レフとスヴェトラーナ。
***
第3章③。
(23) ペチョラに来てから初めて、レフは、靴と衣類を乾いた状態に保つことができた。
彼は、一日じゅう、暖かかった。
攻撃的な監視者に煩わされることもなかった。
彼の意欲にとっておそらくもっと重要だったのは、蒸気室で仕事をしていないとき、実験室のストレルコフを訪れたことだった。
そこにストレルコフは30メートル四方の余裕のある居間をこしらえていて、ネコを飼っていた(「ワシリィ・トリフォニュチ(Vasily Trifonych)」)。また、その居間で、楽しい会話、カードやチェスをし、彼が製作したラジオから流れる音楽を聴き、彼が科学用フラスコで醸造したウォッカを飲み、野菜を食べながら友人たちをもてなした。その野菜は、とくにそのために作った木製暖房器で温めた窓際の箱で、栽培したものだった。
温められた葉の下では、花も生え育っていた。-これを見た木材工場群の長は感情を動かされ、花畑を作るというストレルコフの最も新しい夢を、承認した。//
(24) レフは、木材乾燥所に移動して、初めて手紙を書く機会を得た。
手紙を書くのは、以前は不可能だった。
引揚げチームで働いていた間は、遅くに営舎に戻ったものだ。-彼は、お腹が空いて、汚れていて、濡れていて、そして寒かった。全てに力尽きていて、夕食後照灯が消える前に手紙を書くことのできる状態ではなかった。
いずれにせよ、用紙も、ペンも持っていなかった。
しかし、乾燥所で働いた後で、レフには、手紙を書く時間ができた。また、ストレルコフから、手紙を書くのに必要なものを貰った。
(25) レフは、スヴェータやオルガにはもう手紙を書かないと決めていた。
スヴェータの最後の誕生日に、彼女と再び逢うことはないと望みを絶った。
十年の判決とペチョラへの護送によって、絶望感は強くなったに違いなかった。
5年間知らせがなかった女性に手紙を書くことの意味は、いったい何だったのか?
その女性は死んでいるかもしれなかった。
彼のことなど諦めて、誰か別の男と結婚しているかもしれなかった。
彼女が受刑者から手紙を受け取るのは、厄介なことかもしれなかった。
レフが最も望まないことは、自分が彼女に接触することによって彼女を危険に晒すことだった。
レフは、スヴェータの人生には立ち入らない、と考えていた。
おそらくは、受刑者である長い年月によって生じた無情の感覚の、犠牲者になっていたのだろう。彼は、自分には彼女に愛を求める権利はない、と感じていた。
(26) いくつかの理由で、その当時に、レフは考えを変えた。
おそらくは、ストレルコフやその友人たちとの友好的な交際が、レフの精神を再びもち上げたのだ。
おそらくは、のちに彼自身が説明したように、スヴェータに何が生じているかを知りたいという欲求に、「弱っているときに、屈服した」のだ。
レフは敢えて、スヴェータに直接には手紙を書かなかった。代わりに、オルガ(「オーリャ」)に手紙を書いて、彼女の安否を尋ねた。
「1946年6月2日。
親愛なる叔母さん、オーリャ!//
このような手紙を受け取るとは、きっと思っていなかったでしょう。
あなたが元気で生きているのかどうかすら、知っていません。
この5年間に、たくさんの事が起こりました。
あなたに手紙を出すのを、どうか許して下さい。でもあなたは、私にはいつも大切な人です。-いま私は、あなたの助けがほしい。
カーチャ叔母さんにも、手紙を書きたかった。でも、彼女のアパートの住所番号を思い出すことができません。//
私は、MVDの矯正労働収容所にいます。ここで、10年の判決に服しています。
1945年に、祖国に対する大逆だとして有罪になりました。
どのようにして、何が、なぜ-。一回の手紙で書くのは長くなるし、困難でしょう。…。//
北方の気候のことを考えないとすれば、ここの条件は良いです。
困難なただ一つは、この5年間、私と親しかった人々、私がいつも愛してきた人々について、何も知ってこなかった、ということです。
返事を下さるのなら、カーチャ叔母、ヴェラ〔オルガの義妹〕、Mikh. Iv.〔オルガの夫〕について、書いて下さい。
ニキータはどうしている?、S〔原文ママ-試訳者〕の家族は?
