レフとスヴェトラーナ。
*オーランド・ファイジズの文章の試訳。
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第1章①。
(01) レフはスヴェトラーナを初めて見た。
モスクワ大学の入学試験に呼び込まれるために、中庭に三列を作って待っている一群の学生たちがいた。その中にすぐに、彼女に気がついたのだった。
彼女は物理学部の建物の入口に向かう道沿いに、レフの友人と一緒に立っていた。その友人はレフを手招きして、前の学校のクラス友だちだとスヴェトラーナを紹介してくれた。
二人は、学部の入口が開くまでに、一言か二言だけをを交わした。そのあと、学生の一群に加わって、階段を上り、試験が実施される大講堂に入った。
(02) 最初に逢ったときは、恋でも愛でもなかった。二人ともに、そう分かっていた。
レフはきわめて用心深かったので、簡単に恋に落ちることはなかった。
しかしそれでも、スヴェトラーナはすでに彼の注意を惹いた。
彼女は背の高さは中くらいで、ほっそりしていて暗い茶色の髪だった。顎の骨が尖っていて顎先も尖っており、青い眼は落ち着いた知性で輝いていた。
スヴェトラーナは、ソヴィエト同盟で最良の物理学の学部に入学した5-6人の女性の一人だった。レフも一緒に、別の30人の男子とともに1935年に同じ学部に入学した。
暗色の羊毛服と短い灰色のスカート。スヴェトラーナは女子学校生と同じ衣服を見にまとい、男子ばかりの雰囲気の中で目立っていた。
彼女は愛らしい声をもっていて(のちに大学合唱団で歌うことになる)、肉体的な魅力にそれを加えていた。
彼女は人気者で、活発で、ときには軽薄で、鋭い辛辣な言葉によって知られることとなった。
スヴェトラーナは自分を崇拝する男子に不足することはなかったけれども、レフについては、何か特別な思いをもった。
レフは背が高くも、体格が力強くもなかった。-彼の背の高さはスヴェトラーナよりも少し低かった。また、同世代の若い男たちのようには容貌に自信がなかった。
彼は、当時の写真全部で、いつも同じ古い上衣を着ている。-当時のロシア様式で、最上部のボタンは留め、ネクタイをしていない。
レフは、外観上は、男性というよりも、まだ少年だった。
しかし、女の子のように、柔らかい青い眼とふっくらした唇をもつ、優しくて思いやりのある顔をしていた。
(03) 第一学期の間、レフとスヴェータ(彼は彼女をこう呼び始めた)は、頻繁に逢った。
二人は講義室で一緒に並んで座り、図書館でお互いにうなづき、新進の物理学者や技術者で成る同じサークルの方へと動いた。そのサークルの者たちは学生食堂で一緒に食事をし、図書館への入口に近い学生クラブ室に集まった。そこには、ある者はタバコを喫むために、他の多くはただ脚を伸ばしておしゃべりをするためにやって来た。
(04) のちにレフとスヴェータは、友人たちのグループから離れて、劇場や映画館に行くようになる。そしてそのあと、彼は歩いて彼女の家まで送ったのだが、スヴェータの家の近くにあるプーシキン広場からポクロフスキ兵舎までの庭園大通り沿いのロマンティックなコースを選んだ。この大通りは、夕方に恋人たちが散歩するところだった。
1930年代の大学生の世界では、婚約する以前の男女関係についての伝統的な考えがまだ残っていて、ロマンティックな礼節が尊重されていた。
1917年以降のある時期には、性的な振る舞いの解放が喧伝されたけれども。
モスクワ大学では、ロマンスは真剣で純真なものだった。通常は男女二人が多くの友人たちのグループから離れてから始まり、男子が女子をその家まで送っていくことから出発する。
そのときが親密に二人きりで会話する好機で、たぶんときどきは、好みの詩を誦み合ったりする。詩は、愛に関する会話の手段として受容されていた。そして、彼女の家で別れる前には、キスをする機会があったかもしれない。
