レフとスヴェトラーナ。
第1章②。
(12) ボルシェヴィキは、1919年の秋に、ベリョゾボにやって来た。
彼らは、白軍と協力していると見なされた「ブルジョア」の人質を逮捕し始めた。白軍は反革命軍で、内戦の間はこの地域を占拠していた。
ある日、ボルシェヴィキは、レフの両親を連れて行った。
4歳のレフは、祖母と一緒に行って、両親が地方の監獄にいるのを見た。
父親のグレブは他の9人の収監者と一緒に、大きな獄房に入れられていた。
レフはそこに入るのを許され、父親の側に座った。その間じゅう、看守がライフルを持って入口の傍らにいた。
「あのおじさんは、狩猟家なの?」
レフが尋ねると、父は、「あのおじさんは我々を守ってくれている」と答えた。
レフの母親は、独房にいた。
彼は母親に、二度会いに行った。
その最後のとき、母親は一椀のサワー・クリームと砂糖をレフに与えた。それらは、彼の訪問が記憶に残るように、収監者への配給金で買ったものだった。
(13) ほどないうちに、レフは病院に連れていかれた。母親は死にかけていた。
彼女は、たぶん看守に、胸部を狙撃されていた。
レフが病室の入り口にいたとき、看護婦が、不思議な赤い拍動する物体を手にして彼の側を通りすぎた。
それを見て怯えて、祖母が別れを告げるように彼に言ったとき、レフは病室内に入るのを拒んだ。だが、入口辺りから、祖母がベッドの上に行って、母親の額に接吻するのを見ていた。
(14) 葬儀は、町の大きな教会で行われた。
レフは、祖母と一緒に行った。
開いた棺の正面にある椅子に座ったが、彼は小さくて中をのぞき込んで母親の顔を見ることができなかった。
だが、棺の後ろから、色彩に富むイコノスタスで描かれた表面を見ることができた。そして、蝋燭の光で、レフは、棺の頭部の真上に神の御母のイコンがあるのに気づいた。
彼は、神の御母の顔は自分自身の母親とよく似ていると思った、と記憶している。
レフの父親は、葬儀のために監獄から一時釈放され、護衛に付き添われて、彼の傍らに姿を見せた。
「別れを言いに来た」とある婦人が語るのを、レフは聞いた。
しばらくの間、棺の側に立ったのち、父親は去っていった。
レフはのちに、教会の外の共同墓地にある、母親の墓を訪れた。
新しく掘り上げられた土塚は雪とは反対に黒く、その頂上には誰かが木の十字架を置いていた。
(15) 数日のちに、祖母は彼を、同じ教会での第二の葬礼に連れて行った。
今度は、イコノスタスの正面に低く並べられた10の棺があった。全て、ボルシェヴィキによって殺害された犠牲者たちだった。
そのうちの一つが、レフの父親だった。
父親の獄房の収監者たちはみな、同時に射殺された。
彼らがどこに埋葬されているのかは、知られていない。
(16) 1921年の雨が少ない夏、飢饉がロシアの農村地帯を襲った。そのとき、レフは祖母と一緒にモスクワに戻った。
ボルシェヴィキは、「ブルジョアジー」に対する階級戦争を一時的に中止した。その結果、モスクワの残存中間階層がもう一度生活することが可能になった。
彼の祖母は、小取引者と商店主が住む地区であるレフォルトヴォで20年間、助産婦として働いていた。そして、彼女とレフはこのときにその地区に引っ越して、遠い親戚と一緒に生活した。
彼らは1年間、祖母が奇妙な看護婦の仕事をしている間、一室の角を-カーテンの裏のふつうのベッドと簡易ベッドで-占有した。
1922年、レフは、「カーチャおばさん」(ヴァレンティナの妹)に引き取られた。彼女は、クレムリンから石を投げれば届く距離のグラノフスキ通りの共同住宅で、二番目の夫と暮らしていた。
レフはそこに1924年まで滞在し、そのあと母親の叔母のエリザヴェータのアパートに転居した。この人は以前は女子高校の学校長で、その住居はマライア・ニキツカヤ通りにあった。