私については、彼らに何も教えないで下さい。でも、彼らについてあなたが知っていることを、私に書き送って下さい。//
あなたは元気だと思いたい。
心から、あなた方の最善をお祈りします。-あなた、カーチャ叔母、Mikh. Iv. そして他の全ての皆さんの。
この長い年月の間ずっと、いつもあなた方のことを思ってきました。//
では、ごきげんよう。
L〔レフ〕・ミシュチェンコ。
私のアドレス-Komi ASSR、 ペチョラ駅、木材工場群、郵便箱 274/11、L. G. Mishchenko。」
(27) レフがオルガからの返書を受け取ったのは、7月31日だった。
それは、彼が離れた世界の人々との、最初の接触になった。
その手紙は、動転させるほどのものだった。
(28) オルガが彼に書いていたのは、スヴェータの妹のターニャを含む、戦時中の多数の友人や縁戚者の死だった。
しかし、彼女はまた、スヴェータが元気で生きていることも、書いていた。
翌日に、レフはオルガに書き送った。
「第2信。
ペチョラ、1946年8月1日。
親愛なるオルガ叔母さん、昨日、1946年7月31日に、あなたの最初の手紙を受け取りました。
31日というのは、しばしば、私には楽しい日付になりました。
〔原書注-レフは、1936年7月31日に、イストラ河で溺れて救われている。〕
あなたの手紙は、どれだけ私の感情を掻き乱したことでしょう。
どれだけの幸福を、どれほどの気持ちの温かさを、私に伝えてくれたことでしょう。-表現する言葉が見つかりません。
あなたからは何も予想していませんでした。今度のような手紙を望むことはできませんでした。
あなたが生きているのを知って幸せです。でも、体調が良くなくて、一人でいるのを知って悲しい。
我々の人生には、何と多く、苦しい喪失があるのでしょう。…。
ターニャのことは、とても痛ましい。
他のSの家族はみんな元気でいるのは、とても有難いことです。
Sが生きている、彼女の生活は十分で意味がある、と知ってどれだけ幸せなのか、あなたに表現することができません。
心の奥底から、彼女の全ての幸せを願っています。
あなたが彼女と今でも関係があるのは、嬉しい。
彼女について、あなたが分かることは何でも、書き送って下さい。
どの研究所で彼女は仕事をしているのか? そして、誰と一緒に?
彼女の専門は? 博士課程を修了したのか?
