われなかった、ということだった。
しかし、この論拠には実体が存在しないことは、つぎの数字が明らかに示している。
いくつかの選挙区(ヴォロネス〔Voronetz〕、ヴィヤトカ〔Viatka〕、およびトボルスク〔Tobolsk〕)では、左翼エスエルと社会革命党主流派は、別々の候補者名簿を立てて争った。
いずれの選挙区でも、左翼エスエルは顕著な支持を獲得できなかった。総計のうち183万9000票は社会革命党に、そして左翼エスエルにはわずか2万6000票が投じられた。(84)//
***〔各1000票単位〕
ロシア・社会主義諸政党 68.9%
社会革命党〔エスエル〕 17,943 (40.4%)
ボルシェヴィキ 10,661 (24.0%)
メンシェヴィキ 1,144 ( 2.6%)
左翼エスエル 451 ( 1.0%)
その他 401 ( 0.9%)
ロシア・リベラルほか=非社会主義政党 7.5%
カデツト〔立憲民主党〕 2,088 ( 4.7%)
その他 1,261 ( 2.8%)
少数民族諸政党 13.4%
ウクライナ社会革命党 3,433 ( 7.7%)
ジョージア・メンシェヴィキ 662 ( 1.5%)
Mussvat(アゼルバイジャン) 616 ( 1.4%)
Dashnaktsutium(アルメニア)560 ( 1.3%)
Alash Orda(カザフスタン) 262 ( 0.6%)
その他 407 ( 0.9%)
不明 4,543 10.2%
***
ボルシェヴィキは、立憲会議の総議席715のうち175を、獲得した。
これは、左翼だと自認する社会革命党代議員と合わせると、30%だ。(*)
(13)ボルシェヴィキには、最も恐れた反対派政党であるカデット〔立憲民主党〕の強さも不愉快だった。
カデットは全国票の5パーセント未満しか獲得しなかったけれども、ボルシェヴィキは彼らを最も恐るべき対敵だと見なしていた。
カデットには、最多数の積極的支援者と新聞紙があった。
彼らは社会革命党よりもはるかによく組織され、財力をもっていた。
そして、ボルシェヴィキに対する社会主義対抗派とは違って、仲間意識、共通する社会的理想への奉仕感、および「反革命」とされることの怖れといったものに制約されていなかった。
カデットは、1917年遅くまで活動し続ける唯一の大きな非社会主義政党として、君主制主義者を含む右翼・中道の有権者を惹き付けそうだった。
選挙結果を総合的に見るならば、カデットは堤防が決壊したほどの大完敗を喫したわけではない、と実際に結論づけることができるかもしれない。(85)
だがこれは、表面的な結論だろう。
全国的な数字は、つぎの重要な政治的事実を覆い隠した。カデツトは、都市部できわめて健闘したのだ。その都市部は、ボルシェヴィキが農村地域での弱さを補うために必要で、かつ来たる内戦では決定的な戦闘地となると彼らが想定していた地域だった。
ペトログラードとモスクワでは、カデットはボルシェヴィキに次ぐ強さで、前者では26.2パーセント、後者では34.2パーセントの票を獲得した。
ボルシェヴィキのモスクワでの総数から消滅過程にあった軍隊の票を差し引けば、ボルシェヴィキの45.3パーセントに対して、カデットは総投票数の36.4パーセントを獲得していた。(86)
さらには、38の州都のうち11都市でカデットはボルシェヴィキを上回り、その他の多くの都市でかなり接近した第二位だった。
こうしてカデットは、全国的な獲得票数から結論づけるよりもはるかに手強い勢力を代表していた。//
結果はこのように失望をもたらしたにもかかわらず、ボルシェヴィキには、ある程度の慰めも生じさせた。
レーニンは、闘争の状態を調査している指揮者とは別に、数字を分析した。-彼は、多数の選挙区を「諸軍隊」と言いすらした。(87)
そして、国の中心部では自らの党は最善を尽くしたという事実に、安心することができた。国の中心部とはすなわち、大都市、工業地域、および軍隊だ。(88)