レフは思い出す。「ほとんど毎日、カーチャおばさんが我々を訪れてくれた。そうして、私は、女性たちの影響と世話がつねにある状況の中で成長しました」。
(17) 三人の女性たちの愛情は-三人ともに自分の子どもがなかった-母親を失ったことの埋め合わせにはならなかっただろう。
だが、それによってレフには、女性一般に対する尊敬が、あるいは畏敬の念すらが、生まれた。
女性たちの愛情に付け加えられたのは、彼の両親の親しい友人たちのうちの三人による、精神的かつ物質的な支援だった。彼らはみな、一定の金額を定期的にレフの祖母に送ってきた。三人とは、アルメニアの首都のエレヴァンにいる名付け親の医師、モスクワ大学の音響学教授のセルゲイ・ルジェフキン(「ゼリョザ叔父さん」)、年配のメンシェヴィキで言語学者、技師および学校教師のニキータ・メルニコフ(「ニキータ叔父さん」)で、レフはニキータを「二番めのお父さん」と呼んだ。
(18) レフは、ボルシャヤ・ニキツカヤ通りにある、以前は女子ギムナジウムだった男女共学の学校へ通った(男子または女子だけの学校は、ロシアでは1918年に廃止されていた)。
両翼をもつ古典的19世紀の邸宅が使用されていて、レフが通い始めた頃の学校はまだ、その時代の知識人たちの雰囲気を保っていた。
多数の教師たちは1917年以前も、その学校で教えていた。
レフのドイツ語の教師は、以前の校長だった。
幼年組の教師は有名なウクライナの作曲家の従兄弟で、彼のロシア語の教師は作家のミハイル・ブルガコフに縁戚があった。
しかし、レフが10歳代の1930年代初頭には、学校教育は工業技術を中心とする教科課程に移行していて、工学の勉強はモスクワの工場と連結していた。
工業技術者が、実際的な指示や実験をして学校で授業をし、子どもたちが工場での実習生になるよう準備させることになる。
(19) ヴゾフスキ小路にあったスヴェータの学校は、レフの学校から大して遠くはなかった。
二人がこの当時に出会っていたならば、二人はどうなっていただろうか?
彼らの出自は、かなり異なっていた。-レフはモスクワの中流階級の出身で、彼の祖母の正教の価値観はレフの躾け方にも反映されていた。一方、スヴェータは、技術系知識人たちのもっと進歩的な世界で育ってきた。
だが二人には、多くの共通する基本的な価値と関心があった。
二人ともに、年齢にしては成熟しており、真面目で、賢く、考え方に自主性があった。そして、プロパガンダや社会的因習からというよりも自分たちの経験で形成した、開放的な探求心のある知性を持っていた。
この自立性は、のちの彼らに大きく役立つことになる。
(20) スヴェータは1949年の手紙で、自分は11歳のときどんな少女だったかを思い出している。反宗教の運動が、ソヴィエトの諸学校で頂点に達していた頃のことだ。
「学校の他の子どもたちより、私は大人びていたように思える。<中略>
その頃、私は神や宗教の問題について、とても悩んだ。
隣人たちは信仰者で、ヤラは彼らの子どもたちをいつもからかっていた。
でも、私は割って入って、信仰の自由を擁護した。
そして、神に関する問題を、自分で解決した。
-神なくして、我々は永遠のことも創造のことも、理解することができないだろう。私が神の肝心な所を見ることができないのは、神が必要とされていないということだ(神を信じる他の人々には神が必要かもしれないが、私は必要としていない)。こう、結論づけた。」
(21) レフとスヴェータはともに、その年齢の頃までに、真面目に働いて責任感をもつという気風が生んだ人間という、巧妙な作品に育っていた。
スヴェータの場合は、イワノフ家の教育の結果だった。家の多数の雑用をこなすとともに、妹のターニャの面倒を見る責任もあった。レフの場合は、必要をもたらしたのは、彼の経済的境遇だった。
レフは学校に通っていた間ずっと、祖母の少ない年金を埋め合わせるために、働かなければならなかった。