彼女への私の気持ちは、時間と距離が二人を分かちましたが、同じままです。//
負担をかけたくないので、この手紙は彼女にではなくあなたに書いています。
私によって面倒がかかることがないよう、過去の想い出と現在私が生きているという想いで彼女の心に影が投げかけられるようなことにならないよう、彼女の生活を静穏なままにさせておいて下さい。」//
(29) 1946年の初めまで、スヴェータは、レフにもう一度逢うという望みを、全て投げ棄てていた。
他の者たちはみな、戦争から帰ってきていた。そして彼女は、レフは死んだか永遠に行方不明になったと、想定せざるを得なかった。
長い年月、彼女は「眠れなかった」、「食べようとしなかった」、そして、「彼女の両親を絶望に追い立てた」。
スヴェータはレフに、「一言でいいから、と切望した」。
そうならば、「全てが変わっていたでしょう」。
しかし、時が経つにつれて、彼女はますます落胆し、希望を失った。
そしてそのとき、オルガから聞いた。//
すぐに、レフにあてて、スヴェータは書いた。
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第3章④につづく。
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第3章③。
(23) ペチョラに来てから初めて、レフは、靴と衣類を乾いた状態に保つことができた。
彼は、一日じゅう、暖かかった。
攻撃的な監視者に煩わされることもなかった。
彼の意欲にとっておそらくもっと重要だったのは、蒸気室で仕事をしていないとき、実験室のストレルコフを訪れたことだった。
そこにストレルコフは30メートル四方の余裕のある居間をこしらえていて、ネコを飼っていた(「ワシリィ・トリフォニュチ(Vasily Trifonych)」)。また、その居間で、楽しい会話、カードやチェスをし、彼が製作したラジオから流れる音楽を聴き、彼が科学用フラスコで醸造したウォッカを飲み、野菜を食べながら友人たちをもてなした。その野菜は、とくにそのために作った木製暖房器で温めた窓際の箱で、栽培したものだった。
温められた葉の下では、花も生え育っていた。-これを見た木材工場群の長は感情を動かされ、花畑を作るというストレルコフの最も新しい夢を、承認した。//
(24) レフは、木材乾燥所に移動して、初めて手紙を書く機会を得た。
手紙を書くのは、以前は不可能だった。
引揚げチームで働いていた間は、遅くに営舎に戻ったものだ。-彼は、お腹が空いて、汚れていて、濡れていて、そして寒かった。全てに力尽きていて、夕食後照灯が消える前に手紙を書くことのできる状態ではなかった。
いずれにせよ、用紙も、ペンも持っていなかった。
しかし、乾燥所で働いた後で、レフには、手紙を書く時間ができた。また、ストレルコフから、手紙を書くのに必要なものを貰った。
(25) レフは、スヴェータやオルガにはもう手紙を書かないと決めていた。
スヴェータの最後の誕生日に、彼女と再び逢うことはないと望みを絶った。
十年の判決とペチョラへの護送によって、絶望感は強くなったに違いなかった。
5年間知らせがなかった女性に手紙を書くことの意味は、いったい何だったのか?
その女性は死んでいるかもしれなかった。
彼のことなど諦めて、誰か別の男と結婚しているかもしれなかった。
彼女が受刑者から手紙を受け取るのは、厄介なことかもしれなかった。
レフが最も望まないことは、自分が彼女に接触することによって彼女を危険に晒すことだった。
レフは、スヴェータの人生には立ち入らない、と考えていた。
おそらくは、受刑者である長い年月によって生じた無情の感覚の、犠牲者になっていたのだろう。彼は、自分には彼女に愛を求める権利はない、と感じていた。
(26) いくつかの理由で、その当時に、レフは考えを変えた。
おそらくは、ストレルコフやその友人たちとの友好的な交際が、レフの精神を再びもち上げたのだ。
おそらくは、のちに彼自身が説明したように、スヴェータに何が生じているかを知りたいという欲求に、「弱っているときに、屈服した」のだ。
レフは敢えて、スヴェータに直接には手紙を書かなかった。代わりに、オルガ(「オーリャ」)に手紙を書いて、彼女の安否を尋ねた。
「1946年6月2日。
親愛なる叔母さん、オーリャ!//
このような手紙を受け取るとは、きっと思っていなかったでしょう。
あなたが元気で生きているのかどうかすら、知っていません。
この5年間に、たくさんの事が起こりました。
あなたに手紙を出すのを、どうか許して下さい。でもあなたは、私にはいつも大切な人です。-いま私は、あなたの助けがほしい。
カーチャ叔母さんにも、手紙を書きたかった。でも、彼女のアパートの住所番号を思い出すことができません。//
私は、MVDの矯正労働収容所にいます。ここで、10年の判決に服しています。
1945年に、祖国に対する大逆だとして有罪になりました。
どのようにして、何が、なぜ-。一回の手紙で書くのは長くなるし、困難でしょう。…。//
北方の気候のことを考えないとすれば、ここの条件は良いです。
困難なただ一つは、この5年間、私と親しかった人々、私がいつも愛してきた人々について、何も知ってこなかった、ということです。
返事を下さるのなら、カーチャ叔母、ヴェラ〔オルガの義妹〕、Mikh. Iv.〔オルガの夫〕について、書いて下さい。
ニキータはどうしている?、S〔原文ママ-試訳者〕の家族は?