勝利した社会革命党の強さは、黒土(black-earth)地帯およびシベリアによっていた。
レーニンがのちに観察することになるように、投票数のこの地理的な配分は、赤軍と白軍との間の内戦での前線地域を予兆するものだった。(89)その内戦では、ボルシェヴィキは中心部を制覇し、敵対者たちは辺縁部を支配することになるのだったから。//
(14)ボルシェヴィキが満足したもう一つの根拠は、兵士と海兵、とくに都市部に駐在している軍団の支持だった。
この諸兵団には、一つの望みしかなかった。可能なかぎり早く故郷に帰って、土地再配分の分け前を受け取ること。
全政党の中でボルシェヴィキだけが、即時停戦交渉を開始すると約束していた。それは兵士ちに強く支持されるものだった。
ペトログラードとモスクワの連隊は、それぞれボルシェヴィキ獲得票のうち71.3パーセントと74.3パーセントを投じていた。
ペトログラード近くの北西にいる前線兵団もまた、ボルシェヴィキに最多票を与えた。
反戦争のプロパガンダがさほどは響かなかった遠く離れた前線地域では、そのようにうまくはいかなかった。しかし、それでもなお、記録を利用することのできる4つの野戦軍では、ボルシェヴィキが投票数の56パーセントを獲得していた。(90)
レーニンは、軍隊のこの支持がいかほどに固いものかについて、幻想を抱いてはいなかった。兵団が故郷に向って出発するときには、その支持は霧散してしまうだろう。
しかし、当面の間は、軍隊の支援は決定的に重要だった。ボルシェヴィキ兵団は、かりに少数しかいなくとも、民主主義反対派を威嚇する実力を有していた。
選挙結果を分析したレーニンは、満足げにこう記した。
ボルシェヴィキが軍隊の中に持つのは、「決定的な瞬間に、決定的な場所で、実力の圧倒的な優勢を確保することのできる、政治的に際立つ力」だ。(91)
(15)ソヴナルコムは11月20日に、立憲会議に関して議論した。
いくつかの重要な決定が下された。(92)
立憲会議の開会は、期間の限定なしで、延長された。
その表向きの理由は、11月28日までに定足数以上が集合するのは困難だ、ということだった。(93)
本当の理由は、ボルシェヴィキに時間稼ぎをさせることだった。
地方ソヴェトに対して、選挙の「不正」を全て報告するようにとの指令が発せられた。
その資料は、「再選挙」の理由として役立つはずだった。(94)
海軍人民委員のP. E. ドィベンコ(Dybenko)は、ペトログラードに1万人と2万人の間の武装海兵を集合させよとの命令を受け取った。(95)
そしておそらくはもっと重要なことだが、1月8日に第三回ソヴェト大会を招集することが決定された。ボルシェヴィキの支持者とエスエルが埋め尽くすその大会は、立憲会議に代わるものとされた。
このような手段をとろうとすることは、ボルシェヴィキがあれこれの方法を使って立憲会議を骨抜き(abort)にしようと意図していることを、示していた。//
(16)立憲会議の開会を漠然と延長するとの政府の声明は、社会主義諸党や農民大会代議員からの強い抗議を引き起こした。
11月22日-23日、立憲会議防衛同盟が設立された。これは、ペトログラード・ソヴェト、労働組合、およびボルシェヴィキと左翼エスエル以外の全ての社会主義諸党で構成されていた。(96)
(17)ボルシェヴィキは、立憲会議の選挙委員会(<Vsevybor>)を苦しめることで、立憲会議に対する攻撃を開始した。
ソヴナルコムの命令にもとづいて、スターリンとG・ペトロフスキ(Grigorii Petrovskii)は11月23日、選挙委員会に対して、関係資料を調べ直すことを命じた。
それが拒否されると、チェカは、委員会の委員等を勾留した。
のちにペトログラード・チェカの長になるM. S. ウリツキが選挙委員会の委員長に任命され、誰が委員会に出席するかについて広い裁量権が与えられた。(97)