(22) まだ15歳にすぎなかった1932年、レフは夜間の仕事をしていた。それは、ゴールキ公園とソコルニキ間の、モスクワで最初の地下鉄路線の建築工事の作業だった。
彼は街路を横切るルートを測定したのち、大部分は農民移住者で成る掘削チームに加わった。彼らは、ボルシェヴィキによって強制的に集団農場に入れられるのを避けて、モスクワに溢れるほどにやって来ていたのだ。
レフは、集団化が引き起こした、次の夏の恐るべき結果を知った。
急に増えた集団農場から離れ出た人物として、彼は、ウクライナの農村地帯出身の同僚作業員と知り合いになった。その農村地帯は、ひどい飢饉に見舞わられていた。
その男は「放擲された郷土の村落、死んでいく人々、囲いの中に積み重なった死体」について、悲しい詩を書いた。
詩がもつ、感情に訴える力にレフは強い印象を受けたが、驚くべき主題にたじろいでしまった。
「なぜ、そんな恐ろしい情景を作るのですか?」と尋ねると、答えはこうだった。
「作ってなどしていない」。
飢饉が存在している。誰にも、死んだ者を埋める体力がない。
レフは衝撃を受けた。
それまで、ソヴェト権力とその政策を本当に疑ったことは一度もなかった。
彼は共産主義青年同盟であるコムソモールの一員だったし、党を信じてきた。
しかし、その作業員の言葉で、疑いの種子が撒かれた。
その年ののち、レフは生物教師が組織した校内小旅行で、モスクワ近郊の集団農場へと行った。その教師は熱心なボルシェヴィキ支持者で、「害虫に対する闘争」を演じるふりをして、農場にある遺棄された家屋を使っていた。
その家屋内には、聖職者が持っていた書物を燃やした残り滓があって、その中には、レフの祖父がかつて読んだがソヴェト体制のもとではもはや用無しの言語である、ギリシア語で書かれた聖書も含まれていた。
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③へとつづける。
第1章②。
(12) ボルシェヴィキは、1919年の秋に、ベリョゾボにやって来た。
彼らは、白軍と協力していると見なされた「ブルジョア」の人質を逮捕し始めた。白軍は反革命軍で、内戦の間はこの地域を占拠していた。
ある日、ボルシェヴィキは、レフの両親を連れて行った。
4歳のレフは、祖母と一緒に行って、両親が地方の監獄にいるのを見た。
父親のグレブは他の9人の収監者と一緒に、大きな獄房に入れられていた。
レフはそこに入るのを許され、父親の側に座った。その間じゅう、看守がライフルを持って入口の傍らにいた。
「あのおじさんは、狩猟家なの?」
レフが尋ねると、父は、「あのおじさんは我々を守ってくれている」と答えた。
レフの母親は、独房にいた。
彼は母親に、二度会いに行った。
その最後のとき、母親は一椀のサワー・クリームと砂糖をレフに与えた。それらは、彼の訪問が記憶に残るように、収監者への配給金で買ったものだった。
(13) ほどないうちに、レフは病院に連れていかれた。母親は死にかけていた。
彼女は、たぶん看守に、胸部を狙撃されていた。
レフが病室の入り口にいたとき、看護婦が、不思議な赤い拍動する物体を手にして彼の側を通りすぎた。
それを見て怯えて、祖母が別れを告げるように彼に言ったとき、レフは病室内に入るのを拒んだ。だが、入口辺りから、祖母がベッドの上に行って、母親の額に接吻するのを見ていた。
(14) 葬儀は、町の大きな教会で行われた。
レフは、祖母と一緒に行った。
開いた棺の正面にある椅子に座ったが、彼は小さくて中をのぞき込んで母親の顔を見ることができなかった。
だが、棺の後ろから、色彩に富むイコノスタスで描かれた表面を見ることができた。そして、蝋燭の光で、レフは、棺の頭部の真上に神の御母のイコンがあるのに気づいた。
彼は、神の御母の顔は自分自身の母親とよく似ていると思った、と記憶している。