私については、彼らに何も教えないで下さい。でも、彼らについてあなたが知っていることを、私に書き送って下さい。//
あなたは元気だと思いたい。
心から、あなた方の最善をお祈りします。-あなた、カーチャ叔母、Mikh. Iv. そして他の全ての皆さんの。
この長い年月の間ずっと、いつもあなた方のことを思ってきました。//
では、ごきげんよう。
L〔レフ〕・ミシュチェンコ。
私のアドレス-Komi ASSR、 ペチョラ駅、木材工場群、郵便箱 274/11、L. G. Mishchenko。」
(27) レフがオルガからの返書を受け取ったのは、7月31日だった。
それは、彼が離れた世界の人々との、最初の接触になった。
その手紙は、動転させるほどのものだった。
(28) オルガが彼に書いていたのは、スヴェータの妹のターニャを含む、戦時中の多数の友人や縁戚者の死だった。
しかし、彼女はまた、スヴェータが元気で生きていることも、書いていた。
翌日に、レフはオルガに書き送った。
「第2信。
ペチョラ、1946年8月1日。
親愛なるオルガ叔母さん、昨日、1946年7月31日に、あなたの最初の手紙を受け取りました。
31日というのは、しばしば、私には楽しい日付になりました。
〔原書注-レフは、1936年7月31日に、イストラ河で溺れて救われている。〕
あなたの手紙は、どれだけ私の感情を掻き乱したことでしょう。
どれだけの幸福を、どれほどの気持ちの温かさを、私に伝えてくれたことでしょう。-表現する言葉が見つかりません。
あなたからは何も予想していませんでした。今度のような手紙を望むことはできませんでした。
あなたが生きているのを知って幸せです。でも、体調が良くなくて、一人でいるのを知って悲しい。
我々の人生には、何と多く、苦しい喪失があるのでしょう。…。
ターニャのことは、とても痛ましい。
他のSの家族はみんな元気でいるのは、とても有難いことです。
Sが生きている、彼女の生活は十分で意味がある、と知ってどれだけ幸せなのか、あなたに表現することができません。
心の奥底から、彼女の全ての幸せを願っています。
あなたが彼女と今でも関係があるのは、嬉しい。
彼女について、あなたが分かることは何でも、書き送って下さい。
どの研究所で彼女は仕事をしているのか? そして、誰と一緒に?
彼女の専門は? 博士課程を修了したのか?
彼女への私の気持ちは、時間と距離が二人を分かちましたが、同じままです。//
負担をかけたくないので、この手紙は彼女にではなくあなたに書いています。
私によって面倒がかかることがないよう、過去の想い出と現在私が生きているという想いで彼女の心に影が投げかけられるようなことにならないよう、彼女の生活を静穏なままにさせておいて下さい。」//
(29) 1946年の初めまで、スヴェータは、レフにもう一度逢うという望みを、全て投げ棄てていた。
他の者たちはみな、戦争から帰ってきていた。そして彼女は、レフは死んだか永遠に行方不明になったと、想定せざるを得なかった。
長い年月、彼女は「眠れなかった」、「食べようとしなかった」、そして、「彼女の両親を絶望に追い立てた」。
スヴェータはレフに、「一言でいいから、と切望した」。
そうならば、「全てが変わっていたでしょう」。
しかし、時が経つにつれて、彼女はますます落胆し、希望を失った。
そしてそのとき、オルガから聞いた。//
すぐに、レフにあてて、スヴェータは書いた。
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第3章④につづく。