(18)これに反応して、立憲会議防衛同盟は、ボルシェヴィキの命令を無視して、予定通りに立憲会議を開会すると決定した。(98)
11月28日、牢獄から釈放されたばかりの選挙委員会の委員たちは、タウリダ宮で協議を開始した。
ウリツキが姿を見せて、自分が同席してのみ会合することができる、と伝えた。しかし、ウリツキの言葉は無視された。
立憲会議の擁護者たちは、示威的にタウリダ宮正面に集まった。学生、労働者、兵士、およびストライキ中の公務員たちで、「全ての権力を立憲会議へ」と書かれた旗をもっていた。
ある新聞によると、その群衆の数は20万人とされている。しかし、この数字は誇張すぎだと思われる。共産党(ボルシェヴィキ)の報道官は、1万人だとした。(99)
ウリツキの命令によって、ペトログラードで最も頼もしいボルシェヴィキ兵団であるラトヴィア人銃撃隊がタウリダ宮を包囲したが、介入まではしなかった。
ある隊員たちは、自分たちは立憲会議を守るためにやって来た、と語った。
タウリダ宮の内部では、ほとんどがペトログラードまたはその近郊出身の45人の代議員たちが、幹部会(Presidium)を選出した。//
(18)その翌日、武装兵団がタウリダ宮の周囲を、厚く取り囲んだ。ラトヴィア人銃撃隊は退き、リトアニア人予備連隊、海兵派遣隊、機銃部隊によって増強されていた。
彼らは群衆からは安全な距離を保ち、代議員と信頼の措ける報道者たちだけが建物に入るのを許した。
夕方にかけて、海兵たちは代議員たちに、立ち去るよう命じた。
その翌日、海兵たち包囲兵団は、誰が立ち入るのも拒んだ。
この事件は、1月5日(旧暦)/18日(新暦)に現実に行われることとなる実力行使の強さを試す、リハーサルとなった。//
(19)カデットの攻撃的姿勢を押さえつけようと、ボルシェヴィキはその党(カデット・立憲民主党, Constitutional-Democratic Party)を非合法化した。
すでにペトログラードでの立憲会議選挙の最初の日に、ボルシェヴィキは武装した暴漢を派遣して、カデット機関紙<Rech'>の編集部を粉々に破壊していた。
同じことが2週間後に、<Nah vek>について繰り返された。
11月28日、レーニンは、典型的にプロパガンダ的な「革命に反対する内戦指導者たちの逮捕に関する布令」という名称をもつ命令を書いた。(100)
カデット指導者たちは「人民の敵」と宣告され、拘禁が命じられた。
その夜と翌日、ボルシェヴィキの派遣部隊は、捕らえることのできる著名なカデット党員全員の身柄を拘束した。その中には、何人かの立憲会議代議員もいた(A・I・シンガレフ(Shingarev)、P・D・ドルゴルコフ(Dorgorukov)、F・F・ココシキン(Kokoshkin)、S・V・パニナ(Panina)、A・I・ロジチェフ(Rodichev)等)。
これらの者たちは、のちに釈放された(パニナは滑稽な裁判のあとで)。但し、シンガレフとココシキンの二人は、ボルシェヴィキ海兵たちによって収監所病院で殺戮された。
カデットは、「人民の敵」だとされて、立憲会議の選挙運動に参加できなかった。
彼らは、ボルシェヴィキ政府が初めて非合法化した政党だった。
このことに対して、メンシェヴィキも社会革命党も、何ら憤慨しなかったように見える。//
-------------
(83) 以下にもとづく。L. M. Klassy i partii v grazhdanskoi voine v Rossi (1917-20 gg.)(Moscow, 1968)p.416-p.425、L. M. Spirin, Krushenie pomeshchich'ikh i burzhuaznyk partii v Rossi(Moscow, 1977), p.300-p.341。
(84) DN, No. 2/247(1918年1月8日), p.1.