レフの父親は、葬儀のために監獄から一時釈放され、護衛に付き添われて、彼の傍らに姿を見せた。
「別れを言いに来た」とある婦人が語るのを、レフは聞いた。
しばらくの間、棺の側に立ったのち、父親は去っていった。
レフはのちに、教会の外の共同墓地にある、母親の墓を訪れた。
新しく掘り上げられた土塚は雪とは反対に黒く、その頂上には誰かが木の十字架を置いていた。
(15) 数日のちに、祖母は彼を、同じ教会での第二の葬礼に連れて行った。
今度は、イコノスタスの正面に低く並べられた10の棺があった。全て、ボルシェヴィキによって殺害された犠牲者たちだった。
そのうちの一つが、レフの父親だった。
父親の獄房の収監者たちはみな、同時に射殺された。
彼らがどこに埋葬されているのかは、知られていない。
(16) 1921年の雨が少ない夏、飢饉がロシアの農村地帯を襲った。そのとき、レフは祖母と一緒にモスクワに戻った。
ボルシェヴィキは、「ブルジョアジー」に対する階級戦争を一時的に中止した。その結果、モスクワの残存中間階層がもう一度生活することが可能になった。
彼の祖母は、小取引者と商店主が住む地区であるレフォルトヴォで20年間、助産婦として働いていた。そして、彼女とレフはこのときにその地区に引っ越して、遠い親戚と一緒に生活した。
彼らは1年間、祖母が奇妙な看護婦の仕事をしている間、一室の角を-カーテンの裏のふつうのベッドと簡易ベッドで-占有した。
1922年、レフは、「カーチャおばさん」(ヴァレンティナの妹)に引き取られた。彼女は、クレムリンから石を投げれば届く距離のグラノフスキ通りの共同住宅で、二番目の夫と暮らしていた。
レフはそこに1924年まで滞在し、そのあと母親の叔母のエリザヴェータのアパートに転居した。この人は以前は女子高校の学校長で、その住居はマライア・ニキツカヤ通りにあった。
レフは思い出す。「ほとんど毎日、カーチャおばさんが我々を訪れてくれた。そうして、私は、女性たちの影響と世話がつねにある状況の中で成長しました」。
(17) 三人の女性たちの愛情は-三人ともに自分の子どもがなかった-母親を失ったことの埋め合わせにはならなかっただろう。
だが、それによってレフには、女性一般に対する尊敬が、あるいは畏敬の念すらが、生まれた。
女性たちの愛情に付け加えられたのは、彼の両親の親しい友人たちのうちの三人による、精神的かつ物質的な支援だった。彼らはみな、一定の金額を定期的にレフの祖母に送ってきた。三人とは、アルメニアの首都のエレヴァンにいる名付け親の医師、モスクワ大学の音響学教授のセルゲイ・ルジェフキン(「ゼリョザ叔父さん」)、年配のメンシェヴィキで言語学者、技師および学校教師のニキータ・メルニコフ(「ニキータ叔父さん」)で、レフはニキータを「二番めのお父さん」と呼んだ。
(18) レフは、ボルシャヤ・ニキツカヤ通りにある、以前は女子ギムナジウムだった男女共学の学校へ通った(男子または女子だけの学校は、ロシアでは1918年に廃止されていた)。
両翼をもつ古典的19世紀の邸宅が使用されていて、レフが通い始めた頃の学校はまだ、その時代の知識人たちの雰囲気を保っていた。
多数の教師たちは1917年以前も、その学校で教えていた。
レフのドイツ語の教師は、以前の校長だった。
幼年組の教師は有名なウクライナの作曲家の従兄弟で、彼のロシア語の教師は作家のミハイル・ブルガコフに縁戚があった。
しかし、レフが10歳代の1930年代初頭には、学校教育は工業技術を中心とする教科課程に移行していて、工学の勉強はモスクワの工場と連結していた。
工業技術者が、実際的な指示や実験をして学校で授業をし、子どもたちが工場での実習生になるよう準備させることになる。
(19) ヴゾフスキ小路にあったスヴェータの学校は、レフの学校から大して遠くはなかった。
二人がこの当時に出会っていたならば、二人はどうなっていただろうか?