(05) レフは、スヴェータが好きになって、自分は孤独ではないと知った。
彼は、彼女を自分に紹介してくれたリャホフと一緒に、スヴェータがクレムリン近くのアレクサンドラ公園を歩いているのを見た。
レフは遠慮して、スヴェータとの関係をリャホフに尋ねなかった。しかし、ある日、リャホフが言った。「スヴェトラーナ、あんな素晴らしい娘はいない。でも、とても頭がよい。恐ろしく頭がいい」。
リャホフはそのようにして、自分が彼女の知性におじけづいていることをレフに伝えようとしたのだ。
レフはすみやかに気づいたのだが、たぶんスヴェータは気紛れで、他人に批判的で、そして、自分と同じように賢くはない人間には我慢できなかったのだろう。
(06) ゆっくりと、レフとスヴェータは親しくなった。
レフは思い出す。二人にはともに「深い好意」が芽生えた、と。
70年以上のちに自分の居間に座って、彼は最初の感情的な結びつきを思い出して、小さく微笑んだ。
つぎの言葉を選ぶまで慎重に考えていた。
「突然に恋に落ちたのではない。だが、深くて永遠につづくような親近さを感じた」。
(07) 二人はついには、お互いを恋人だと考えるようになった。
「私は他のどの女性にも一人では逢わなかったので、みんな、スヴェトラーナは自分の恋人だと分かった」。
二人のどちらにもそのことが明確になったときがあった。
ある午後、カラルメニュイのスヴェータの家近くの静かな通りを二人が歩いていたとき、彼女が彼の手を取って、「あちらに行きましょう。私の友だちに貴方を紹介するわ」と言った。
彼らは行って、スヴェータの親しい友人たちに逢った。彼女の前の学校からの友人たちで、イリーナ・クラウゼは外国語学校でフランス語を勉強していた。アレクサンドラ・チェルノモルディクは、医学生だった。
レフは、これは自分に対する彼女の信頼の証しなのだと理解した。親愛の徴しとして、自分の子ども時代の友人たちに逢わせてくれたのだ。
(08) まもなく、レフはスヴェータの家に招かれた。
イワノフ家は大部屋二つと台所のある私的な住戸を持っていた。
-これは、スターリン時代のモスクワではほとんど知られていない贅沢なことだった。モスクワの標準的な共同住宅では、一家族について一部屋で、台所とトイレは共用だった。
スヴェータと妹のターニャは、両親と一緒に一部屋で生活していた。
娘たちは、折り畳むとベッドになるソファの上で寝ていた。
娘たちの兄のヤロスラフ(「ヤラ」)は、妻のエレーナと一緒に別の部屋で生活していた。そこには大きな衣装箪笥、前面にガラスのある書籍棚、グランド・ピアノがあって、家族みんなで使っていた。
イワノフ家の住戸には、高い天井と古風な家具があった。そして、労働者国家の首都であるモスクワの知識人たちが集まる、小さな島だった。
(09) スヴェータの父親のアレクサンドル・アレクセイヴィチは50歳台半ばで、背が高くて髭を生やしていて、注意深い目と塩胡椒色の髪の毛をもっていた。
老練なボルシェヴィキで、1902年にカザン大学の学生のときに革命運動に参加した。
流刑に遭って収監されたが、のちにペテルブルク大学物理学部に再入学した。
そこで、第一次大戦の前には、化学者セルゲイ・レベデフとともに合成ゴムの開発に従事した。
1917年の十月革命の後は、ソヴィエトのゴム生産を組織する指導的な役割を果たした。
だが、1921年に、党を去った。
表向きの理由は体調の悪さだったが、実際には、ボルシェヴィキの独裁に幻滅するに至っていたからだった。
彼はその後10年間、仕事のために2回、西側を旅行した。そして、1930年に、家族とともにモスクワに転居した。
この頃は、五カ年計画がソヴィエト同盟を工業化するために施行中の真只中だった。
また、「ブルジョア専門家」に対して、スターリンの最初のテロルの大波が襲っていた。そのときに、アレクサンドルの多数の友人や仕事仲間たちが「スパイ」とか「反逆者」だとかして非難されて、射殺されるか強制労働収容所へと送られるかした。