(*) O. N. Znameskii, Vserrosiiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Leningrad, 1976), p.338.
左翼エスエルへの支持の多くは、ペトログラードの労働者およびバルトや黒海海軍の急進的な海兵から来ていた。
(85) Oliver Radkey, The Election to the Russian Constituent Assembly of 1917(Cambridge, Mass., 1950), p.15.
(86) O. N. Znameskii, Vserrosiiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Leningrad, 1976), 表1と表2。
(87) Lenin, PSS, XL, p.7.
(88) Radkey, Election, p.38.
(89) Lenin, PSS, XL, p.16-p.18.
(90) Znameskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.275, p.358.
(91) Lenin, PSS, XL, p.10.
(92) Fraiman, Forpost, p.163.
(93) Dekrety, I, p.159.
(94) Revoliutiia, VI, p.187.
(95) Fraiman, Forpost, p.163.
(96) Revoliutiia, VI, p.192.
(97) 同上, p.199.
(98) NV, No. 1(1917年11月30日), p.1-p.2, & No.2(1917年12月1日), p.2.; Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.; Znameskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.309-p.310.
(99) NV, No. 1(1917年11月30日), p.2,; Revoliutiia, VI, p.225.
(100) Dekrety, I, p.162.
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終わり。次節へとつづく。
=Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990年)。
第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。試訳のつづき。
第12章・一党国家の建設。
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第6節・立憲会議〔憲法制定会議〕選挙②。
(11)選挙結果を厳密に正しく確定することはできない。多くの地方で、諸政党やその分派が、ときには複雑な仕方で、連立を組んでいたからだ。ペトログラードだけでも、19政党が競い合った。
さらに問題を大きくしているのは、選挙を所管する共産党当局〔政府・ボルシェヴィキ〕が生のデータを持っていて、諸政党や別々の候補者名簿上のグループを「ブルジョア」や「プチ・ブル」という範疇で一括りにしたことだ。
可能なかぎりで最も正確には、選挙の最終結果(1000票単位)は、つぎのように決定することができる(この頁の表を参照)。(83)
(12)全く予期しなかったというわけではないが、結果は、レーニンを失望させた。
社会革命党〔エスエル〕の土地政策を採用して味方につけることを期待した農民たちは、ボルシェヴィキに投票しなかった。のみならず、左翼エスエルにも投票しなかった。
選挙の有効性を疑問視するためにボルシェヴィキが使った論拠の一つは、社会革命党の分裂が遅すぎたので左翼エスエルに分離した別の投票が行われなかった、ということだった。
しかし、この論拠には実体が存在しないことは、つぎの数字が明らかに示している。
いくつかの選挙区(ヴォロネス〔Voronetz〕、ヴィヤトカ〔Viatka〕、およびトボルスク〔Tobolsk〕)では、左翼エスエルと社会革命党主流派は、別々の候補者名簿を立てて争った。
いずれの選挙区でも、左翼エスエルは顕著な支持を獲得できなかった。総計のうち183万9000票は社会革命党に、そして左翼エスエルにはわずか2万6000票が投じられた。(84)//