彼らの出自は、かなり異なっていた。-レフはモスクワの中流階級の出身で、彼の祖母の正教の価値観はレフの躾け方にも反映されていた。一方、スヴェータは、技術系知識人たちのもっと進歩的な世界で育ってきた。
だが二人には、多くの共通する基本的な価値と関心があった。
二人ともに、年齢にしては成熟しており、真面目で、賢く、考え方に自主性があった。そして、プロパガンダや社会的因習からというよりも自分たちの経験で形成した、開放的な探求心のある知性を持っていた。
この自立性は、のちの彼らに大きく役立つことになる。
(20) スヴェータは1949年の手紙で、自分は11歳のときどんな少女だったかを思い出している。反宗教の運動が、ソヴィエトの諸学校で頂点に達していた頃のことだ。
「学校の他の子どもたちより、私は大人びていたように思える。<中略>
その頃、私は神や宗教の問題について、とても悩んだ。
隣人たちは信仰者で、ヤラは彼らの子どもたちをいつもからかっていた。
でも、私は割って入って、信仰の自由を擁護した。
そして、神に関する問題を、自分で解決した。
-神なくして、我々は永遠のことも創造のことも、理解することができないだろう。私が神の肝心な所を見ることができないのは、神が必要とされていないということだ(神を信じる他の人々には神が必要かもしれないが、私は必要としていない)。こう、結論づけた。」
(21) レフとスヴェータはともに、その年齢の頃までに、真面目に働いて責任感をもつという気風が生んだ人間という、巧妙な作品に育っていた。
スヴェータの場合は、イワノフ家の教育の結果だった。家の多数の雑用をこなすとともに、妹のターニャの面倒を見る責任もあった。レフの場合は、必要をもたらしたのは、彼の経済的境遇だった。
レフは学校に通っていた間ずっと、祖母の少ない年金を埋め合わせるために、働かなければならなかった。
(22) まだ15歳にすぎなかった1932年、レフは夜間の仕事をしていた。それは、ゴールキ公園とソコルニキ間の、モスクワで最初の地下鉄路線の建築工事の作業だった。
彼は街路を横切るルートを測定したのち、大部分は農民移住者で成る掘削チームに加わった。彼らは、ボルシェヴィキによって強制的に集団農場に入れられるのを避けて、モスクワに溢れるほどにやって来ていたのだ。
レフは、集団化が引き起こした、次の夏の恐るべき結果を知った。
急に増えた集団農場から離れ出た人物として、彼は、ウクライナの農村地帯出身の同僚作業員と知り合いになった。その農村地帯は、ひどい飢饉に見舞わられていた。
その男は「放擲された郷土の村落、死んでいく人々、囲いの中に積み重なった死体」について、悲しい詩を書いた。
詩がもつ、感情に訴える力にレフは強い印象を受けたが、驚くべき主題にたじろいでしまった。
「なぜ、そんな恐ろしい情景を作るのですか?」と尋ねると、答えはこうだった。
「作ってなどしていない」。
飢饉が存在している。誰にも、死んだ者を埋める体力がない。
レフは衝撃を受けた。
それまで、ソヴェト権力とその政策を本当に疑ったことは一度もなかった。
彼は共産主義青年同盟であるコムソモールの一員だったし、党を信じてきた。
しかし、その作業員の言葉で、疑いの種子が撒かれた。
その年ののち、レフは生物教師が組織した校内小旅行で、モスクワ近郊の集団農場へと行った。その教師は熱心なボルシェヴィキ支持者で、「害虫に対する闘争」を演じるふりをして、農場にある遺棄された家屋を使っていた。
その家屋内には、聖職者が持っていた書物を燃やした残り滓があって、その中には、レフの祖父がかつて読んだがソヴェト体制のもとではもはや用無しの言語である、ギリシア語で書かれた聖書も含まれていた。
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