アレクサンドルに外国旅行の経験があったことは政治的に危険だったが、彼は何とかして生き延び、ソヴィエトの工業のために仕事を続け、ロシア合成樹脂研究所の副所長にまでなった。
彼の家族には、技術と科学の精神が染み渡っていた。子どもたちはみな、技術または科学を勉強するように言われて育った。ヤラはモスクワ機械建設研究所に進み、ターニャは気象学を勉強しており、そしてスヴェータは物理学部に通っていた。
(10) スヴェータの父、アレクサンドルは、レフを歓迎して、家に招き入れた。
父親は、もう一人科学者がいるのを愉しんでいた。
スヴェータの母親は、もう少し疎遠で、控えめだった。
アナスタシアは肉づきが良くて、ゆっくり動く40歳台半ばの婦人で、手の疾患を隠すために手袋を填めていた。
彼女はモスクワ経済研究所のロシア語教師で、教育については厳格な態度をとった。
アナスタシアは眼を上げて、厚い縁の眼鏡を通してレフをじっと見つめた。
レフは長い間、母親には怯えていたが、彼とスヴェータの大学一年次の終わり頃に、全てを大きく変化させる出来事があった。
スヴェータは欠席した講義のノートを、レフから借りていた。
最初の試験のためにそれを返してもらおうとしてレフが来たとき、アナスタシアは彼に、貴方のノートはとても良いと思う、と告げた。
多大なではないが小さな、そして予期していなかった褒め言葉だった。
そして、母親の声の柔らかさで、レフは、アナスタシアに、つまりはスヴェータの家族の関門に、受け入れられた徴しだ、と感じた。
レフは思い出して言う。「私はその言葉を、彼女の家に入る合法的パスのようなものだと理解しました」。
「私はもっと足繁く、臆病にならずに、彼女たちの家を訪れました。」
試験が終わったあとの1936年の長くて暑い夏、レフは夕方になるといつもスヴェータに逢いにくることになる。そして、自転車の乗り方を教えるために、ソコロニキ公園へと彼女を連れて行く。
(11) レフがスヴェータの家族に受け入れられたことは、二人の関係にとってつねに重要な一部だった。
レフには直属の家族がなかった。
彼は1917年1月21日に生まれた。-世界を永遠に変えた二月革命の激変の直前だ。
母親のヴァレンティナは小さな地方の公務員の娘で、幼いときに両親を喪ったあと、モスクワにいた二人の叔母に育てられた。
彼女は市立学校の一つで教師をしていて、そのときに、レフの父親と会った。
父親のグレブ・ミシュチェンコはモスクワ大学物理学部の卒業生で、そのときは、技師になるために鉄道研究所で勉強していた。
ミシュチェンコとは、ウクライナの名前だった。
グレブの父のフョードルは民族主義ウクライナ知識人の中の著名な人物で、キエフ大学で言語学の教授をしており、また、古代ギリシアの文章のロシア語への翻訳家だった。
十月革命後、レフの両親はシベリアのベリョゾボという、トボルスク州の小さな町に引っ越した。その町のことを、鉄道技師としての調査旅行で知ったのだった。
ベリョゾボは、18世紀以来の流刑地として、ボルシェヴィキ体制から遠く離れた場所で、比較的に豊かな農業地域にあった。
また、モスクワにテロルと経済的な破滅を持ち込んだ内戦(1917-21年)を避けることのできる、良い位置にあったように見えた。
家族はヴァレンティナの叔母とともに、大きな農民家庭の家屋の一室を借りて生活した。
父のグレブは学校教師と気象学の仕事を見つけ、母のヴァレンティナも教師として働いた。
レフは、母親の叔母のリディアによって育てられた。彼はこの叔母を「祖母」と呼んだ。
彼女はレフに童話を語り聞かせ、神への祈りを教えた。レフは、生涯にわたって、このことを憶えていた。
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②へとつづける。