***〔各1000票単位〕
ロシア・社会主義諸政党 68.9%
社会革命党〔エスエル〕 17,943 (40.4%)
ボルシェヴィキ 10,661 (24.0%)
メンシェヴィキ 1,144 ( 2.6%)
左翼エスエル 451 ( 1.0%)
その他 401 ( 0.9%)
ロシア・リベラルほか=非社会主義政党 7.5%
カデツト〔立憲民主党〕 2,088 ( 4.7%)
その他 1,261 ( 2.8%)
少数民族諸政党 13.4%
ウクライナ社会革命党 3,433 ( 7.7%)
ジョージア・メンシェヴィキ 662 ( 1.5%)
Mussvat(アゼルバイジャン) 616 ( 1.4%)
Dashnaktsutium(アルメニア)560 ( 1.3%)
Alash Orda(カザフスタン) 262 ( 0.6%)
その他 407 ( 0.9%)
不明 4,543 10.2%
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ボルシェヴィキは、立憲会議の総議席715のうち175を、獲得した。
これは、左翼だと自認する社会革命党代議員と合わせると、30%だ。(*)
(13)ボルシェヴィキには、最も恐れた反対派政党であるカデット〔立憲民主党〕の強さも不愉快だった。
カデットは全国票の5パーセント未満しか獲得しなかったけれども、ボルシェヴィキは彼らを最も恐るべき対敵だと見なしていた。
カデットには、最多数の積極的支援者と新聞紙があった。
彼らは社会革命党よりもはるかによく組織され、財力をもっていた。
そして、ボルシェヴィキに対する社会主義対抗派とは違って、仲間意識、共通する社会的理想への奉仕感、および「反革命」とされることの怖れといったものに制約されていなかった。
カデットは、1917年遅くまで活動し続ける唯一の大きな非社会主義政党として、君主制主義者を含む右翼・中道の有権者を惹き付けそうだった。
選挙結果を総合的に見るならば、カデットは堤防が決壊したほどの大完敗を喫したわけではない、と実際に結論づけることができるかもしれない。(85)
だがこれは、表面的な結論だろう。
全国的な数字は、つぎの重要な政治的事実を覆い隠した。カデツトは、都市部できわめて健闘したのだ。その都市部は、ボルシェヴィキが農村地域での弱さを補うために必要で、かつ来たる内戦では決定的な戦闘地となると彼らが想定していた地域だった。
ペトログラードとモスクワでは、カデットはボルシェヴィキに次ぐ強さで、前者では26.2パーセント、後者では34.2パーセントの票を獲得した。
ボルシェヴィキのモスクワでの総数から消滅過程にあった軍隊の票を差し引けば、ボルシェヴィキの45.3パーセントに対して、カデットは総投票数の36.4パーセントを獲得していた。(86)
さらには、38の州都のうち11都市でカデットはボルシェヴィキを上回り、その他の多くの都市でかなり接近した第二位だった。
こうしてカデットは、全国的な獲得票数から結論づけるよりもはるかに手強い勢力を代表していた。//
結果はこのように失望をもたらしたにもかかわらず、ボルシェヴィキには、ある程度の慰めも生じさせた。
レーニンは、闘争の状態を調査している指揮者とは別に、数字を分析した。-彼は、多数の選挙区を「諸軍隊」と言いすらした。(87)
そして、国の中心部では自らの党は最善を尽くしたという事実に、安心することができた。国の中心部とはすなわち、大都市、工業地域、および軍隊だ。(88)
勝利した社会革命党の強さは、黒土(black-earth)地帯およびシベリアによっていた。
レーニンがのちに観察することになるように、投票数のこの地理的な配分は、赤軍と白軍との間の内戦での前線地域を予兆するものだった。(89)その内戦では、ボルシェヴィキは中心部を制覇し、敵対者たちは辺縁部を支配することになるのだったから。//
(14)ボルシェヴィキが満足したもう一つの根拠は、兵士と海兵、とくに都市部に駐在している軍団の支持だった。
この諸兵団には、一つの望みしかなかった。可能なかぎり早く故郷に帰って、土地再配分の分け前を受け取ること。
全政党の中でボルシェヴィキだけが、即時停戦交渉を開始すると約束していた。それは兵士ちに強く支持されるものだった。
ペトログラードとモスクワの連隊は、それぞれボルシェヴィキ獲得票のうち71.3パーセントと74.3パーセントを投じていた。
ペトログラード近くの北西にいる前線兵団もまた、ボルシェヴィキに最多票を与えた。
