アントニオ・R・ダマシオ/田中三彦訳・デカルトの誤り-情動・理性・人間の脳(ちくま学芸文庫、新訳2010・原版2000/原新版2005・原著1994)。
 =Antonio R. Damasio, Descartes' Error: Emotion, Reason and the Human Brain.
 上の書物については、「池田信夫のブログマガジン」に言及する中で、この欄ですでに2回触れた。しかし、内容の紹介または読書メモには至っていない。
 適宜、興味深い部分を抜粋・要約または一部引用する。引用は原則として邦訳書による(微細に修正している部分がある)。
 まずは「序文」だが、これは原著(1994年)のそれで、<新版へのまえがき>ではない。
 要約、引用等はこの欄の執筆者の関心と能力によるので、適切であるとは限らない。また、内容のある程度の専門科学性にもよるだろうが、「第一の話題」と明記してくれている部分は(言葉上は)ないなど、元々完璧に読みやすい文章ではないようにも感じる。
 番号は秋月が勝手に付したもので、原文にはない。
 英語書を参照して、適宜、原語を〔〕で示す。
 なお、「情動」と「感情」は相互排他的な言葉ではないようだ。<新版へのまえがき>ではほぼ「情動」だけが用いられている。
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 序文(初版、1994年)〔Introduction〕。
  第一の話題は、フィネアス・ゲイジ[Phineas Gage]という男性の事例とそれを契機とする考察だ。
 この事例から、「感情が理性という仕組みの不可欠な要素ではないか」と感じた。
 本書で提示したい考え方の第一は「情動や感情」[emotion, feeling]と「理性」[reason]の関係だ。おそらくはこう言える。
 「人間的な理性の戦略は、進化においても、そして一人の人間においても、生体調節機構[the mechanisms of biological regulation]という誘導的な力なしには発達しなかった。そして、その生体調節機構の顕著な表現が情動と感情である」。
 「その戦略の効果的な展開は、かなりの程度まで、感情を経験する持続的な能力に依存している」。
 もう少し語ろう。「情動と感情」は「理性」・「推論」[reasoning]に悪影響を及ぼし得ることを否定しないが、一方で、前者の欠如が後者に悪影響を及ぼし得るということも、「驚くべき、新しい」知見だ。
 「情動と感情」に注目することによって、人間は「理性」的でないと主張するのではない。「情動と感情のプロセスのある種の側面は合理性[rationality]にとって不可欠である」と提示するだけだ。
 我々の将来には「不確実さ」[uncertainty]がある。「そのとき情動と感情が、その基礎にある生理学的仕組み[physiological machinery]と一体となって、不確かな将来を予測し、それを基礎にして我々の行動を計画するという厄介な仕事を助ける」。 
  本書では、①「合理性障害と特定の脳損傷との関係」を最初に明らかにしたゲイジの事例を分析し、②同事例と最近の研究が示す「人間と動物の神経生理学[neuropsychological]研究」上の関連事実を概観し、③つぎの考え方を提示する。
 すなわち、「人間の理性は一つの脳中枢[brain center]に依存するのではなく、多様なレベルでの神経組織[neuronal organization]を介して協調して機能するいくつかの脳システムに依存している」=「前頭前皮質[prefrontal cortices]から視床下部[hypothalamus]や脳幹[brain stem]まで、『上位』脳領域と『下位』脳領域が協力して理性を生み出している」。
 上に言う「下位」レベルの「神経組織」は、「情動や感情のプロセスや有機体の生存に必要な身体機能[body functions]を調節する」ものと「ずばり同じ」だ。これは、「事実上すべての身体器官[bodily organ]と直接的相互的な関係を保っている」。よって、「身体は、推論、意思決定、そして社会的行動や創造性という最上位のものを生むという作用の連鎖の中に、直接に置かれている」。
 「情動、感情、生体調節」は「人間的理性」においてそれぞれ一定の役割を果たしている。=「我々有機体[our organism]の下位の指令[lowly orders]が、上位の理性のループの中に存在する」。
  ダーウィンの記述に、人間の「心的作用」[mental function]に「進化の過去の影が存在する」旨があるのは興味深い。但し、上位の理性が下位に変化するわけではなく、例えば「倫理原則」[ethical principle]に脳内の「単純な回路の関与」が必要だとしても「倫理原則」の価値は下がらない。
 変化してよい可能性があるのは、「同じような生物学的習性[biological disposition]を有する多くの人間が特定の環境の中で相互作用するとき、ある社会的背景の中で生じる倫理的原則の起源に生物的要素はどのように寄与してきたか」に関する我々の見方だ。
  本書の「第二の話題」は「感情」だ。
 「感情」は「人間の特質と環境との適合または不適合に対するセンサー」だ。
 この「特質」[nature]とは、①「遺伝的に構築され我々が受け継いだ一群の適応[adaptations]という特質」と②意識的か否かを問わず「社会的環境との相互作用をとおして我々が個人的な成長の中で獲得してきた特質」の両者を意味する。
 我々は「感情」を通して「生物学的な活動の只中にある有機体の姿」を見る。本来的な苦楽が定められた「身体状態」[body state]を感じ取れなければ、「人間の条件[human condition]には苦悩も至福も、切望も慈悲も、悲劇も栄光もない」。
 「複雑精緻なメカニズム」を知れば「驚異の念は増す」。「感情[feelings]は、人類が何千年ものあいだ、人間的な精神や魂[soul or spirit]と呼んできたものに対する基礎」を形成している。
  本書の「第三の話題」は、「脳の中に表象される身体[body]が、我々が心[mind]だとして経験する神経プロセス[neural processes]の不可欠の基準[frame of reference]を構成していること」だ。「人体という有機体そのもの」が、外周「世界」の他に「常在的な『主観の感覚』を構築するための基準」として、つまり我々の「洗練された思考、最善の行動、この上ない喜びや悲しみ」全ての「基準」として、使われている。
 上の考え方は、以下を基礎とする。①「人間の脳と身体は分かつことのできない一個の有機体[organism]」であり、「相互に作用し合う生物学的および神経的な調節回路[biochemical and neural regulatory circuits](内分泌、免疫、自律神経的要素を含む)によって統合[integrate]されている」。
 ②「この有機体は、一個の総体として環境と相互作用している」。身体または脳のいずれかの相互作用ではない。
 ③我々が「心[mind]と呼んでいる生理学的[physiological]作用は、その構造的・機能的総体に由来する」のであり「脳のみに由来するのではない」。「心的現象」は「有機体という文脈」でのみ「完全に理解可能」なものだ。
  「いまや心がニューロン〔神経細胞[neuron]〕の活動から生じていることは明白だから、まるでニューロンの作用が有機体の他の部分から独立しているかのよう」に語られる。しかし、「脳を損傷」した多数患者を診るにつれて、「心的活動[mental activity]は、ごく簡単なものからきわめて精緻なものまで、脳と身体の双方を必要としているという考え方」を抑えられない。
 「身体の優先性」[body precedence]から出発すると、我々は「どのようにして周りの世界を意識[concious]」するのか、我々は「認識しているもの」や我々が「認識」しているということを、どう「認識」[know]するのか、といった問題を解明できる可能性がある。
 「愛や憎しみや苦悩、優しさや残忍さ、科学的問題の計画的解決や新しい人工物の創造」は全て「脳の中の神経活動」に依拠するが、それは「脳が過去から現在まで、かつ現在もなお、身体と相互作用している」ことを前提とする。「苦しみ」は、始まりが「皮膚の中」であれ「心象」[mental image]であれ、「すべて肉体[flesh]の中で起きる」。
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 以上。