*オーランド・ファイジズの文章の試訳。
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第1章①。
(01) レフはスヴェトラーナを初めて見た。
モスクワ大学の入学試験に呼び込まれるために、中庭に三列を作って待っている一群の学生たちがいた。その中にすぐに、彼女に気がついたのだった。
彼女は物理学部の建物の入口に向かう道沿いに、レフの友人と一緒に立っていた。その友人はレフを手招きして、前の学校のクラス友だちだとスヴェトラーナを紹介してくれた。
二人は、学部の入口が開くまでに、一言か二言だけをを交わした。そのあと、学生の一群に加わって、階段を上り、試験が実施される大講堂に入った。
(02) 最初に逢ったときは、恋でも愛でもなかった。二人ともに、そう分かっていた。
レフはきわめて用心深かったので、簡単に恋に落ちることはなかった。
しかしそれでも、スヴェトラーナはすでに彼の注意を惹いた。
彼女は背の高さは中くらいで、ほっそりしていて暗い茶色の髪だった。顎の骨が尖っていて顎先も尖っており、青い眼は落ち着いた知性で輝いていた。
スヴェトラーナは、ソヴィエト同盟で最良の物理学の学部に入学した5-6人の女性の一人だった。レフも一緒に、別の30人の男子とともに1935年に同じ学部に入学した。
暗色の羊毛服と短い灰色のスカート。スヴェトラーナは女子学校生と同じ衣服を見にまとい、男子ばかりの雰囲気の中で目立っていた。
彼女は愛らしい声をもっていて(のちに大学合唱団で歌うことになる)、肉体的な魅力にそれを加えていた。
彼女は人気者で、活発で、ときには軽薄で、鋭い辛辣な言葉によって知られることとなった。
スヴェトラーナは自分を崇拝する男子に不足することはなかったけれども、レフについては、何か特別な思いをもった。
レフは背が高くも、体格が力強くもなかった。-彼の背の高さはスヴェトラーナよりも少し低かった。また、同世代の若い男たちのようには容貌に自信がなかった。
彼は、当時の写真全部で、いつも同じ古い上衣を着ている。-当時のロシア様式で、最上部のボタンは留め、ネクタイをしていない。
レフは、外観上は、男性というよりも、まだ少年だった。
しかし、女の子のように、柔らかい青い眼とふっくらした唇をもつ、優しくて思いやりのある顔をしていた。
(03) 第一学期の間、レフとスヴェータ(彼は彼女をこう呼び始めた)は、頻繁に逢った。
二人は講義室で一緒に並んで座り、図書館でお互いにうなづき、新進の物理学者や技術者で成る同じサークルの方へと動いた。そのサークルの者たちは学生食堂で一緒に食事をし、図書館への入口に近い学生クラブ室に集まった。そこには、ある者はタバコを喫むために、他の多くはただ脚を伸ばしておしゃべりをするためにやって来た。
(04) のちにレフとスヴェータは、友人たちのグループから離れて、劇場や映画館に行くようになる。そしてそのあと、彼は歩いて彼女の家まで送ったのだが、スヴェータの家の近くにあるプーシキン広場からポクロフスキ兵舎までの庭園大通り沿いのロマンティックなコースを選んだ。この大通りは、夕方に恋人たちが散歩するところだった。
1930年代の大学生の世界では、婚約する以前の男女関係についての伝統的な考えがまだ残っていて、ロマンティックな礼節が尊重されていた。
1917年以降のある時期には、性的な振る舞いの解放が喧伝されたけれども。
モスクワ大学では、ロマンスは真剣で純真なものだった。通常は男女二人が多くの友人たちのグループから離れてから始まり、男子が女子をその家まで送っていくことから出発する。
そのときが親密に二人きりで会話する好機で、たぶんときどきは、好みの詩を誦み合ったりする。詩は、愛に関する会話の手段として受容されていた。そして、彼女の家で別れる前には、キスをする機会があったかもしれない。
