Leszek Kolakowski, Modernity on Endless Trial (The Univerity of Chicago Press, 1990).
第三部・リベラル・革命家・夢想家について。
第19章・「保守リベラル社会主義者になる方法-信条」。
=How to Be Conservative-Liberal-Socialist. Credo.
(原文/1978年10月-Encounter。著者による修正あり。)
A/、B/、C/、は、原文にはない。
----
L・コワコフスキ「保守リベラル社会主義者になる方法」①。
標語・「後ろの方へ前進して下さい!」。
これは、私がワルシャワの路面電車の中でかつて聞いたお願いを、ほぼ適切に翻訳したものだ。
決して存在しないだろう力強いインターナショナルのスローガンとして、私はこれを提案する。
***
A/ある保守派(Conservative)はこう考える。
1.人間の生活には、堕落や邪悪という対価がないような改良はなかったし、今後もないだろう。
そうだから、改革や改善を行ういずれの企てを考察する場合にも、その対価が必ず査定されなければならない。
別の言い方はすれば、多数の邪悪は共存できるものだ(すなわち、我々は包括的に全てにかつ同時に、これらに苦しめられることがあり得る)。
しかし、多数の善は、お互いに制限し合い、傷つけ合う。ゆえに、我々は決して、善を完全にかつ同時に享受することはないだろう。
全ゆる種類の平等がなく全ゆる種類の自由(liberty)もない社会は、完璧に可能だ。
しかし、全ての平等と全ての自由(freedom)を結合させている社会秩序は、可能ではない。
同じことは、計画化と自律という原理の両立可能性、安全確保と技術の進歩、についても当てはまる。
また別の言い方をすれば、人間の歴史には幸福な終わり方はない。
2.かりにある社会における生活が耐えられるもので、あるいは可能ですらあるとすれば、我々は、社会生活上の多様な伝統的形態-家族、儀礼、民族、宗教的共同体-がいかなる程度に不可欠のものであるかを分かっていない。
これら諸形態を破壊したり非合理的だと烙印を捺すときに、我々は幸福、平和、安全、あるいは自由を得る機会を増大させる、と考えるいかなる根拠もない。
例えば、かりに一夫一婦制家族が廃止されるとすれば、あるいは死者を埋葬する際の古き良き慣習が産業目的のための死体の合理的再利用に取って代わられるとすれば、いったいどのようなことが起きるのか、我々は確実には分かっていない。
しかし、我々はきっと、最悪のことを予期するだろう。
3.啓蒙主義の固定観念(idée fixe)-嫉妬、虚栄、貪欲、および攻撃心は全て社会制度の欠陥によって惹起される、また、その制度がいったん改良されればこれらもまた一掃される-は、全く信じ難い、全ての経験に反するものであるのみならず、きわめて危険なものだ。
人間の本性に反するものであるなら、それら諸制度は、いったいどのようにして発生したのか?
我々は友情、愛、および利他心を制度化することができる、という希望を抱くのは、専制体制への信頼できる青写真をすでに持つ、ということだ。
***
B/へとつづく。
第三部・リベラル・革命家・夢想家について。
第19章・「保守リベラル社会主義者になる方法-信条」。
=How to Be Conservative-Liberal-Socialist. Credo.
(原文/1978年10月-Encounter。著者による修正あり。)
A/、B/、C/、は、原文にはない。
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L・コワコフスキ「保守リベラル社会主義者になる方法」①。
標語・「後ろの方へ前進して下さい!」。
これは、私がワルシャワの路面電車の中でかつて聞いたお願いを、ほぼ適切に翻訳したものだ。
決して存在しないだろう力強いインターナショナルのスローガンとして、私はこれを提案する。
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A/ある保守派(Conservative)はこう考える。
1.人間の生活には、堕落や邪悪という対価がないような改良はなかったし、今後もないだろう。
そうだから、改革や改善を行ういずれの企てを考察する場合にも、その対価が必ず査定されなければならない。
別の言い方はすれば、多数の邪悪は共存できるものだ(すなわち、我々は包括的に全てにかつ同時に、これらに苦しめられることがあり得る)。
しかし、多数の善は、お互いに制限し合い、傷つけ合う。ゆえに、我々は決して、善を完全にかつ同時に享受することはないだろう。
全ゆる種類の平等がなく全ゆる種類の自由(liberty)もない社会は、完璧に可能だ。
しかし、全ての平等と全ての自由(freedom)を結合させている社会秩序は、可能ではない。
同じことは、計画化と自律という原理の両立可能性、安全確保と技術の進歩、についても当てはまる。
また別の言い方をすれば、人間の歴史には幸福な終わり方はない。
2.かりにある社会における生活が耐えられるもので、あるいは可能ですらあるとすれば、我々は、社会生活上の多様な伝統的形態-家族、儀礼、民族、宗教的共同体-がいかなる程度に不可欠のものであるかを分かっていない。
これら諸形態を破壊したり非合理的だと烙印を捺すときに、我々は幸福、平和、安全、あるいは自由を得る機会を増大させる、と考えるいかなる根拠もない。
例えば、かりに一夫一婦制家族が廃止されるとすれば、あるいは死者を埋葬する際の古き良き慣習が産業目的のための死体の合理的再利用に取って代わられるとすれば、いったいどのようなことが起きるのか、我々は確実には分かっていない。
しかし、我々はきっと、最悪のことを予期するだろう。
3.啓蒙主義の固定観念(idée fixe)-嫉妬、虚栄、貪欲、および攻撃心は全て社会制度の欠陥によって惹起される、また、その制度がいったん改良されればこれらもまた一掃される-は、全く信じ難い、全ての経験に反するものであるのみならず、きわめて危険なものだ。
人間の本性に反するものであるなら、それら諸制度は、いったいどのようにして発生したのか?
我々は友情、愛、および利他心を制度化することができる、という希望を抱くのは、専制体制への信頼できる青写真をすでに持つ、ということだ。
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B/へとつづく。