反戦争のプロパガンダがさほどは響かなかった遠く離れた前線地域では、そのようにうまくはいかなかった。しかし、それでもなお、記録を利用することのできる4つの野戦軍では、ボルシェヴィキが投票数の56パーセントを獲得していた。(90)
レーニンは、軍隊のこの支持がいかほどに固いものかについて、幻想を抱いてはいなかった。兵団が故郷に向って出発するときには、その支持は霧散してしまうだろう。
しかし、当面の間は、軍隊の支援は決定的に重要だった。ボルシェヴィキ兵団は、かりに少数しかいなくとも、民主主義反対派を威嚇する実力を有していた。
選挙結果を分析したレーニンは、満足げにこう記した。
ボルシェヴィキが軍隊の中に持つのは、「決定的な瞬間に、決定的な場所で、実力の圧倒的な優勢を確保することのできる、政治的に際立つ力」だ。(91)
(15)ソヴナルコムは11月20日に、立憲会議に関して議論した。
いくつかの重要な決定が下された。(92)
立憲会議の開会は、期間の限定なしで、延長された。
その表向きの理由は、11月28日までに定足数以上が集合するのは困難だ、ということだった。(93)
本当の理由は、ボルシェヴィキに時間稼ぎをさせることだった。
地方ソヴェトに対して、選挙の「不正」を全て報告するようにとの指令が発せられた。
その資料は、「再選挙」の理由として役立つはずだった。(94)
海軍人民委員のP. E. ドィベンコ(Dybenko)は、ペトログラードに1万人と2万人の間の武装海兵を集合させよとの命令を受け取った。(95)
そしておそらくはもっと重要なことだが、1月8日に第三回ソヴェト大会を招集することが決定された。ボルシェヴィキの支持者とエスエルが埋め尽くすその大会は、立憲会議に代わるものとされた。
このような手段をとろうとすることは、ボルシェヴィキがあれこれの方法を使って立憲会議を骨抜き(abort)にしようと意図していることを、示していた。//
(16)立憲会議の開会を漠然と延長するとの政府の声明は、社会主義諸党や農民大会代議員からの強い抗議を引き起こした。
11月22日-23日、立憲会議防衛同盟が設立された。これは、ペトログラード・ソヴェト、労働組合、およびボルシェヴィキと左翼エスエル以外の全ての社会主義諸党で構成されていた。(96)
(17)ボルシェヴィキは、立憲会議の選挙委員会(<Vsevybor>)を苦しめることで、立憲会議に対する攻撃を開始した。
ソヴナルコムの命令にもとづいて、スターリンとG・ペトロフスキ(Grigorii Petrovskii)は11月23日、選挙委員会に対して、関係資料を調べ直すことを命じた。
それが拒否されると、チェカは、委員会の委員等を勾留した。
のちにペトログラード・チェカの長になるM. S. ウリツキが選挙委員会の委員長に任命され、誰が委員会に出席するかについて広い裁量権が与えられた。(97)
(18)これに反応して、立憲会議防衛同盟は、ボルシェヴィキの命令を無視して、予定通りに立憲会議を開会すると決定した。(98)
11月28日、牢獄から釈放されたばかりの選挙委員会の委員たちは、タウリダ宮で協議を開始した。
ウリツキが姿を見せて、自分が同席してのみ会合することができる、と伝えた。しかし、ウリツキの言葉は無視された。
立憲会議の擁護者たちは、示威的にタウリダ宮正面に集まった。学生、労働者、兵士、およびストライキ中の公務員たちで、「全ての権力を立憲会議へ」と書かれた旗をもっていた。
ある新聞によると、その群衆の数は20万人とされている。しかし、この数字は誇張すぎだと思われる。共産党(ボルシェヴィキ)の報道官は、1万人だとした。(99)
ウリツキの命令によって、ペトログラードで最も頼もしいボルシェヴィキ兵団であるラトヴィア人銃撃隊がタウリダ宮を包囲したが、介入まではしなかった。
ある隊員たちは、自分たちは立憲会議を守るためにやって来た、と語った。
タウリダ宮の内部では、ほとんどがペトログラードまたはその近郊出身の45人の代議員たちが、幹部会(Presidium)を選出した。//
(18)その翌日、武装兵団がタウリダ宮の周囲を、厚く取り囲んだ。ラトヴィア人銃撃隊は退き、リトアニア人予備連隊、海兵派遣隊、機銃部隊によって増強されていた。
彼らは群衆からは安全な距離を保ち、代議員と信頼の措ける報道者たちだけが建物に入るのを許した。
夕方にかけて、海兵たちは代議員たちに、立ち去るよう命じた。
その翌日、海兵たち包囲兵団は、誰が立ち入るのも拒んだ。
この事件は、1月5日(旧暦)/18日(新暦)に現実に行われることとなる実力行使の強さを試す、リハーサルとなった。//