(05) レフは、スヴェータが好きになって、自分は孤独ではないと知った。
彼は、彼女を自分に紹介してくれたリャホフと一緒に、スヴェータがクレムリン近くのアレクサンドラ公園を歩いているのを見た。
レフは遠慮して、スヴェータとの関係をリャホフに尋ねなかった。しかし、ある日、リャホフが言った。「スヴェトラーナ、あんな素晴らしい娘はいない。でも、とても頭がよい。恐ろしく頭がいい」。
リャホフはそのようにして、自分が彼女の知性におじけづいていることをレフに伝えようとしたのだ。
レフはすみやかに気づいたのだが、たぶんスヴェータは気紛れで、他人に批判的で、そして、自分と同じように賢くはない人間には我慢できなかったのだろう。
(06) ゆっくりと、レフとスヴェータは親しくなった。
レフは思い出す。二人にはともに「深い好意」が芽生えた、と。
70年以上のちに自分の居間に座って、彼は最初の感情的な結びつきを思い出して、小さく微笑んだ。
つぎの言葉を選ぶまで慎重に考えていた。
「突然に恋に落ちたのではない。だが、深くて永遠につづくような親近さを感じた」。
(07) 二人はついには、お互いを恋人だと考えるようになった。
「私は他のどの女性にも一人では逢わなかったので、みんな、スヴェトラーナは自分の恋人だと分かった」。
二人のどちらにもそのことが明確になったときがあった。
ある午後、カラルメニュイのスヴェータの家近くの静かな通りを二人が歩いていたとき、彼女が彼の手を取って、「あちらに行きましょう。私の友だちに貴方を紹介するわ」と言った。
彼らは行って、スヴェータの親しい友人たちに逢った。彼女の前の学校からの友人たちで、イリーナ・クラウゼは外国語学校でフランス語を勉強していた。アレクサンドラ・チェルノモルディクは、医学生だった。
レフは、これは自分に対する彼女の信頼の証しなのだと理解した。親愛の徴しとして、自分の子ども時代の友人たちに逢わせてくれたのだ。
(08) まもなく、レフはスヴェータの家に招かれた。
イワノフ家は大部屋二つと台所のある私的な住戸を持っていた。
-これは、スターリン時代のモスクワではほとんど知られていない贅沢なことだった。モスクワの標準的な共同住宅では、一家族について一部屋で、台所とトイレは共用だった。
スヴェータと妹のターニャは、両親と一緒に一部屋で生活していた。
娘たちは、折り畳むとベッドになるソファの上で寝ていた。
娘たちの兄のヤロスラフ(「ヤラ」)は、妻のエレーナと一緒に別の部屋で生活していた。そこには大きな衣装箪笥、前面にガラスのある書籍棚、グランド・ピアノがあって、家族みんなで使っていた。
イワノフ家の住戸には、高い天井と古風な家具があった。そして、労働者国家の首都であるモスクワの知識人たちが集まる、小さな島だった。
(09) スヴェータの父親のアレクサンドル・アレクセイヴィチは50歳台半ばで、背が高くて髭を生やしていて、注意深い目と塩胡椒色の髪の毛をもっていた。
老練なボルシェヴィキで、1902年にカザン大学の学生のときに革命運動に参加した。
流刑に遭って収監されたが、のちにペテルブルク大学物理学部に再入学した。
そこで、第一次大戦の前には、化学者セルゲイ・レベデフとともに合成ゴムの開発に従事した。
1917年の十月革命の後は、ソヴィエトのゴム生産を組織する指導的な役割を果たした。
だが、1921年に、党を去った。
表向きの理由は体調の悪さだったが、実際には、ボルシェヴィキの独裁に幻滅するに至っていたからだった。
彼はその後10年間、仕事のために2回、西側を旅行した。そして、1930年に、家族とともにモスクワに転居した。
この頃は、五カ年計画がソヴィエト同盟を工業化するために施行中の真只中だった。
また、「ブルジョア専門家」に対して、スターリンの最初のテロルの大波が襲っていた。そのときに、アレクサンドルの多数の友人や仕事仲間たちが「スパイ」とか「反逆者」だとかして非難されて、射殺されるか強制労働収容所へと送られるかした。
アレクサンドルに外国旅行の経験があったことは政治的に危険だったが、彼は何とかして生き延び、ソヴィエトの工業のために仕事を続け、ロシア合成樹脂研究所の副所長にまでなった。
彼の家族には、技術と科学の精神が染み渡っていた。子どもたちはみな、技術または科学を勉強するように言われて育った。ヤラはモスクワ機械建設研究所に進み、ターニャは気象学を勉強しており、そしてスヴェータは物理学部に通っていた。
(10) スヴェータの父、アレクサンドルは、レフを歓迎して、家に招き入れた。
父親は、もう一人科学者がいるのを愉しんでいた。
スヴェータの母親は、もう少し疎遠で、控えめだった。
アナスタシアは肉づきが良くて、ゆっくり動く40歳台半ばの婦人で、手の疾患を隠すために手袋を填めていた。
彼女はモスクワ経済研究所のロシア語教師で、教育については厳格な態度をとった。
アナスタシアは眼を上げて、厚い縁の眼鏡を通してレフをじっと見つめた。
レフは長い間、母親には怯えていたが、彼とスヴェータの大学一年次の終わり頃に、全てを大きく変化させる出来事があった。
スヴェータは欠席した講義のノートを、レフから借りていた。
最初の試験のためにそれを返してもらおうとしてレフが来たとき、アナスタシアは彼に、貴方のノートはとても良いと思う、と告げた。
多大なではないが小さな、そして予期していなかった褒め言葉だった。
そして、母親の声の柔らかさで、レフは、アナスタシアに、つまりはスヴェータの家族の関門に、受け入れられた徴しだ、と感じた。
レフは思い出して言う。「私はその言葉を、彼女の家に入る合法的パスのようなものだと理解しました」。
「私はもっと足繁く、臆病にならずに、彼女たちの家を訪れました。」
試験が終わったあとの1936年の長くて暑い夏、レフは夕方になるといつもスヴェータに逢いにくることになる。そして、自転車の乗り方を教えるために、ソコロニキ公園へと彼女を連れて行く。
(11) レフがスヴェータの家族に受け入れられたことは、二人の関係にとってつねに重要な一部だった。
レフには直属の家族がなかった。
彼は1917年1月21日に生まれた。-世界を永遠に変えた二月革命の激変の直前だ。
母親のヴァレンティナは小さな地方の公務員の娘で、幼いときに両親を喪ったあと、モスクワにいた二人の叔母に育てられた。
彼女は市立学校の一つで教師をしていて、そのときに、レフの父親と会った。
父親のグレブ・ミシュチェンコはモスクワ大学物理学部の卒業生で、そのときは、技師になるために鉄道研究所で勉強していた。
ミシュチェンコとは、ウクライナの名前だった。
グレブの父のフョードルは民族主義ウクライナ知識人の中の著名な人物で、キエフ大学で言語学の教授をしており、また、古代ギリシアの文章のロシア語への翻訳家だった。
十月革命後、レフの両親はシベリアのベリョゾボという、トボルスク州の小さな町に引っ越した。その町のことを、鉄道技師としての調査旅行で知ったのだった。
ベリョゾボは、18世紀以来の流刑地として、ボルシェヴィキ体制から遠く離れた場所で、比較的に豊かな農業地域にあった。
また、モスクワにテロルと経済的な破滅を持ち込んだ内戦(1917-21年)を避けることのできる、良い位置にあったように見えた。
家族はヴァレンティナの叔母とともに、大きな農民家庭の家屋の一室を借りて生活した。
父のグレブは学校教師と気象学の仕事を見つけ、母のヴァレンティナも教師として働いた。
レフは、母親の叔母のリディアによって育てられた。彼はこの叔母を「祖母」と呼んだ。
彼女はレフに童話を語り聞かせ、神への祈りを教えた。レフは、生涯にわたって、このことを憶えていた。
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②へとつづける。