(19)カデットの攻撃的姿勢を押さえつけようと、ボルシェヴィキはその党(カデット・立憲民主党, Constitutional-Democratic Party)を非合法化した。
すでにペトログラードでの立憲会議選挙の最初の日に、ボルシェヴィキは武装した暴漢を派遣して、カデット機関紙<Rech'>の編集部を粉々に破壊していた。
同じことが2週間後に、<Nah vek>について繰り返された。
11月28日、レーニンは、典型的にプロパガンダ的な「革命に反対する内戦指導者たちの逮捕に関する布令」という名称をもつ命令を書いた。(100)
カデット指導者たちは「人民の敵」と宣告され、拘禁が命じられた。
その夜と翌日、ボルシェヴィキの派遣部隊は、捕らえることのできる著名なカデット党員全員の身柄を拘束した。その中には、何人かの立憲会議代議員もいた(A・I・シンガレフ(Shingarev)、P・D・ドルゴルコフ(Dorgorukov)、F・F・ココシキン(Kokoshkin)、S・V・パニナ(Panina)、A・I・ロジチェフ(Rodichev)等)。
これらの者たちは、のちに釈放された(パニナは滑稽な裁判のあとで)。但し、シンガレフとココシキンの二人は、ボルシェヴィキ海兵たちによって収監所病院で殺戮された。
カデットは、「人民の敵」だとされて、立憲会議の選挙運動に参加できなかった。
彼らは、ボルシェヴィキ政府が初めて非合法化した政党だった。
このことに対して、メンシェヴィキも社会革命党も、何ら憤慨しなかったように見える。//
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(83) 以下にもとづく。L. M. Klassy i partii v grazhdanskoi voine v Rossi (1917-20 gg.)(Moscow, 1968)p.416-p.425、L. M. Spirin, Krushenie pomeshchich'ikh i burzhuaznyk partii v Rossi(Moscow, 1977), p.300-p.341。
(84) DN, No. 2/247(1918年1月8日), p.1.
(*) O. N. Znameskii, Vserrosiiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Leningrad, 1976), p.338.
左翼エスエルへの支持の多くは、ペトログラードの労働者およびバルトや黒海海軍の急進的な海兵から来ていた。
(85) Oliver Radkey, The Election to the Russian Constituent Assembly of 1917(Cambridge, Mass., 1950), p.15.
(86) O. N. Znameskii, Vserrosiiskoe Uchreditel'noe Sobraine(Leningrad, 1976), 表1と表2。
(87) Lenin, PSS, XL, p.7.
(88) Radkey, Election, p.38.
(89) Lenin, PSS, XL, p.16-p.18.
(90) Znameskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.275, p.358.
(91) Lenin, PSS, XL, p.10.
(92) Fraiman, Forpost, p.163.
(93) Dekrety, I, p.159.
(94) Revoliutiia, VI, p.187.
(95) Fraiman, Forpost, p.163.
(96) Revoliutiia, VI, p.192.
(97) 同上, p.199.
(98) NV, No. 1(1917年11月30日), p.1-p.2, & No.2(1917年12月1日), p.2.; Pravda, No. 91(1924年4月20日), p.3.; Znameskii, Uchreditel'noe Sobraine, p.309-p.310.
(99) NV, No. 1(1917年11月30日), p.2,; Revoliutiia, VI, p.225.
(100) Dekrety, I, p.162.
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終わり。次節へとつづく。